#仮刑律的例 #15吟味中病死の死骸の処置
(紀伊藩)からの伺・超訳)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
うちの家来が京都出張中に犯罪に関与していることがわかりました。出張から戻ったら、取調べようとしておりましたが、京都で病死してしまいました。この者の死体はどうすればよいですか。
【返答】
藩主から親類へ引き渡してやるがよい。
以上は超訳したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
(徳川新中納言(紀伊藩)から)
【伺い】明治元辰年十二月廿七日
当藩の家来川端文四郎は、本年九月から公用で京都に出張させておりましたが、不審な事実が判明し、吟味をすべきこととなりました。しかし、同人は京都にて病死致しました。その際、検死にどのようにすべきかと問い合わせましたら、「仮埋めにするがよかろう」との返答でした。この度、共犯者には禁錮を申し付けましたが、川端文四郎の死骸についてはどのように取りはからえばよいか御沙汰のほどお願い致します。
【返答】
川端文四郎については、不審の筋があり、吟味をすべきであったところ、病死したというのであるから、死骸はまず紀伊藩藩主に渡されるべきであり、その上で親類どもへ引き渡されるべきである。
【コメント】
・紀伊藩からの伺いです。江戸時代は徳川御三家の一。徳川新中納言と呼ばれているのは、徳川 茂承(もちつぐ)。紀伊藩の最後の藩主です。
・今回の伺いは、裁判にかけたかったのに、かける前に死んでしまった者の遺体をどうすべきか?というもので、明治政府は「最終的には親類に引き渡せ」と回答しております。現代では当たり前のことなので、何でこのような伺いや返答をしなければならないのか不審に思われる方もおられるでしょう。
・江戸時代は、現代と異なり、死体に対して判決を行っていたのです。シーボルト事件に関与した高橋景保のケースを見てみます。し
文政11年(1828年)10月10日、逮捕。伝馬町牢屋敷にて身体拘を受ける。
翌文政12年2月16日、牢屋敷で死去。
死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられる。
・現代では起訴されていても、裁判中に死亡すれば、遺体は遺族に引き渡され、裁判は終了(公訴棄却)となります。
しかし、江戸時代は、一部の犯罪(注)について、死体は遺族には引き渡されず、塩漬けで保存され、裁判の対象となり、判決を言い渡されて、刑の執行まで受けるのです。
・紀伊藩は江戸時代の感覚で、家来の死体は保存して裁判にかけるべきなのかどうかを明治政府に伺い、明治政府は江戸時代の考えから決別して、死亡した場合は裁判の対象とはならないと回答したのです。今の視点からは当たり前に見えますが、当時は画期的なことだったのではないでしょうか。
(注)刑の執行前に死亡した場合に死体を塩詰めの上に処刑する犯罪は、主殺し、親殺し、関所破り、重謀計です(公事方御定書)。