この記事書くのに 4時間半かかった! 最後まで 読んでくださいね。
カミカゼソルジャーとイオウジマソルジャーは 敵国であったアメリカでも
恐れられ 尊敬されました。
ニミッツは海兵隊に対して
「ジャップにあっておまえたちにないのはガッツだ!!」と言っています。
ところで.... カミカゼ一号機は 敷島隊 関行男中佐 とほとんどのひとが
思い込んでいるのですが....
特攻による戦死第一号
特攻出撃による戦死者は、敷島隊より先に、
久納好孚中尉、佐藤馨上飛曹が出撃しています。
久納好孚中尉は未帰還になった神風特攻隊大和隊の隊長で 法政大学在学時から
羽田海軍予備航空団で技量を磨いた。予備役であった。
久納好孚中尉は「敵の空母が見つからぬときは、私はレイテ湾に突入します。
レイテに行けば獲物に困ることはないでしょう」と言い残し、16時25分に2機編隊
で1機の護衛機を連れて出撃した。
途中で攻撃隊は天候に阻まれて、特攻の大坪機と護衛機はセブ島に帰還したが、
隊長の久納は帰還せず行方不明となった。

特攻による戦果第一号
菊水隊 滝沢光雄一飛曹 甲飛第10期 加藤豊文一飛曹 甲飛第10期
10月25日 ダバオから朝日隊、山桜隊、菊水隊が出撃し、7時40分に突入
護衛空母スワニーに「スワニー」に滝沢光雄一飛曹が、サンティに加藤豊文一飛曹機が
命中している
敷島隊隊長 関行男中佐 海軍兵学校70期
10月25日、午前7時25分、関率いる6機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した
10時49分に攻撃を開始し 空母セント・ローに突入 カリニン・米に損害を
与えたが どの機が 戦果をあげたかは 確認できなかった。
国民が神風特攻隊を知ったのは10月29日の新聞による敷島隊・関中佐の発表が最初だった。
同じく特攻した朝日隊、山桜隊、菊水隊の戦果が同時に発表されなかった。
また関に先んじて 21日に消息を絶った大和隊隊長久納については、敵艦への突入確実という
報告はされたが、戦果を確認出来ず新聞等で報じられることはなかった
脚光を浴びたのは関中佐「だけ...
その理由付けとして 海軍は 敷島隊の戦果が司令部に届いたのは、10月25日
午後の早い時間で、菊水隊の報告は夕方、朝日隊は報告自体がなかった。
関大尉は、敷島隊の指揮官であると同時に、10月20日、最初に編成された
第一神風特別攻撃隊の全体の指揮官でもある。
だから、突入時間がどうあれ、最初に報じられるのは関大尉である。
というのでありますが 関行男中佐の出身が 海軍兵学校 菊水隊 滝沢光雄一飛曹
加藤豊文一飛曹が 甲飛出身 久納好孚中尉は予備役であったことが 一番の理由ではないか
とわたしは 思う。
ミッドウェイ海戦でも そうでしたね。
ミッドウェイの敗因は索敵機利根4号機甘利一飛曹の発進が30分遅れたためとされていますが
「甘利機は敵艦らしきものみゆ」と打電している それに司令部が反応しなかった。
一方で「筑摩」一号機(機長・都間信大尉)は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を
通過しながら、雲の上を飛行(索敵機だというのに!)していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機
と遭遇しながら(艦爆がいるなら母艦もいる!)報告もせず、索敵機としての任務を放棄していた。
都間大尉は海軍兵学校出身だった。上層部は甲飛出身の甘利洋司一飛曹をスケープゴートにした
のです。都間さんは 自衛隊で出世した。
ミッドウェー海戦で敵艦隊を発見する殊勲をたてながら汚名を着せられた甘利一飛曹は、
終戦3ヵ月前の昭和20年5月13日、「芙蓉部隊」の一員として佐多岬南方海域に黎明索敵攻撃に出撃
敵機動部隊発見を報告したのち未帰還となり、戦死が認定された。
甘利一飛曹は 二度の武勲をたてながら ミッドウェイ敗戦の汚名のため 墓石が削られていた
そうです。ご家族の気持ちを思うとね。
うちの(日本帝国)海軍は セコくて おろかだった。残念ながら.....
