南斗屋のブログ

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弟、江戸より帰る 文政11年9月中旬・色川三中「家事志」

2023年09月21日 | 色川三中
文政11年9月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年9月11日(1828年)
弟の金次郎、江戸から土浦に戻る。日向医師同道。夕方、知り合い(戸崎村の塚本宗哲)の母君が土浦を通った途中、金次郎の荷物を馬で先に持ってきてくれた。我孫子宿で会った由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
金次郎(三中の弟)が江戸から土浦に帰ってきました。途中の我孫子宿で知り合いが、荷物を持っていってあげると、先に荷物だけ土浦に持っていってくれたのでした。知り合いは馬で、金次郎は徒歩だったようです。
我孫子宿は現在の千葉県我孫子市。我孫子〜土浦は約34 km。
我孫子宿本陣跡-土浦城 大手門跡
(国道6号経由)(34 km)

我孫子宿本陣跡 to 土浦城 大手門跡

我孫子宿本陣跡 to 土浦城 大手門跡




文政11年9月12日(1828年)雨
トラブルとなっていた件は、ひものやから証文の差し入れをする方向で話しが動いている。久松時右衛門殿や組合(五人組)の丸屋重兵衛殿が間に入って話しを進めてくれている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやとの一件は、交渉が長引いていますが、終わりが見えてきました。仲介に入っている人々が、それぞれきっちり仕事をしてくれると良い解決に向かうのは、今も昔も同じ。


文政11年9月13日(1828年)
ひものやとのトラブルは、ひものやが証文を差し入れたことにより、本日解決。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ついにひものやとのトラブルが解決。差し入れた証文の内容も三中は日記に記していますが長いので省略。

文政11年9月14日(1828年)
本日、金次郎(三中の弟)元服。
髪結いさんに祝い金として金一朱を渡す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
金次郎(三中の弟)が江戸から戻ってきたのは、元服するためでした。これから金次郎も色川家の一員として家業に勤しむことでしょう。金次郎は「美年(みとし)」と名乗り、兄の書いた家事志を書き継いでいくことになります。
「次弟の色川美年は三中が分家し醤油業を引き継いだ際に、本家の薬種業を引き継ぎ、徳右衛門を名乗り、田宿町で製薬・歯磨き製造販売に従事した。」(ウィキペディア

文政11年9月15日(1828年)曇
筑波山に参詣。採薬も行う。従業員の利助を連れていく。北条の佐助方に寄るも不在。山下では晴れていたが、山上は折々曇。筑波山の宿に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日から二泊三日で筑波山登山。目的は筑波山神社への参詣と薬草の採取。近くの山にハイキングに行くかのような記載ですが、三中の家から筑波山神社は約20キロ。今なら20キロ歩くとなると、それだけで丸一日と考えてしまいがちですが、江戸時代の感覚だと半日くらいなのでしょう。朝早くでて、5時間歩いて昼には到着というような感じ。
土浦城 大手門跡-筑波山神社(19 km)

土浦城 大手門跡 to 筑波山神社

土浦城 大手門跡 to 筑波山神社



文政11年9月16日(1828年)曇
朝早く、北条の佐助が筑波山の宿に来。利助、佐助と共に風返峠、十三塚峠を下る。案内人を頼んでいたが、なんだかんだで断られた。やむなく、柿岡(現石岡市)の玄隆老方に泊めてもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
北条は筑波山の麓にある町。北条の佐助は三中の従業員だったのですが、昨年(文政10年)6月に解雇されています。内容は漢方薬の紛失、持ち去り。そんな重要なことをやらかしたのに、ふらっと会いに行くのはちょっと理解できません。双方が和解するような出来事がこの間にあったのか、それとも別人でしょうか。


三中たちのルート
十三塚峠で案内人から見放され、引き換えして反対側の柿岡(石岡市柿岡)に降りざるを得なかったことが分かります。
筑波山神社⇒風返峠⇒十三塚峠⇒柿岡(23 km)

筑波山神社 to 柿岡

筑波山神社 to 柿岡




文政11年9月17日(1828年)雨
雨の中、柿岡(現石岡市)から土浦まで戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
筑波山の参詣と採草の旅も今日で終わり。あいにくの雨ですが。江戸時代の人はこの程度では愚痴りません。
柿岡〜土浦(22 km)

柿岡 to 土浦城 大手門跡

柿岡 to 土浦城 大手門跡





文政11年9月18日(1828年)曇
夜、隣りの家に心学の講師来る。隣りから声をかけられたので聴講。川口のババや母も聞きに来ていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
心学はこの時期流行っていたことが分かる記事。心学の聴講に、三中の母親など女性陣も加わっており、男性と女性の差別もなく、誰でも聴講できています。
⇒末尾参照(付:土浦藩の石門心学について)

文政11年9月19日(1828年)
蜘蛛病の論考(「蜘蛛病考」)が土浦藩から本日返ってきた。一ヶ月前に日向医師が藩の大野様宛に提出したもの。大野様は、題名を「食毒変虫考」としたが良かろうとのご見解。私は「一異疾考」の方が良いと思うが。
#色川三中 #家事志
(コメント)
蜘蛛を吐き続ける女性について三中は、日向医師にアドバイスをして、女性を治しました。三中はこれを「蜘蛛病」と呼び、論稿を作成して土浦藩に提出。藩の役人と町人との間にこのような交流があったのですね。

文政11年9月20日(1828年)晴
いせや太郎右衛門が水戸から土浦に来て、親類別家惣評が行われた。借金返済のため、在庫・蔵・諸道具は売払う。正油蔵・穀物蔵・文庫蔵は存続させる。140両の借金があり、毎年30両を支払う予定とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親類別家惣評は、記事の内容からして、財産処分に関する親族会議のことのようです。水戸のいせや太郎右衛門が土浦に来て会議をするのは、親戚が土浦にいるからで、三中もその一人なのでしょう。
正油蔵等は存続し、他の資産を売却して借金を返済していくというリストラ策。三中も多額の債務を負っており、この時期どこもかしこも債務整理が必須だったことが伺えます。親族会議をしても、親戚が資金援助をするという話しになっていないので、どこも余裕がないのでしょう。

(付:土浦藩の石門心学について)
土浦藩の内の小田村(現つくば市小田)では、1794年(寛政6年)に石門心学の拠点が尽心舎が設立されています。ここを拠点に各地に講師を派遣して道話や講釈を行っていました。道話は心学の趣旨を誰にでもわかりやすく、くだけた俗語・比喩を用いて面白く聞かせるもので、一晩に5回ほどあり、一回の聴衆は約10人です(筑波町史)。土浦藩は心学を奨励しており、舎屋建設資金の貸与をしています。
もっとも、この心学天保期になると、その人気は翳り、新規の入門者は急減し、衰退の一途を辿ったとのことです(同書)。



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