南斗屋のブログ

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勘定奉行所と大原幽学の刑事裁判の担当者

2023年12月28日 | 大原幽学の刑事裁判
勘定奉行所と大原幽学の刑事裁判の担当者

(江戸の裁判を担当してい勘定奉行所)
大原幽学の刑事裁判を担当していたのは勘定奉行所です。
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」では、単に「奉行所」と記されていますが、これは勘定奉行所のことです。
勘定奉行という語感からは、財務を扱う部署と思われがちですが、勘定奉行には、①財政・幕領行政を扱う「勝手方」勘定奉行、②裁判を担当する「公事方」勘定奉行があったのです。


(公事方勘定奉行所の場所)
勝手方勘定奉行は、御殿勘定所や下勘定所という定まった役所がありましたが、公事方勘定奉行は、幕府から与えられた勘定奉行の役宅の一部を役所空間としていました。役宅は、幕府の役職に就任した際に与えられる屋敷であり、役所空間と本人の生活空間がセットで組み込まれています。公事方勘定奉行の場合は、多くの者が出入りすることになるので、必要な設備を有した専用の屋敷に引っ越すのが合理的だったのです(参考文献①)。

(刑事裁判の担当奉行)
大原幽学の刑事裁判の担当奉行は本多加賀守です。参考文献②には「本多加賀守」としか書かれていないのですが、この時期に勘定奉行を務めていた本多姓は本多安英しかおりませんし、同人の勘定奉行在任期間は1852年 - 1858年ですから、本多安英ではないかと思われます。

(刑事裁判の担当者)
勘定奉行が裁判をするといっても、裁判の最初から最後まで立ち会うということはありません。最初と最後だけ立ち会って、あとの審理は実際の担当者に任せるというのが、江戸時代の裁判のやり方でした。
この担当者は、当初は木村敬蔵と菊池大助でした。
木村は評定所留役、菊池は評定所留役御勘定介という役職でした。木村の方が上地ですので、審理は木村をキャップとして菊池と二人で進められたことになります(参考文献②)。評定所留役は旗本が務め、約20人ほどがおりました(参考文献①)。

(木村敬蔵)
木村敬蔵は、「安政の大獄の際、1859(安政6)年に評定所留役勘定組頭を御役御免になり、甲府勝手小普請となっている。1862(文久2)年には長崎奉行支配吟味役として復職」しているそうです(山梨県立図書館 のレファレンス)。
評定所留役勘定組頭というのは、評定所留役御勘定の一つ上のポストで、評定所留役のトップですから、順調に出世していましたが、安政の大獄で一時期不遇をかこっていたようです。
なお、木村は「勝教」と名を変え、勘定奉行も歴任しています(1863年 - 1864年、1867年 - 1868年)。

(菊池大助)
大原幽学らの刑事裁判の審理を担当した菊池大助は、本名は菊池 隆吉というようです。菊池は、審理の途中で長崎に出役したことが、五郎兵衛日記にも書かれております(嘉永6年10月26日条;なお、五郎兵衛は「菊地」と表記しています)。この年にペリーが来航さており、菊池は外交関係に回されたのでしょう。菊池は外交奉行となり(1862年 - 1864年、1864年 - 1866年、1867年 - 1868年)、その後勘定奉行も務めています。

参考文献
①戸森 麻衣子「江戸幕府の御家人」
②高橋敏「大原幽学と幕末村落社会」






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