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調査編③-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

2022年07月07日 | 鳥海代言人業務日誌
明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌5月21日-28日 

鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

1874年5月21日(明治7年)
休庁。裁判所が休みであり、千葉の宿にて他用に対応する。
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1874年5月22日(明治7年)
5月19日の期日の際に、「23日に出廷されたい」旨指示されているので、本日も千葉の宿にて待機。
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1874年5月23日(明治7年)
晴れ。午前8時頃裁判所に出頭し、着御届を提出。午後2時ころ呼び込みとなったので聴訟に入る。
御掛様から「本日、久保村戸長は参っていないのだ。また、明日来られよ。」と言われたので、午後3時には宿へ下がる。
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1874年5月24日(明治7年)
晴。午前8時頃代書人と共に着御届を提出。午後1時頃呼び込みとなり、被告、羽原利三郎(被告太九老代言人)、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)及び久保村戸長平野長平と共に聴訟に入る。
御掛様「奥印はその方の奥印で間違いないか。」
戸長「この奥印は全然知りません。その日は県の方に出張しておりました。」
御掛様「県に出張していたのは、何月何日なのか。」
戸長「昨年の暮れ12月18日から11日間県の方におり、奥印をしたとされる日には留守でございました。」
御掛様「印形はもっておるか。」
戸長が印形を差し出し、御掛様は証拠の奥印と対照させると、「奥印は戸長のものではないな。」とおおせられる。
私「奥印のことはこれまで問題となっておりませんでした。先般の判事様お直々の御席御調べの時にも、吉崎久兵衛(被告清四郎代言人)も印形のことは相違ないと申し上げていたのではないですか。それゆえ、印形が問題になるとは全く思っておりませんでした。」
吉崎久兵衛「確かに印形は相違ないと申上げましたが、それは被告のものについてでありまして、奥印について申し上げたものではございません。」
御掛様「戸長に聞くが、太九老の戸籍の方はどうなっているのか。」
戸長「その点につきましては、先般差し出しました調書のとおりでございます。」
御掛様「人別戸籍帳は持参しておるのか。」
戸長「申し訳ございません。持参せずにおります。」
御掛様「早々に取り寄せよ。何日までに取り寄せられるか。」
戸長「28日までには取り寄せます。」
御掛様「では、双方とも来る28日に出廷せよ。」
これにて本日のやり取りは終了したので、原告・被告とも宿へ下がった。
高橋紋兵衛殿が宿に見舞いに来られたので、酒を出し歓待した。
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1874年5月25日(明治7年)
晴。午前8時頃梅松屋に行き、高橋紋兵衛殿に面会する。被告清四郎の件等について話したが、手間取ったので、宿へ帰ったのは午前12時頃となった。午後2時ころ、村に戻るため千葉を出立。途中午後7時頃鶴舞に到着し、同所にて泊まる。
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1874年5月26日(明治7年)
晴。午前9時頃村方に戻る。
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1874年5月27日(明治7年)
記載なし。
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1874年5月28日(明治7年)
晴。午前10時頃村方を出立し、午後7時頃千葉の大沢屋に着。被告らの代言人や平野戸長が本日着御届を提出した。代書人の田辺長四郎殿から教えてもらった。
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(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)


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