ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

村上龍と”まっすぐな世界”

2006-11-10 03:05:20 | その他の評論

 世の中には、キチンとした世界が好きな、というか世界がキチンとしているべきだと考えている作家がいる。いや、世界はキチンとするのが可能と考えている、というべきか。村上龍の話をしようとしているわけだが。

 彼は、坂本龍一との対談で、キュ-バ音楽を称賛しつつ、こう言った。「キュ-バのミュ-ジシャンの素晴らしいのは、気まぐれに、ほんのちょっとしたセッションを仲間うちでする際にも、キチンとアレンジを譜面に書き、それに則して演奏する所だ」と。
 大学でクラシック音楽を学んだ者である坂本もそれに同意し、対談はひとしきり、簡単な打合せだけでダラダラと始められてしまう、いい加減な音楽への罵倒で埋められた。
 簡単な打合せだけで、気合一発、始めてしまう音楽を聞くのも演奏するのも好きな私としては、まことに居心地の悪い思いをしたものだったが。

 彼は、そのようにキチンと統制のとれた世界への渇望を、たびたび公表している。
 たとえば、もうずっと以前の事であるが「あなたに子供が生まれたら、どのような音楽を聞かせたいか?」の問いに、「キチンとした古典音楽」と回答しているし、また、たとえば「テニスボ-イの憂鬱」なる作品では、愛好するテニスのようにキチンとしたル-ルに、現実世界が則って動いていない事を不満に思う主人公を設定している。

 逆の性向を持つ私には、その辺の実感がよく理解できないのだが、彼はどうやら、世界がキチンとしていないと不快に、あるいは不安になる人物のようだ。
 まあ、別にそれが正しいの正しくないの、などと述べるつもりもない。そんな事は、世界が「正しい」と「間違っている」に明確に二分できて、キチンと整理が可能と信じている人のやる事だから。

 ところで、彼が最近行っている経済関係者との論議なのだが、あれも結局は「経済」のものさしを借りて、世界をキチンと読み解き、キチンと理解の可能な形で(彼自身の意識のうちに)並べ変えようという、無意識の試みなのではあるまいか。経済は数字であり、冷厳な現実であるから、それを正確に読み解く事が出来れば、混乱した世界は自分好みのキチンとした形に収拾される筈だと、おそらく彼は信じている。

 無益な試みだと思うけど。だって世界はこれまで、一度だってキチンなどしていた事はなかったし、これからだってそうなのだから。本来、歪んだ世界に、いくら真っ直ぐなモノサシをあてたって、その計測は不可能だろう。
 だけどなあ、あの性分のヒトは、「計測がうまく行かないのは、モノサシの精度が足りないせいだ」とか言って、もっと真っ直ぐなモノサシを持ってきちゃうのよな・・・