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南斗屋のブログ

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進まぬ法廷編③-明治7年鳥海秀七代言人の業務日誌 5月3日

2022年05月09日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)
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1874年5月3日(明治7年)
午前8時、裁判所へ出頭。着御届を提出して控える。ほどなく呼び込みあり、聴訟へ入る。
被告が来ていない。昨日は来ていたのだが。被告の代書人である小倉文蔵が「本日は帰村しました」と御掛様に回答した。
 そこで、私は、「原告に連絡もなく、帰村するとは問題である。」と間髪いれずに申立てた。当事者が勝手に帰村してはいけない決まりだからである。
  慌てて、被告代書人の小倉文蔵は、「いえ帰村ではなく、病気で宿に臥せっているのです。」と言い直した。
 今さっき、「帰村した」と言ったではないか…。
 御掛様も、「被告清四郎は帰村したのではなく、病気と申すのか。被告が立ち回っているのを見かけたならば、原告は申立てをすべきである。」と仰る。御掛様も、小倉文蔵が言い直したことに不審を抱かれたのであろうが、証拠もなく決めつけることはできないので、このように言われたのであろう。しかし、こちらも証拠までは持っていない…。
「被告清四郎は全く病気であります。今日と明日は延期していただきたくお願いします。」と小倉文蔵も慌ててこういうのが精一杯であった。
御掛様も、「病気であるならば、書面を持って申出るべきである。明日までに全快しない場合は、医師の診断書を添えて申出よ。」と仰る。御掛様のいうこともごもっともである。代書人の小倉文蔵は恐縮して退出せざるを得なかった。

私はその場に残り、別件で提出した訴状(被告:太九老)の御奥書の下げ渡しをいただこうとしたところ、御掛の脇屋様は、「拙者、ここ2,3日不快で出勤していなかった。訴状はまだ見ておらぬので、その件はまた明日来ていただきたい。」と申し渡された。致し方ないので、午後3時には宿へ下がった。

本日審理があった被告が清四郎の件で、御掛様が、「病気であるならば、書面を持って申出るべきである。」と仰っていたので、小倉文蔵が書面を認めて、持参するだろうと思って待っていたが、何の連絡もなかった。夜に入り、雨となった。
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(コメント)
☆被告清四郎との訴訟手続き
1874年5月3日(明治7年)、午前8時に裁判所へ出頭し、着御届を提出。聴訟(民事訴訟)の手続きが始まりましたが、被告清四郎は不在。被告の代書人小倉が在廷しており、「被告は帰村した」と回答しましたが、鳥海代理人は問題視します。小倉代書人は「被告は病気で宿に臥せっている」と言い直し。御掛様も不審を抱き、「書面を持って申し出るべきで、病気であれば医師の診断書が必要」と言及され、代書人は慌てて退出。
ここまでが、被告清四郎との法廷での民事訴訟のやり取りです。被告清四郎が在廷していなかったため、手続きは進みませんでした。
鳥海代理人は、午後3時には宿へ下がって待機。御掛様(担当者)の言葉に小倉代書人が反応し、何らかの書面を持ってきてくれることを期待して待機していたのですが、結局、被告清四郎の状態に関する連絡はなく、夜になって雨が降り出す始末でした。

☆別件訴状を巡るやり取り
被告清四郎関係の訴訟手続きとは別件(被告:太九老)について、御掛様(担当者)に訴状の御奥書の下げ渡しを 申請しましたが、断られています。御掛様が体調不良で訴状にまだ目を通していないのです。この点でも手続きは進みませんでした。
鳥海代理人は「訴状の御奥書の下げ渡し」を申請しています。これは現代にはない手続きです。江戸時代からの手続きが、明治初年まで続いていたようです。
江戸時代には、原告側が訴状を提出しますと、下役などと呼ばれる実務役人がその内容を審査します(「目安 糺」)。訴状が受理されると、奉行所は訴状の裏面に「表に書いてある訴えを受理した。示談が成立しない場合、 被告は返答書を提出して、原告被告双方とも、何月何日に奉行所へ出頭せよ」という内容を書き入れて役所(または奉行)の印を押し、原告に下付します。江戸時代はこれを「目安裏書」または「目安裏判」といいましたが、鳥海代理人のいう「訴状の御奥書の下げ渡し」は、これと同じです。
参考文献
・尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代』

