驚愕の日本史① 明治維新 それは日本の解体のはじまり  - 遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
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 《この記事はなぜか UPできなかったのですが ...妨害?  なんとか UPできそうです さりながら ジャンルが でぶねこになってしまいます、失礼な話だ》

 

 

このブログでは ゲンパツ 放射能 以外 のさまざまな問題をおいています。

たとえば グローバル経済 日本の歴史 ....そうしたものは今 日本が置かれている状況と密接な関係があります。

すでに種子ははるか過去に撒かれていて.....「今」がある。わたしたちが学校で学んだ歴史とは 今 メディアが

声高に叫んでいる 汚染の実情 政界財界の実情 世界の動向 とおなじくらい うそっぱちなのです。

明治維新とはいったいなんであったか.... 何度か 紹介してきましたが あらためて 考えていきたいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=wivfNPEtDV4

http://www.youtube.com/watch?v=EShQLaFQjx4

 できたら 動画をとおして ごらんください。

日本という国の解体は明治維新からはじまっていた....

 

日本の写真の開祖と云われる上野彦馬氏のスタジオ撮影による「フルベッキと教え子達」とされており、被写体全員に氏名が書き込まれている。

この写真を捏造というひともいるが どうすればこのように捏造できるのかやってみてください。

中央の外国人がフルベッキ  フルベッキはオランダ系アメリカ人 いわゆる改宗ユダヤ人系であると思われる。モラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校で蘭・英・独・仏語を習得している。

 その斜め左下 40番 明治天皇としるされたのはなぜか。

     

 

京都の騒乱のとき卒倒したと伝えられる神経の濃やかな孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が、朝廷のある京を離れて「刀と丁髷」姿で討幕派志士達と共にいること自体がありえない。この疑問をどう解くべきか。現在脚光を浴びつつある「明治天皇すり替え説」をもってすれば解け、被写体は「大室寅之祐」とすれば辻褄が合う。「フルベッキ写真」は「この写真はフルベッキ博士が宗教記録として所持し、絶対に手放さなかったものである」理由も分かる。

 

孝明天皇は攘夷 佐幕派だった

明治天皇の父 考明天皇は公武合体派であり、徹底した攘夷派でした。孝明天皇は皇女和宮の兄にあたり その夫である将軍とも仲がよく京都守護職であった松平容保を非常に信任してもいました。倒幕派にとっては非常に邪魔な存在であったわけです。

さて 伊藤博文は幕末に英国留学をしています。そして英国の駆逐艦に乗せられて帰国します。欧米の偉い人から見れば 一介の蛮国の若者であった博文がなぜそのような厚遇を受けたのでしょうか?伊藤博文は力士隊を組織していました。そして大室寅之祐はその一員でありました。岩倉具視の妹 堀川紀子は孝明天皇の愛人でした。孝明天皇は天然痘に罹患されましたが 症状がよくなったので 堀川紀子の屋敷に向かいます。そして 厠に入り 用をたそうとされたとき隠れていた刺客に下から槍か刀で刺されました。36歳の若さでした。

歴史作家の南原範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)は、御殿医で当日突然呼び出され絶命した孝明天皇を診察した。その事実を詳細に記録した日記が残されている、との説もある。それによれば、次のように記述されている。 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣 を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上 に向かって突き上げられた 格好」。 土肥十一郎氏は、その40歳位の貴人を「お上」と断言し、槍による刺殺と検視している。だれが孝明天皇を手にかけたか?動画では伊藤博文といわれている。なぜか わずか半年前にやはり公武合体であった徳川家茂はわずか20歳で突然倒れなくなっていました。開国派にとって 邪魔者がひとり残っていました。

孝明天皇崩御後 睦仁親王が明治天皇として即位するのですが  8ヵ月後 宮廷に猿が入れられ ひっかかれケガをされます。その湿布に毒が入っていたのか 生母 中川慶子邸に布でぐるぐる巻きにされたご遺体が届けられます。

東京遷都の詔勅は出ていない

http://teikoku-denmo.jp/

「明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる『東京奠都』(東京遷都)ですが、この京都から東京への『遷都』の際、明治天皇は『ちょっと(東京へ)行って来る』と言って、京都を出たと言います。『ちょっと行って来る」と言う以上、当然、『暫くしたら(京都へ)帰って来る』と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への『遷都』では無く、せいぜい『行幸』程度にしか考えていなかったと言えます。又、『東京遷都』に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、『何時いっか何処々々に都を遷す』と宣言するもので、いわゆる『遷都の詔勅』と呼ばれるものです。この『遷都の詔勅』は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、『東京遷都』に際して、明治天皇は『遷都の詔勅』を発してはいないのです。
更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ『遷都』したにも関わらず、東京を『首都』とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への『遷都』は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は『遷都の詔勅』と言う『お墨付き』の無い中途半端な都だと言えるのです。」

なぜ 東京に遷都したか。強力な中央集権国家をつくるとともに 京都では 睦仁親王 = 最初の明治天皇が知られすぎていたからかもしれません。

いくつかの傍証

①明治天皇の生母であるはずの中山慶子の墓参りがなされていない。

②明治神宮に祀られるとき 本来なら昭憲皇后のはずだが 皇太后になっている、これは大正天皇の指示という。

③近衛文麿総理の遺言は「昭和天皇は南朝だ」でした。

④伊勢定住の荒木田系久邇宮のひ孫(伊勢神宮神号掛け軸の書道家)が祖父(朝彦さんの男子)から直接聞いた話その祖父は東京の家から明治天皇が亡くなる時、明治天皇の遺言を枕元で「うちは、本当は南朝だ」と明治天皇からきき家族に話した。

