明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌6月7日-6月8日
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
1874年6月7日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。裁判所の御門脇に官員の詰所ができた。数日前規則が変わり、詰所に着頭帳へ性名を記載し、名前書を差し出す、詰所が交付する御門札がないと出入りができないことになった。
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1874年6月7日(明治7年)その2
出頭後、所要の手続きを経て腰掛へ控えていたところ、午後4時ころ、呼び込みがあった。聴訟に入ったが、「今日は被告の者がこないので、明日また出頭せよ。」と御掛様から仰せがあった。
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1874年6月8日(明治7年)その1
晴。午前8時ころ、代書人と共に裁判所に出頭。午後2時ころ、原告被告とも呼び込みがあった。出頭したのは7名。私と田辺代書人。平野戸長。被告の清四郎、その代言の羽原利三郎。被告太九老の代言の吉崎久兵衛とその代書人の小倉文蔵である。一同、御掛様が待っている聴訟に入った。
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1874年6月8日(明治7年)その2
御掛様から平野戸長に「戸籍帳を持参致したであろうな。」とお尋ねがあり、戸長は戸籍帳を差し出した。御掛様はこれをお調べになり、保右衛門という記載と印があることを確認された。
御掛様から、「この印形は原告が証拠とする書面の印形と対照したのか」とお尋ねがあったので、私は、「太右衛門の実印に相違ございません。」と申しあげ、証文を差し出してご覧にいれた。
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1874年6月8日(明治7年)その3
御掛様は「この印は、証文の印と同じ印に間違いないであろうな。」と被告や戸長の方に向かって仰せになった。平野戸長は、「保右衛門の印形に間違いございません。」と申し立てた。
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1874年6月8日(明治7年)その4
御掛様は続いて、「保右衛門の実印はすなわち、太右衛門の実印ということで間違いあるまいな。」と仰られると、平野戸長は、「そのとおりでございます」と答えた。
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1874年6月8日(明治7年)その5
御掛様は清四郎に向かって、「その方が清四郎本人であるか。」とお尋ねになった。
清四郎は、「本人でございます。」と答える。
「その方は父保右衛門の印形をなぜ所持致しておるのか。」と御掛様からお尋ねになる。
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1874年6月8日(明治7年)その6
清四郎は、「保右衛門の代替わりに際しまして、保右衛門の印形が不要になりましたので、私が所持しておりました。一時の心の迷いで太右衛門の名を偽り、自宅にあった印形を用いてしまいました。このことにつき間違いございません。」と答えた。
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1874年6月8日(明治7年)その7
「保右衛門の印形はその方が今でも所持しておるのか」と御掛様がお尋ねになると、清四郎は、「自宅にございます。」と答えた。
これを聞いて、被告太九老の代言羽原利三郎が申立てる。
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1874年6月8日(明治7年)その8
羽原「これではっきりしました。すべては清四郎の心得違いの謀印でございます。太九老は無関係でございますので、我々の方は本日限りで御免蒙りたい。」
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1874年6月8日(明治7年)その9
御掛様は羽原利三郎の申立てを受けて、「本件は断獄(刑事事件)へ回す必要があるな。断獄の吟味ということになれば、代言の権限ではないな。太九老本人と引き合わせることは必要とはなるがな。」という。
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1874年6月8日(明治7年)その10
御掛様「太右衛門の名前を偽り、謀判をしたことは間違いないな。」
清四郎「仰せのとおり間違いございません。」
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1874年6月8日(明治7年)その11
御掛様は私の方に向き直って、「清四郎自信が謀判と申し立てておるゆえ、訴状は願下げし、断獄(刑事事件)の吟味とすべきであるな。」と仰せになった。
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1874年6月8日(明治7年)その12
訴状を取り下げてしまっては金銭の請求はできなくなってしまう。
私は、「太右衛門という者は弘化4年に亡くなり、その後太右衛門という者は誰もいなくなっていたと、被告太九老は申立てておりました。証文には『太右衛門保右衛門』と記載してあり、二名の名前を記載してあります。被告太九老が書いた可能性がありますのでお調べいただきたい。」と申し上げた。
1874年6月8日(明治7年)その13
すかさず被告太九老の羽原代言人が「被告太九老が太右衛門と書いて押印したことはない。これも清四郎が謀印をしたに違いない。」と反論する。
御掛様はもう時間も遅いと思われたのだろう、これには直接答えず次のように仰られた。
1874年6月8日(明治7年)その14
被告らに対しては、「今申したことは、銘々明日には始末書を提出せよ。平野戸長もだ。」といい、私には「原告の関係では明後日10日に出頭せよ。」と仰られた。以上で本日の調べは終わり、午後4時頃に宿へ帰った。
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)