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鳥海秀七代言人の業務日誌5月1日、2日

2022年05月06日 | 鳥海代言人業務日誌
鳥海秀七代言人の業務日誌シリーズは、下記参考文献をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

【業務日誌】1874年(明治7年)
5月1日「休廳」
5月2日
「午前8時頃裁判所へ出頭。着御届、提出。午後4時頃まで控えておりましたところ、脇屋様御掛りの分は、一同明日に罷り出よと裁判所から言われました。どうも、ご担当の御掛様がご病気で出勤していないようです。」
#鳥海秀七
#代言人業務日誌

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《コメント》
(1日が休庁の理由)
5月1日は裁判所の休庁日(休み)でした。この当時、曜日に関係なく、官公庁では1・6休暇(毎月1の日と6の日を休む)であり、4勤1休体制でした。官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されたのは1876(明治9)年ですので、明治7年は、まだ1・6休暇でした。

(鳥海秀七の性格?)
 業務日誌の書き出し日に裁判所が休みなら、そのことは書かなくても良いように思われますが、それでもきっちり記録に残しているのは、鳥海秀七代言人の性格からでしょうか。 

(代言人業務初日は空振り)
5月2日から鳥海代言人は仕事を開始します。しかし、2日の日は裁判所に午前8時から午後4時まで待機しただけ。「また明日に出頭せよ」といわれて、この日の仕事は終わってしまいました。

(着御届)
裁判所に出頭すると、「着御届」というものを提出しています。午前8時に出頭して、午後4時まで待っていたということは、裁判所にはおそらく出頭日だけ指定されるという仕組みであり、出頭届を届出て、当事者が揃ったところから審理を始めるという仕組みだったのではないかと思われます。着届けは江戸時代の裁判にもありました。

(着到御届)
鳥海代言人は一貫して、「着御届」という言葉で業務日誌を書いているのですが、「着到御届」という用語もあったようです。
 福井治安裁判所に提出された文書の中に、「着到御届」という用語法のものがあります。
福井県文書館所蔵・松田三左衛門家文書
資料群番号A0169
資料番号02798

(現在の訴訟実務にも着御届の名残が)
 現在の民事訴訟実務には、着御届なるものはありませんが、出頭すると「出頭カード」というものに、出頭者の名前を書く扱いになっていますから、これは着御届の名残りなのかもしれません。
 現代の民事訴訟では、同じ時刻(例えば午前10時)の期日に複数の事件を入れ、当事者が出頭した順に審理を行うという方法で進めていきます。そのために出頭カードが利用されているのです。

(参考文献)
橋本誠一著「ある代言人の業務日誌-千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」(同著『明治初年の裁判』所収)




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鳥海秀七代言人の業務日誌

2020年06月30日 | 鳥海代言人業務日誌

橋本誠一先生が翻刻した「市原郡村々民事々件諸用留」についてブログ記事を書いたことがあるのですが、ふと思い出してその翻刻が納められている「明治初年の裁判ー垂直的手続構造から水平的手続構造へ」を再び手にとってみました。

 同書を読みながら、「市原郡村々民事々件諸用留」とググってみましたら、先生の翻刻は、無料でダウンロードすることが可能なんですね(正確には、「ある代言人の業務日誌: 千葉県立中央図書館所蔵「市原郡村々民事々件諸用留」」。
https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8837&item_no=1&page_id=13&block_id=21

 この業務日誌を書いた代言人は、市原郡(現在の千葉県市原市)在住の鳥海秀七氏。明治7(1874)年5月1日から始まっていますが、内容からすると、業務日誌というよりは、事件の記録とでもいうべきもののようです。

 1874年5月1日は金曜日なのですが、「休庁」とあり、裁判所は閉まっています。しかし、翌5月2日(土)も3日(日)も裁判所で仕事をしているので、どうやら裁判所は土曜とか日曜とか関係なくやっていたようです。5月1日の次の休庁日は6日(水)で、その次は11日(月)なので、4勤1休体制のようです。
官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されたのは、1876(明治9)年で、それ以前は、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていたということですから、千葉裁判所もこの太政官布告に従っていたことがわかります。

「5月2日 午前8時頃裁判所へ出る。着御届申し上ぐ。」とあります。
8時には裁判所は開いていたようです。
裁判所に出頭したら、「着御届」というものが必要だったようです。鳥海氏はこの後も頻繁に裁判所に出頭→着御届と書いています。

5月2日の記載の続き。「午後4時頃まで控えおり候ところ、脇屋様御掛りの分、一同明日まで罷り出るべく」と裁判所から言われたとの記載があります。
午前8時から待たされて、午後4時になって初めて「掛りが脇屋の分は明日来るように」と言われたということ。私なら、これきっと怒ると思うんですが(というよりも、4時になるまでに何か裁判所にいうと思います)、鳥海代言人は「御掛り様、ご病気にてご出勤のなき様子に御座候」―掛りの脇屋様が病気で出勤していない様子だーと淡々と書くだけです。
今では考えられないノンビリさということなのかもしれません。裁判所の方でも平然と待たせていたのでしょう。


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埋もれていた史料〜「市原郡村々民事々件諸用留」

2018年01月16日 | 鳥海代言人業務日誌


今年は江戸時代が終わって150年の節目の年です。

私は歴史が好きなので、昔の裁判というのはどういうものなのかに興味があります。


その中でも千葉県での裁判ということになると、これを知るには「千葉県弁護士会史」をおいてほかにはないのではないかと思います。


「千葉県弁護士会史」は、千葉県弁護士会が1995年に発行したもので、既に絶版。古本でも売ってないもので、市場流通がされていないという貴重というかマニアック過ぎる本というなそういう部類のものです。


発行当時に千葉県の弁護士には無料で配布されましたので、書籍をきちんと蔵書されている方は今でも書棚にあるのではないでしょうか。


かくいう私は暫く蔵書していたはずですか、いつのときにかブックオフさんに売却した記憶があり、今は手元にはありません(笑)。



さて、明治時代の当初は弁護士というものがどうだったのかといいますと、そもそも「弁護士」という言葉自体がありませんでした。


「弁護士」と呼ばれるようになったのは、1893(明治26)年からなのです。

それ以前は、「代言人」と呼ばれていました。


しかもしかも当初は試験自体がなかったのです(試験ができたのは1877=明治9年)。


代言人となった人はどのような人だったのか、どうやって活動していのかは非常に興味があるところですが、この辺はほとんど史料がないようで、「千葉県弁護士会史」では全くといってよいほど論述がありません。


だだ、 「代言人の 資格を定めなかったため 無学 無識の 代言人を 多数輩出させる いわゆる三百代言の悪名を残してもいる」ということしか書いておりませぬ。

つまりは、史料がなくてお手上げ状態だっため、「三百代言」という言葉に言及したに過ぎないということなんでしょう。


こんなマニアックな本ですら、明治当初の代言人の活動が書いていないのならば、これはもうお手上げなのかと思っていましたら、昨年(2017年)5月に面白い本が出版されていました。


「明治初年の裁判」(橋本誠一著)

著者は静岡大学の教授で、法学がご専門らしい。


この中で、「ある代言人の業務日誌」という章があって、その副題が「千葉県立中央図書館所蔵『市原郡村々民事々件諸用留』」となっています。


「ある代言人の業務日誌」は文字どおり業務日誌でそれを翻刻したものです。翻刻した文章が延々と掲載されていて、あとはどうぞ皆さんでお読み下さいという体裁になっている。


うん、ちょっとは解説が書いてはあるんですが、ほんの一部。それを手がかりに読むほかありません。

翻刻されたものといっても、漢文みたいなものなのですよ。

その漢文調の文章と悪戦苦闘して、噛み砕いて説明してくれる方がいれば良いのですが、今のところそのような方も出ていないようです。


「市原郡村々民事々件諸用留」とググってみたところで、検索結果として表れるのは、橋本教授のお名前ばかり。


千葉の方もまだ気が付かれていないのか、少なくともネットの世界では全然広がりをもっておりません。


私のこの駄文が「市原郡村々民事々件諸用留」が少しでも広まる契機となれば良いのですが。


 

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