マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神を褒め称えよ

2024年05月24日 | キリスト教

息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。 」

                                詩編 150編 6節

 

「 神を賛美することによって、世界の意味が満たされるのであり、神の力の豊かさをほめ歌うことによって

天と地の相異なる二つの声が力強いシンフォニーによる讃美へと一つに結ばれるのである。 」 

                                                                                A・ヴァイザ―


詩編の最初の言葉は、「 アシュレー」 ( 幸いなことよ。) でしたが。


最後は「 息のあるものはみな、主( ヤハ) ほめたたえよ 」で閉じています。

 

この最後の詩編で、私たちに讃美の総動員をかけています。

どうして聖書は 「 神をほめよ 」「 神を賛美せよ 」 というのでしょうか。


第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮と言う代価によって救われた私たちが

「 喜んで 」 いたら、神は本当に喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛している者たちが、うなだれて、

悲しんでいるなら、神も悲しまれるでしょう。

 


第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。( テクニック的なことではなく )

神様に祈るとき、ただ、純粋に神を賛美し感謝することによって、今迄の私たちの神に対する姿勢が、

「 どうか、どうか 」 だけだったことが分かります。

 


私たちは、たとえピッコロのような小さな楽器であっても、

ひとり子イエス・キリストまで犠牲にして私たちを赦してくださる神を、心一杯讃美すべきです。

父は私たちの嬉々とし、楽しんでいる子の喜ぶ顔を見たいのです。

 

                  ハレルヤ アーメン

           


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする