「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、
それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』。」
アモス 8章 11節
そこに御言葉はあるのに、牧師が体験したこの世的な他の話に取って代えられているのです。
神のみ言葉に、違う面白い話に変えられているのです。人の関心をひくために、あるいは、教会員に配慮をして。
また間違った教会成長という誘惑に駆られて。説教壇で御言葉が宣言されず、ただの人間の言葉が数多く語られているのです。
いつか、まったく御言葉が聞けなくなる時が来ます。いやもうこの飢饉は始まっているかもしれない。
真実に神のみ言葉に耳を傾ける者だけが、この聖書のみ言葉で満ち足り養われる時代になっているのかもしれない。
教会はまっすぐに神のみ言葉を足しもしない、引きもしないで語られるように願う。
また「人はパンだけで生きるのではない」、パンと水の欠乏は肉の生命を脅かすが、
神の言葉の欠乏は霊の生命を滅ぼす。神の言葉を見失った典型がニヒリズムではないでしょうか。
ニヒリズムは「神はいない、絶対的な真理はない、死んだらすべては終わる」と考える。
「すべてが空しい」というニヒリズムを徹底すると、そのプロセスの過程で心身を病み、自殺するしかなくなる。
「神の言葉の欠乏」は、人間を「生きたまま死なす」災いです。
日々、みことばを聞く事によって、心と魂は探られ、清められ、励まされ、生かされています。
これが途絶えるなら、命を失うでしょう。今日も、み言葉によって養われますが、
その恵みをどれほど感謝しているでしょうか。
みことばを聞けなくなるときが必ずきます。心引き締めて、み言葉を聞きましょう。
申命記 8:3
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
申命記 28:48
「あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。
敵はあなたに鉄の首枷をはめ、ついに滅びに至らせる。
詩編 34:11
「若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。」
詩編 107:9
「主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」