そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、
彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 マタイ 25章 32~33
文豪トルストイが書いている 「 靴屋のマルチン 」 というお話があります。
ある晩イエスが、明日お前に会いに行くと言われました。しかし当のイエスはなかなか姿を見せませんでした。
その日マルチンは、雪かきの老人に暖かいお茶を勧め、幼児を背負って凍えそうになっていた貧しい母親に冬服を与えます。
それでもイエスは姿を見せませんでした。ところがその晩、イエスはマルチンに私は今日お前のところに行ったよと言われ
びっくりします。「 今日してくれたことはみな私にしてくれたことだよ 」 とイエスは言われたのです。
わたしちはこう思うことがあります。「 助ける相手がイエスであったら、私は喜んですべてを投げ出してでも助けたことでしょう。
でも、普通の人だったので、助けなくってもよい 」 と考えたことはありませんでしょうか。
人を助けることについての真理。
まず、目立たない助け、そして、意識しない助け、それらは、イエスを助ける事であり、人をしりぞけることは、
イエスを拒否ししりぞけると言うことです。
聖書から少し
「・・・、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。
その人は決して報いに漏れることはありません。」 マタイ 10:42
「そうして、王は、その右にいる者たちに言いますさあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」 マタイ 25:34
「 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」 コロサイ 3:23
私たちの信仰が日常生活において実践されることです。信仰と愛とは決して別なものではないからです。
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