以上のことから 北朝は途絶えたと見るのが妥当のようです。明治天皇は生前 御自ら 南朝こそ正統であるとおっしゃっていました。

天皇は神聖にして侵すべからず 伊藤博文が中心になってさだめた第日本帝国憲法...... 伊藤博文はなにがあっても天皇を祭り上げねばならなかったのです。


フルベッキとは何者か

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm より転載

1860(万延元)年、キリスト教布教のかたわら塾を開いて日本の青年たちに英学を教える仕事を始めた。禁教下の日本では表立っては布教活動はできなかったが、幕末維新、明治維新の俊英を育てたことが注目される。この時に、「幕末志士の集合写真」が撮られている。後年明治新政府の指導的役割を果した群像がフルベッキの下に集結していたことが判明する。これにつき後で検証する。こうして、1869(明治2)年に明治新政府に招請されるまでの10年間を長崎で過ごした。

 1869(明治2)年、明治政府に招かれ上京、お雇い外国人となる。政府との契約が終了して元老院顧問を辞して民間人に戻るまでの1877(明治10)年までの8年間を政府の政策ブレーンとして活躍した。日本在留中、オランダ国籍を失ったが、政府の許可を得て、日本人同様の特典が与えられた。東京でのフルベッキは多方面で活躍した。

その後、太政官顧問となり、各国の法律の翻訳や説明にあたった。

 1873年、政府法律顧問に就任。フルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立がある。フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があった。 

 この頃、フルベッキは、大隈重信にBrief Sketchを手交している。同書は、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白しており、これが岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。岩倉はフルベッキの提案であることを隠匿し、フルベッキも自身の業績について殆ど口外したことのない陰の人物となった。

 1871(明治4).12.23日、明治政府が廃藩置県を断行した直後、岩倉具視を団長にする遣外使節団が派遣された。である。使節団は、1873(明治6).9.13日に帰国し、約1年10ヶ月かけて米欧12ヶ国を歴訪した。使節団の目的は第一が、条約締結した各国の元首に国書を捧呈、第二に条約改正の暫時延期を含めた改正交渉、 第三に欧米諸国の制度・文物の調査・研究であった。その内第二は最初の米国で失敗し、結局第三が最重要となった。 この調査結果を踏まえて明治国家の骨格が形成された。

 使節団のメンバーは岩倉具視以外に副使として大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳ら48名の使節団に加えて団琢磨・ 中江兆民・津田梅子ら留学生59名の計107名(平均年齢30歳) が横浜から出発した。

 1877(明治10)年、米国長老派教会の医療伝道宣教師ヘボンの流れと、米国オランダ改革派教会のブラウンの流れが統合し、中央区築地に東京一致神学校が作られ、ヘルベッキも招かれた。1887年、現在の白金の地に移転して「明治学院」となり、初代総理にヘボン、理事長にフルベッキが就任した。

月刊「猶太(ユダヤ)研究」(国際政経学会機関誌)、昭和十七年十一月号、昭和十七年十二月号。ここに久留美山(筆名) 「高等教育に於けるユダヤ主義を排す」(連載一、二回)と言う、計二十頁ほどの論文が掲載されて居る。この論文は、立花隆著「天皇と東大」(文藝春秋社)、と言う近刊大著を読むに当って、是非、参照されなければならない。

 

「明治初年大学南校以来フリーメーソンの支部のような格好になって居る」。「明治5年から皇国の教が負けて西洋崇拝の教育となって居る。つまり明治初年数百名の御雇外人は英米独仏等の国籍には分かれて居たが大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであって内心は一体となり日本をインドやマレーのやうにユダヤ人の奴隷国とする考えであったのだ」。「英国公使パークス初め外国使臣の多くはユダヤ人であった大学南校教頭フルベッキはパークスの叔父ギュツツラフといふオランダユダヤ人に東洋の話を聞いて日本へやって来たユダヤ人であった」。 「それが英米独仏等の国籍を以て偽装した十六の同類を以て大学南校を我物。法律、経済、哲学の三原論をユダヤ人の都合のよいもののみを以て固め日本の大学をまだ物心付かない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ」「斯くして国際ユダヤ人は政府大学に巣食って帝国大学は遂にユダヤの秘密結社フリーメーソンのロッジのような形になった」。「北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセツのフリーメーソンのグランド・マスターであったこと」。(『猶太研究』昭和十七年十二月号、三十三頁~四十一頁)

 

明治政府はだれによって動かされていたか

伊藤博文・岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・井上馨・後藤象二郎 ..... 明治政府を荷ったにとびと 伊藤博文は長州奇兵隊・力士隊を組織 大室寅之祐はその部下でした。

伊藤博文は慶応年間に英国に留学 (日本の皇室と英国は深いかかわりがあり今上陛下の家庭教師は英国人 英国留学をされました。オランダ王室とも深いつながりがあります。)

近代日本の礎は どうやら ユダヤ人によってつくられたらしい..... 日本の開国 維新も ユダヤの手 フルベッキ グラバーなどが関わっていたようです。

ここから 近代日本の漂流がはじまります。

 

 



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