南斗屋のブログ

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刎首では手ぬるい、梟首にせよ 仮刑律的例 その18 梟首

2023年12月11日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #18 梟首
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿人の庄平と惣太郎は、昨年12月、野後里村の庄屋が伊勢神宮へ年貢を金納する機会に乗じて、庄屋らを道中で襲って殺害し、金200両を奪いました。庄屋は重傷、荷物持ちが死亡。この者らを刎首に処したいので、お伺いします。
【返答】
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月(辰年)
無宿人の庄平及び惣太郎(勢州山田町で召し捕り)が、人を殺し、金子・銀札を奪取した件を吟味しましたので、申し上げます。
〈犯行に至る経緯〉
庄平は、遠州佐野郡上芳村の惣左衛門の倅で、両親ともに農業に従事しておりましたが、当人の身持ちが悪く、一昨年(寅年)10月に勘当されて無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。
惣太郎は、勢州度会郡三瀬村の要助の倅で、両親とも先年亡くなり、家が仕舞いとなってしまぅたことから無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。惣太郎は、昨年(卯年)7月に庄平と出会い、二人して徘徊しておりました。
二人は日雇い仕事などをしておりましたが、それだけでは金銭に難渋するところとなり、同年12月には上方に向かうことに致しました。
同月25日、二人は旅の途中で勢州野後里(のじり)村の左膳という庄屋と会いました。左膳は毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納することを知り、この金子を強奪することを共謀致しました。
〈本件犯行〉
同日の暮れに、二人は左膳が内宮に行く後をつけておりましたが、途中で先回りし、勢州上地村縄手にて左膳を待ち構え、脇差しで前後より切りつけました。左膳は手疵を負い、その場から逃げました。また、庄平は両掛(旅行用行李)を担いでいた長作にも切りつけ、同人をその場で殺害しました。両掛(旅行用行李)は惣太郎が奪いとりました。二人は松山まで行ってから、両掛を踏み破って金子・銀札計約200両を取り出し、二人で山分けしました。
〈犯行後の経緯〉
両名は逃亡したものの、山田町で召し捕りました。余罪を追求しましたが、本件だけとのことです。吟味詰めしましたところ、両名事実を認めて謝罪しております。
この件は重々不届きであり、両名に対し刎首申し付けふべきと考えますので、お伺いする次第です。

【返答】
10月8日、天裁(天皇の判断)を経ての回答である。
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

【コメント】
・#17に引き続き、#18も度会府からの伺いです。度会府は慶応4年7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・本件の犯人は庄平と惣太郎の二人。いずれも犯行当時は無宿人ですが、無宿となった経緯は違っていて、庄平の方は自身の問題を理由に両親から勘当それたのですが、惣太郎の方は両親が亡くなり、家を継ぐこともできなかったという理由によります。
・本件は「勢州」=伊勢国でのものであり、惣太郎も同国のものですが、庄平は「遠州佐野(さや)郡」の出身です。「遠州佐野郡」は現在の静岡県掛川市、森町辺り。この辺りから伊勢の辺りまで流れてきたのかもしれません。
・伺いは、「無宿人として定職にはつかず、日雇いで生計を立てようとするも金繰りに窮して犯罪に及んだ」という一定のパターンにはめこんだ文章になっています。大枠では間違っていないのかもしれませんが、弁護人がいればまた違った主張があったのかもしれません。この時代、弁護人はいないので、その辺りは謎のままですが…。
・被害者は勢州野後里村の左膳という庄屋と荷物持ちの長平です。伺いでは、「野後里村」とありますが、コトバンクには、「野後村」(のじり)とあり同一のものかと思われます。現在地名は度会郡大宮町滝原です。
滝原-伊勢神宮 内宮(皇大神宮)(39 km)
https://maps.app.goo.gl/U4WrZVpLKfXwkvJB7
・野後里村は、毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納しており、その道中を狙われたことになります。被害者のどちらかが事情を話してしまったのでしょうか。加害者には大金を狙えると映ってしまったようです。
・加害者が一攫千金を狙ったのは間違いありません。その手段として被害者の殺害を計画していたのでしょう。悪質な犯行ということはなく、死罪は免れません。度会府では、「刎首」の刑に処すべきとの伺いを出していますが、明治政府は「梟首」にすべきとの判断で、考え方に相違が生じました。
・刎首は「身首処を異にす」という点で、斬首(袈裟斬り)と異なります。首と身体を離すか否かに江戸時代は意味を見出していたのですね。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました(刎首は死刑)。死刑と極刑は異なるものとして認識されていたのですね。
明治政府は、本件の加害者を死刑に処するので手ぬるいので、極刑に処せとしているのです。



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