台湾沖海戦で 何の成果もあげられなかったのに 大勝利の誤報を出し、大本営が国民が
狂喜した。ところが 誤報 見間違い けれども すぐ 撤回しない 面子があるから。
その誤報を信じた 陸軍が レイテ陸戦で惨敗 食糧もなく 80000人が死んだ。
このあたりで400機の戦闘機を喪い 結果 大西中将は 特別攻撃 カミカゼを選択
せざるを得なくなった。大西中将は 特攻はレイテ限定にしたかった。そこで
天皇陛下にカミカゼの成果を奏上(特攻隊員に約束していた) お上から「もうよい」
とおことばをいただき 終戦への道をさぐりたかったのではないかと言われている。
しかし 天皇陛下が「よくやった」と仰せられたので 陸海 競争で 特攻にまい進。
若者を死地においやるのです。
さて哀しい海軍史のつづき レイテ海戦では 小沢艦隊が囮になり 特攻が奮戦した
のに 何を血迷ったか 主力部隊 栗田艦隊が謎のUターン ミッドウェイでは
海軍の暗号は解読され 源田実という あとで参議院議員になった 参謀が山本五十六の
厳命を聞かず 魚雷をおろす命令を出し 帝国海軍ほぼ壊滅。 補給船を 護衛せず
民間徴用船は 2000隻も沈没。 陸軍は弾薬も食料も医薬品もなく 人肉を喰った。
そのうえドンパチでは失策ばかり。あたら 世界最強の戦艦大和を死蔵して艦載機も
なく 特攻出撃させた。バカとしか言いようがありません。せめて大和に武蔵に
まともに戦わせてやりたかった。豪砲をぶっ放させて やりたかった。
自衛隊で戦略を学んだひとが 『負けようとして 負けているとしか思えない』
と言ってました.....
最後に最も悲しいおはなしです。
硫黄島は 女子どもの上に焼夷弾が落ちるのを一日でも遅らせたいと徹底抗戦をしました。
1944年8月栗林は連絡将校に大本営への手紙を託した。
アメリカの国力 兵力を鑑み 終戦を模索してほしい と
栗林中将他20000余の将兵は 硫黄の蒸気たちこめる地下壕で一日水筒一杯の水で
かつんかつん1日1M 素手で18キロのトンネルを掘り続けたのです。
海兵隊60000後方部隊10000 降り注ぐ 砲弾に耐え 矢玉がなくなると ゲリラ戦に
転じた。けれど3/9 東京大空襲 ラジオ東京か 無線で 栗林はそれを知った。
刀折れ矢つきて 本部に 訣別電報を打電
栗林はバンザイ突撃はしなかった。逸る部下を抑え 機会を待った。
3/26早朝 残った400名は 日本の残存武器 米国から奪った武器を手に 米軍陣地を
急襲し 多くの被害を与えた。
遺骨の多くが アメリカのつくった滑走路の下にそのまま.... そこから B29が飛び立ち
硫黄島守備隊の奮闘で アメリカ軍は 日本本土の上陸作戦は人員の損耗が激しいと
日本中を空襲し 多くの国民 家屋を焼いた。
エノラ・ゲイは ヒロシマに行く途中 何度も何度も 硫黄島の周りをまわったそうだ。
硫黄島で死んだ 7000だったかの将兵の慰霊のために 報復の誓いかな
(原爆地上爆破説などに惑わされてはいけません)
つまり そういうこと 硫黄島 特攻が あんまり強くて アメリカに口実を与えて
しまった..... 裏目に出てしまった ほんとうに 悲しい。
この記事は関中佐を 貶めるものではありません。陽の当たらないところで 懸命に
つとめを果たした若者のことを知らせたかったのです。
関さんのことば WIKIより
報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。
日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。
じっさいは ほとんどのひとが そうだった。国のために天皇陛下のためにじゃない。
戦記 また 検閲の外で 書かれた 遺書を読むと 愛するひと 恋人 妻 子ども
そして 母のため父のためなんですよ。
天皇陛下バンザイと死んでいったひとは 少ない ほとんど かあちゃん おかあさん。
大義より 愛するもののため そして 家族のための お金でした。
みなさんは 信じられないでしょうが 農村出身兵 や 貧しい家の若者たちは 俸給
が 家族のしあわせにつながった 家計を 母を助けるために戦地へ行って
ほんとうに一所懸命 苦しい生を 生きたんです。
戦後のわたしたちは かれらが どんな思いでたたかったか 知らなくてはいけない
家族 → ふるさと 国 だった。これが ほんとうの 大東亜戦争の秘話です。
今と 変わらない。