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早乙女勝元さん「こうして戦争は始まったのです」

2014-10-21 22:24:02 | 平和・9条

 特定秘密保護法・集団的自衛権行使容認

「秘密保護法を考える女子会@足立」主催で「早乙女勝元が未来に継ぐ 束京リアル こうして戦争は始まった」講演会が10月12日 (日)に聞かれました。
 早乙女勝元さんは冒頭マララさんのノーベル平和賞をお祝いし、「来年、戦後70年の節目に、ぜひ憲法九条をノーベル平和賞に」と、いつもの静かな口調で話し出されました。(以下お話の概要を掲載)


負けた時は死ぬ時と思わされていた終戦の時13才だった早乙女さん。ラジオ放送が何を言っているかよくわからなかった。しかし「聖戦」に敗けた時は死ぬのだと思わされていたので、生きて戦後を迎えたことが不思議な気がした。

「平和」を実感したのは、灯火管制が解除になった時と、翌年日本国憲法が公布された時でした。
「あの戦争がどうして起きたのだろう」と母に尋ねると、「何となく知らないうちになっちゃっていたんだよ」という答えでした。

当時は大本営発表ばかり。そんな中でどうして真実が見抜けるだろうか。ここに 「秘密保護法」の恐ろしさがあります。

あれが「自衛のための戦争」だったのか

昭和19年‥1月から戦争の状況がガラリと変わった。国土が戦場になり、空襲が始まった。これまで幾度も戦争を経験した日本ですが、元寇(げんこう)以外他国が襲ってきたことはこのときまで一度もなかった。だからあれが「自衛のための戦争だった」という考え方はおかしい。

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来ともいう。

空襲は初めは軍需工場を狙ったが、昭和20年には無差別爆撃に変わりました。そして3月10日の「東京大空襲」。まるで規模が違った。一夜にして、それもたった2時間と少しの間に10万人余りの人々の命が失われた。

我が子を守ろうとした2人のお母さんの話が読み上げられ、皆涙しました。
足立でも4月と5月に空襲があり、当時の人口17万のうち6万5千人が罹災した。昭和20年の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳。…こんなにも若い!一同驚きました。


「あのときが日本の歴史の曲がり角だったんだ」にさせない

今、黙っていたら 戦争を認めることに物騒な国があるから、ある程度の武装は必要と考える人もあるが、武力に限っていえば「程々の区切り」などない。武器を持っと人間は人間でなくなる。「平和とは、ごく当たり前で穏やかな日常です」。

戦争は、それ自体はたいしたことではなくても少しずつの積み重ねが行われ、ある日戦争になります。黙っていたのでは認めたことになる。少しずつでも声を上げていかなければなりません。後から、「あの時が日本の歴史の曲がり角だった」とならないように。

最後に、長崎で被爆された医師永井隆さんの我が子への言葉「たった二人だけになっても憲法を守る声を上げ続けてほしい」という言葉でお話を締めくくられました。 足教組ニュース NO.9193号より