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将軍宣下の御登城は一大イベント 嘉永6年11月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年11月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年11月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生に小生の髪結いをしていただく。良左衛門君の書状が届く(岡飯田村の傳右衛門殿持参)。幽学先生が定めた規則を守らない者が多くなっており、干潟組はみな幽学先生の暮れの帰村を願っている由。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「良左衛門君」というのは長部村(現旭市長部)の名主遠藤家の跡取り遠藤良左衛門のこと。前回野帰村までは江戸に出府していたのですが、今回からは長部村の留守を預かっています。これは良左衛門が村役人(の代理)として来ていたからではないかと思われます。
岡飯田村は現香取市岡飯田。長部村とは約8キロ離れています。大原幽学の求心力は香取郡を中心に広範囲に広がっており、農民たちのネットワークが築かれていたようです。

岡飯田 · 〒289-0323 千葉県香取市

〒289-0323 千葉県香取市

岡飯田 · 〒289-0323 千葉県香取市


嘉永6年11月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と一緒に本の写しの作業。
回向院に角力の稽古見物に行くものあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
回向院は現在でもある両国の寺。江戸時代、境内で勧進相撲の興行がなされていました。相撲の稽古も行われていたようで、仲間はそれを見物に行っています。

嘉永6年11月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門殿と共に大手から拝む。水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城。御道具、衣服等は美麗である。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
徳川家定への将軍宣下。将軍宣下(せんげ)とは、天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のこと。五郎兵衛らはこの行事に集まる大名らを見物に行っています。ツイートではかなり省略しました。フルバージョンはブログをご覧ください。

五郎兵衛、将軍宣下の御登城を見物する 大原幽学刑事裁判 - 南斗屋のブログ

嘉永6年11月23日(1853年)#五郎兵衛の日記日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門...

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嘉永6年11月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、道友たちと幽学先生の教えにつき話す。幽学先生は書き物。小生もその側で書き物。晩に下谷仲町で火事。三町四方が焼けたとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
火事の記事。下谷仲町は現台東区北上野一丁目。大原幽学や五郎兵衛の住む神田松枝町からは少し距離がありますが、延焼の可能性もありますから、かなりの関心をもっていたのでしょう。火事はしょっちゅう起こっていたようで、近いところでは5月に記事あり。



嘉永6年11月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は書き物をし、小生も書き物。他の者は堀之内に行ったとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
堀之内としか書いてありませんが、「堀之内のお祖師様」として知られる妙法寺(現杉並区堀ノ内)でしょうかね。落語の題にもなってますし(「堀の内」)。当時かなり有名で、行ってみようということになったのでしょう。

嘉永6年11月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本日は幽学先生、小生だけでなく幸左衛門殿も書き物をする。その他の者は目黒の方に行ったとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は今日も大原幽学と共に書き物をしていますが、他の者は江戸見物。昨日は堀之内のお祖師様でしたが、今日は目黒。江戸時代の目黒は目黒不動尊を中心に風光明媚な土地でした。

嘉永6年11月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生は国もとに手紙を書いた。写しも認(したた)め、武左衛門殿と読み合わせ。
荒海村の喜兵衛殿、多左衛門殿から平右衛門殿宛に手紙(公事宿の蓮屋が受領)。江戸に出府されるとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
手紙の写しの取り方。今のようなコピー機がないので、写しは当然手書き。その上で読み合わせをしています。
江戸出府中の者はへの手紙の送り方。公事宿に滞在していることがわかれば、公事宿宛に送ればよいのですね。人から人へ手渡しでちゃんと手紙が受け渡されています。

嘉永6年11月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生、傳右衛門を連れてあちこち見物に行かれ、夕方にお帰りになる。夜には薬研堀の夜市に行かれた(小生、幸左衛門、傳右衛門同道)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
最近書き物ばかりしていた大原幽学が外出。薬研堀(やげんぼり)は、現在の東京都中央区東日本橋にあった運河または堀周辺の通称地名。薬研堀には夜市があったのですね。見て歩くだけでも楽しそう。

嘉永6年11月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
皆で髪結いし、昼より風呂。その後、幽学先生は幸左衛門殿らと浅草へ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学先生、今日は浅草へ。昨日は薬研堀の夜市に行ってましたから、連日のお出かけです。

嘉永6年11月に30日はありません(小の月のため)。#五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 




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