マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

御心のままに

2019年07月05日 | キリスト教

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。

       しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
                            
                           ルカ 22章 42節

汗が血の滴るように地に落ちたと書いてあります。その祈りが全身全霊を注ぎだした祈りであったことがわかります。

昔、賀川豊彦さんも、シャツ血の斑点が付いた経験があると書いてあるのを読んだことがります。

また一度に大きな力を出した人の肌着が橙色になった話も聞いたことがあります。

逃げれば逃げれたのに、あえて逃げなかったのは、「わたしの思いではなく、御心がなりますように」

と言う神への絶対服従があったからだと思います。神の子のこの苦しみがあって、私たちは罪は赦されたのです。

そのように愛されていることをお忘れてえ互いに傷つけあっている弱い私たちを今日も使える心、

赦す心を忘れないで歩ませていただきましょう。

ここでも、イエス自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。

イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、十字架での苦しみを示しています。

みこころならば、取り除けてください。と。


つまり、わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、取りのけてください、ということです。

もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、取りのけてください、

ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。

つまり、どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。

人はそれを認めたくありません。ペテロのように、「いや、自分でやってみる。」と思いたいのです。

けれども、キリストの十字架は、人は何も善いところがない堕落した罪人であり、

自分では救いようのない存在であることを教えています。


ヘブル 2:18
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする