リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2010年11月~その1

2010年11月16日 | 昔語り(2006~2013)
人生を生き切るということ
                                                                                                                                  11月1日。月曜日。今日は余裕で正午前に起床。ハロウィーンから一夜明けて、今日から11月。ということは、今年もあと2ヵ月しかないわけ?やあだ。ゆうべは、バンクーバー市内で花火による火事が18件発生して、そのうちの4件は小学校、1件は花火を売っていた店(全焼)。損害額は合計150万ドルとか。火事の大半は市の南東部のメインストリートとフレーザーストリートの間、59番アベニューまでの一帯で発生したそうな。我が家に近すぎるくらい近い。そういえば夜遅くまで盛大に花火が上がっていて、爆竹の音がうるさかった。トラックの防犯アラームが鳴り出したのは、花火の破片か何かが落ちて来たのかもしれないな。(げんこつで車体をドンと叩くと鳴り出すくらいだから。)火事の件数こそ去年より少ないけど、損害の総額はなんと30倍。規制を強化するかどうか検討することもあり得るとか。ぜひ、ぜひ、そうしてくださいな。

今日は仕事をしないつもりで、雑誌や本を読んでのんびりしてからメールを開いたら、マリルーから、ママがまた転んで、今度は骨盤骨折で入院したという知らせ。夜中にトイレに起きたときに転んだらしく、どうやって自力でベッドに戻れたのかわからないけど、毎朝薬を飲ませに来る看護師が見つけて搬送したという。たぶん1ヵ月くらい入院して、その後またリハビリという流れになるらしいけど、病院では食事をしているということだった。薬を飲むためには食べなければならないのに、ここのところずっと食べたくないと言って周りを手こずらせていたママだけど、病院食でも何でもいい、ちゃんと食べてくれれば。メールをカレシに転送して、カレシからマリルーに(ちゃんと感謝の言葉も忘れないで)メール。入れ違いにジムからメール。その後、病院に様子を見に行ったマリルーからのメールで、ママがまた食べたくないと駄々をこねていると。あんがいママはほんとうに第二の子供時代に入ってしまったのかもしれない。そういうことなら、病院では食べなければ点滴で栄養補給することも辞さないだろうから、ママの好きなようにさせてあげたいな。

トロントのデイヴィッドに電話したら、コンピュータが壊れてメールが使えない状況だったそうで、いつでも飛んで来れるようにしておくということだった。あっちはジュディの両親が思わしくない状態だから、ストレスも大きいだろうな。カレシもときどき上の空の状態になる。マリルーは法律上は「元嫁」なのにほんとによく尽くしてくれている。何にもしないでいる「親不孝嫁」のワタシとは大違いで、元夫のジムと一緒にほぼ毎日ママの様子を見にホームに行ってくれていた。その彼女も今週パートナーのロバートが膝の人工関節を入れる手術を受ける予定で、入院中は大学病院まで片道1時間以上かけて来ることになるし、数日で退院してもしばらくは何かと世話が必要だから、ママの入院はある意味で彼女の負担が軽くなるのは確か。良かったとは言ってはいけないことなんだけど、ママは病院が世話してくれているんだし、やっぱり良かったのかもしれないと思う。老いて行く親の心配というのはこういうことなんだろう。それを見守る子供も年を取ったということで、明日は我が身という気持なのかもしれない。人間は誰でも老いて行くんだけど、ワタシもいつまでも人任せの親不孝なはねっかえりでいてはいけないな。元気なうちから、少なくとも自分が人生を終えるときの準備はしておかなくちゃ・・・。

うん、人間、人生をきれいに生き切るというのはあんがい難しいことなのかもしれないなあ。

人の漢字の間違いは気になる?                                                                                                    
11月2日。火曜日。今日はいい天気。たっぷりと9時間近くも眠ったもので、なんだか肩が凝ってしまった。カレシはわりと機嫌がいいんだけど、ときどきヒポコン気味になる。こういうところは亡きパパに良く似ているなあと思うけど、そこは自分でも昔から認識しているらしいので、「まっさかぁ~」と返すだけにして取り合わなければ、ヒポコンスイッチはたいていオフになる。ばつが悪そうな顔をして、「オレってほんとにハイポ(hypochondriac)だよなあ」というから、それもアナタという人のうちなんだから・・・と、まあ、慰めているんだかなんだかわからないことをむにゃむにゃ・・・。

要するに心気症というやつなんだけど、これって病気というよりはその人のもって生まれた性質なんじゃないかと思う。この世はどこを見てもダイコトミー。ポジティブに取って反応する人と、ネガティブに取って反応する人がいて、宇宙が回っている。あんがいワタシが超ポジで、カレシが超ネガだから、両極端は相通ずで、すべての問題がアンチ問題とぶつかってブッと消滅するのかもしれない。現実には問題が奇跡的に消えてなくなるわけじゃないとしても、少なくとも、気持の上では通じた気分になるから不思議。それでも、ヒポコンスイッチがオンになるたびに、状況を分析して、長年の商売で遭遇して蓄えてきた(時には怪しげな)科学的な根拠を持ち出して、「だ~からぁ、心配することないってば~」と説明するのは、めんどくさいこともあるんだけどね。「うるせぇ」と一喝したほうがよっぽど手っ取り早いだろうにと思うけど、それをやれないワタシって何なんだろうなあ。

仕事をしようかなあと思いつつ、サボりモードで小町横町を散歩していたら、『気になる!!日本語の間違い!!』というトピックがあって、感嘆符の過剰供給がちょっと気になったけど、こっちも言語稼業だから、のぞいて見ることにした。まあ、間違いと言っても、だいたいが変換ミスというか、同音異義語を確認せずに変換してしまう「ぐうたら変換」の結果の間違い。それにしても、こういうトピックになると揚げ足取りも多いし、自分が絶対に正しい!という人も出てくるし、辞書にそう書いてあるんだからそうんなんだ!という人も出てくるしで、賑わうらしい。まあ、そんな変換ミスはワタシだって日常茶飯事でやらかしているし、感嘆符を2つずつつけるほど気にはならないけど、やっぱり気になっちゃうともう気になってどうしようもない人がいるんだろうな。いわゆる「バイト敬語」と言われる日本語亜種だって、たしかに今は間違っているだろうし、神経がざわつくような違和感があるけど、いつ「あたりまえ」の日本語表現になるかわからない。

人間の機能と言うのは良くしたもので、目はスペルや漢字の些細な間違いなら自動的に正しく「判読」できるようになっているらしいし、脳の言語中枢も前後の文脈で本来の趣旨の文章として読めるようになっているらしい。英語でも、「Mry hd a lttl lmb」のように単語から母音を抜いても、目と脳がちゃんと「Mary had a little lamb」と読んでくれるから、賢いなあと思う。ずっと前に、短いセンテンスの中にFがいくつあるかというトリッククイズがあって、英語人はたいていが即座に「2つ」と答えるのに対して、ESL/EFLの人は「6つ」と答えるからおもしろい。実際に単語の中のFを拾い出して数えると6つあるから、英語人の答は間違いということになる。単語が数語しかない短いセンテンスに6つもあるのに、なぜ2つなのか。実は、英語人の目は単語を文字に分解せずにひとかたまりとして見ていて、名詞や動詞には注意を払っても、forとかof、fromといった前置詞の中のFまでは意識していないということらしかった。

同じように、同音異義語なら、漢字変換ミスがあっても目と脳が文脈として正しく読んでくれるから、日本語人にはいちいち目くじらを立てるようなことではないと思うんだけど、日本語が母語でない人の場合はそうは行かない。同業者のメールリストに英語が母語の翻訳者から「○○」はどういう意味か、ググっても例が見つからない、という質問がよく出るけど、日本語で育った人間の目にはすぐに漢字の変換ミスだとわかるものがよくある。これも漢字をひとつひとつ読んでいるし、日本語の語彙も十分でなかったりするから、変換ミスがあると「何、これ?」と引っかかって、変換ミスかもしれないという発想まで行き着かない。これが普通の日本人だったら自動的に「修正変換」して読んでしまっていることの方が多いだろうと思う。英語人でない人がわからない英単語に遭遇したときに、スペルミスの可能性までは考えつかないのと同じことかな。

日本の掲示板を見ていると、そういうことにばかり視線が吸い寄せられて気になる人が多いようで、トピックの趣旨には全く触れずに漢字変換の間違いだけを指摘する書き込みがあったり、英単語のスペルミスがあると間違っていると指摘して、親切に正しいスペルを「指導」したり、逆に嘲笑したりする書き込みを見かける。(ときには日本人のふりをした外国人ではじゃないのかと勘ぐる想像力のたくましい人もいるけど・・・。)他人の間違いに突っ込みを入れるのが趣味という人もいるだろうな。他人を辱めて笑いを取るのがコメディだと信じているんじゃないかと思うようなところもあるけど。それでも、他人の間違いが目について、直してやらないと気になってしかたがないという、一種の心気症のような人もいるのはたしかで、それがその人の性質だとしても、なんか気苦労が多くて疲れていそうな人だなあと思ってしまう。またよけいなお世話だけど。E&OE.

どうして年を取ると頑固になるの?
                   
11月3日。水曜日。正午を過ぎて目が覚めたら、うはっ、まぶしい。いやあ、いい天気だなあ。庭のかえではあっという間に紅葉の真っ盛りになって、こういう好天の日は、二階のバスルームの波模様の窓ガラスを通してみるとちょっと抽象画のよう。うん、仕事なんかほっぽり出して、印象派気取りで絵を描いて、ま、へたの横好き三昧をやってみたい気分になるな。もっとも、明日あたりからはまたずっと雨傘マークだけど、11月なんだもんね。

お子様プロジェクトの最後の一番でっかいのが残っているけど、とりあえず横に置いておいて、今日は先端医療の話。なんだか略語がすごくて、まるでアルファベットスープ。学者さんたちはふだんからこんなアルファベット記号でしゃべるのかなあと思ってしまうけど、まさかね。まあ、略語のままで訳文に入れてしまえばいいんだけど、何の略語なのかわからなければ文章の組み立てようがないから、一応はちゃんと調べなければならない。さして大きなファイルでもないのに、これがけっこう手間がかかる。それでも順調に仕上がって、南半球の編集者に送って、そっちはもう春だねえと言ったら、なんと春を飛び越していきなり真夏になってしまったそうな。世界的にヘンな天気・・・。

バンクーバーの郊外では、9月から大雨が続いたために、収穫を待っていたじゃがいもの三分の二が畑で腐ってしまったという。ぬかるみがひどくて、機械を入れるどころか歩いて入るのもままならないんだそうな。今年は初夏の頃の低温でトウモロコシのできが悪かったし、かぼちゃもあまり良くなかったし、農家にとっては天災の年かもしれないな。不作の年に備えての保険があるそうだけど、地産地消を推進するためにはマザーネイチャーにも協力してもらわなくちゃね。韓国では猛暑のためにキムチの必需品の白菜が不作で、政府が中国から緊急輸入したら「味が落ちる」と不人気で、山のように売れ残っているんだそうな。日本で米が大凶作だったときに、米を緊急輸入したら、まずいとか臭いとか文句たらたらだったのとそっくり。まあ、韓国もそれほど豊かになったということで、めでたいのかもしれない。

午後遅くにマリルーに電話。ロバートの膝の手術は無事に終わって、週末には退院できるそうな。人工の膝関節を入れて3日で退院は短いのかな。まあ、カナダでは手術などの入院期間は概して短いようで、ワタシのときも卵巣膿腫の内視鏡手術は3日目に退院の予定だった。あのときは、中をのぞいたらひどい子宮内膜症が見つかって、そのまま退院せずに待機して4日目に開腹手術で子宮全摘。退院したのはそれから5日目だった。膝の半月板の内視鏡手術なんか、レンタルした松葉杖を持参しての日帰り手術。まあ、個人経営の「医院」というのがないから、病院は手術室も人手もベッドも慢性の欠乏症なんだけど、入院が短い方が回復が早いのかどうかはわからない。もっとも、子宮全摘のときは退院して3週間後に(座ってできる)通訳仕事に1日でかけ、膝のときは2週間後に手術直前まで日課だった3キロのジョギングに戻れたから、回復を早める効果はあるのかな。ま、病院食を食べないですむと考えただけでも元気が出るからかもしれないけど・・・。

ママは相変わらず食べたくないと言って周りを手こずらせているらしい。ジムが「食べなきゃダメだよ」と必死になって説得しようとすればするほど、ママは意固地になるんだそうな。「好きなようにさせるのが一番いい」というカレシと「食べなきゃダメだよ、食べてくれよ」と懇願するジムはひとつ違いの兄と弟だけど、こんなところにも性格の違いが出てくるものなんだな。ママの場合は両足の大たい骨を折ってピンで修復してあるから、よけいに体のバランスを取りにくくなっているのかもしれない。3ヵ月ほどの間に2度の転倒骨折だから、退院してもひとりで生活させることにはみんなが不安を持っているんだけど、ホームには完全介護棟もあるのに、ママは絶対に移らないというし、電動車椅子を使うことにも気乗りがしないようで、はて、どうしたものか・・・。

ママは「このまま逝きたいのよ」とマリルーに言ったそうだけど、ママはそれで良くても、たとえ本人の意志であっても徐々に死に向かっていくのを傍観せざるを得ない家族はママのようにさっぱりと吹っ切れるわけがないでしょうが。退院できるまで約1ヵ月くらいあるらしいから、それまでに何とか対策を考えようということでみんなの意見は一致しているけど、内心ではママの好きなようにさせてあげたいという気持と、何としてでも元気になって欲しいという気持が交錯しているのもみんな同じ。あ~あ、人間てのはどうして年を取るほどに頑固になるんだろうなあ。ママはいったんこうすると決めたら梃子でも動かなくなる性格だけど、もう少し子供たちの気持も考えてくれないかなあ。といっても、その子供たちもみんなすでに60代になって、だんだん頑固じじいになりつつあるんだけど・・・。

耐えがたき日本語の軽さ
                   
11月4日。木曜日。よく眠った。ごみ集トラックの轟音も目が覚めたのは一番早いリサイクルトラックだけ。一瞬だけ、は、今日はゴミの日か、と思って、後はまた安眠状態。起きてみたら、あれ、今日もいい天気。カレシはごみトラックの音には全然気がつかなかったというから、気持がかなり落ち着いたのかな。トーストのパンがなくなったので、ベーコンポテトとスクランブルエッグをトーストしたオニオンロールにはさんで、これは「エッグマクオニオン」。

底をついたのはパンだけじゃない。冷蔵庫の野菜入れは玉ねぎとイモだけだし、カレシの野菜冷蔵庫もほぼ空っぽだし、フリーザーの魚もグリーンピースが心配しそうなくらいに激減。仕事どころじゃない、今日はもっぱら買出しデー。午後は西のスーパーに行って、野菜と魚をどっさり。ビンナガマグロのステーキを「tombo tuna」というラベルで売っていたのでびっくり。うん、トンボマグロとも言うし、キハダやメバチは「ahi tuna」として売られているから、本来の「アルバコア」よりもオリエンタルな響きがいいのかな。夕食後は東のHマートに行ってアジア野菜と魚。いつもながらハングルが読めたらいいのにと思う。魚のフリーザーには冷凍の亀があったのでびっくり仰天。甲羅の先にとんがった頭と手が2本見えた。どうやって食べるんだろう、あれ・・・?

フリーザーと冷蔵庫が満タンになったところで、小町横町へお出かけ。今日のお楽しみトピックは『その省略語にムズムズする』。そう、最近は略語が溢れ返っている観があるよね。何となくわかるものはいいけど、前後の文脈を読み直してもさっぱりわからないものも多くて、翻訳原稿にひょいと出て来られた日には、もう「やめた~」と投げ出したくなる。まあ、英語だって世代や時代と共に目まぐるしく変わりつつあるんだけど、最近の日本語の場合は「変化」というよりは「縮小」と言ったほうが良さそうなくらいで、漢字の場合はだいたい2つ、カタカナ語や口語表現は3文字か4文字に短縮されていることが多い。どうして圧倒的に4文字なのか不思議だけど、擬音語や擬態語も4文字(2文字の繰り返し)がほとんどだから、日本人にはノリの良いリズムなのかもしれないな。

それにしても、おそらく携帯メールなどの影響もあるんだろうけど、まるで「略語ブーム」。省略というのはある意味で「軽量化」するということで、深刻な言葉でも省略されて軽いノリになってしまうのは、あんがい閉塞した気持をなんとしても軽くしたいという無意識の願望があるのかもしれないと思うけど、どうなんだろう。ただ、日本語の省略化は古くからあったことなんだけど、最近の省略語の氾濫は、敬語やていねい語の誤用、乱用と合わせて、ちょっと度を越している感じがして、おかしな社会現象だ思う。(ていねい語の乱用にいたっては、「食べる」が「いただく」に駆逐されて死語になりつつあるような印象・・・。)

でも、このトピックは笑えるからいい。たった3つや4つのカタカナでも長いのか、しまいにはアルファベットスープになって、日本での日常を日本語で暮らしている人たちでさえムズムズする、イライラすると言うくらいだから、海のこっち側のワタシにはチンプンカンプンであたりまえだろう。「プチプラ=プチプライス(安価)」はずっと前にパリのシャンゼリゼで「large choix, petit price」と英語とフランス語をごっちゃまぜにした看板があったのを思い出した。バーベキューが「バーべ」、トイレットペーパーが「トイペ、トレペ」、ホームパーティが「ホムパ」でホームページは「ホムペ」、手当のつかない残業は「サビ残」、昔の職業安定所がハローワークになって、今は「ハロワ」、妊娠すると「マタママ」で、「初マタ」や「プレママ」もある。月満ちて「ベビ」が生まれて「ベビカ」でおでかけ。「完母」か「完ミ」で育てて、大きくなれば「トイトレ」。学校に行けば「モンペ」になり、「ファミレス」で親子揃って食事、事情によって「シンマ」になってひとりで育てる・・・。

人生は、「就活」に始まって「婚活」、「妊活」して、そのうち「離活」して、やがて「終活」。(後は「復活」しかないだろうなあ。でも、それはキリストの話・・・。)近鉄バファローズのファンが日本ハムファイターズを「ポンハム」と略していたという話を聞いて、一瞬「ボンレスハム」を連想。それって「骨なしハム」でしょうが。まあ、けなしているらしいからちょうどいいのかな。ハムのついでに、電子レンジで温めるのはなんと「レンチン」!料理に凝るなら、キッチンに欠かせないのがCP、FP、HM、HP、そしてHB。グルメレシピは「クリチ」、「トマスラ」、「オニスラ」、「和ドレ」に「ホケミ、HKM」、で、「ポテチ」を食べ食べ作るお得意は「ポテサラ」・・・。

ここまで省略してそれを日常会話でも使っているとしたら、もう日本語とはいえないんじゃないのかなあ。かのハトヤマ星人だってどこの星の言葉かと思うだろうね。ファッションや芸能界やネットの世界に迷い込んだら、ブランド名もアイドルの名も店の名前もみ~んな省略語。店員に「ラスイチですよ」と囁かれても困るけど、ヘビロテにコーデにカーデにアクセにコスメにファンデでモテカワ・・・う~ん、ひょっとしてcoded message(暗号メッセージ)じゃないだろうなあ。だって、イミフなんだもの。個々の省略語の多くは泡沫のごとく忘れられるのが常だとしても、言語として全体を見たときに、すでに「流行」ではすまされないところまで来ているのでなければいいけど。それにしても、日本人をこれほどの言葉の軽量化に駆り立てているのは何なんだろう・・・?

飛行中に若返った乗客の謎
                   
11月5日。金曜日。外は湿っぽくて寒そう。10度くらいかな。着替えをしてキッチンへ降りていったら、朝食の準備をしていたカレシが「なんか蛇口の調子がヘンだよ。ずっと流しているのにいつまでも熱くならない」と言う。そんなばかなことが、と思ってそっちを見て、つい吹き出してしまった。あのね、こっち側の栓をひねってみたら?そっち側のはいつまで流していたって熱くならないのよ。適当にレバーを動かすせいでうっかり鉢ものにお湯をやったりするから、改装したときに混合水栓をやめたんだったけどなあ。「何も言うな。オレは5つのときからこうだったんだから」と、カレシ。まっ、起き抜け早々にひとしきり爆笑したおかげで、しゃっきりと目が覚めたからいいか。

テレビのニュースをつけたら、エアカナダの便に信じられない変装をした男が乗っていて、連絡を受けたCBSA(カナダ国境管理局)がバンクーバーに到着したところで捕まえたという話。先週あった事件をCNNがキャッチして流したらしい。ことの始まりは、香港でエアカナダの保安要員が乗り込んだ高齢の白人男性の手が顔に似合わず「若い」ことに気がついて通報。この「老人」、飛行中にトイレに立って、出てきたときは20代くらいのアジア人に若返っていたとか。映画などで使う精巧なシリコーンのマスクをかぶって、めがねとカーデガンと帽子で、どこから見ても80代くらいの老人。素顔で香港側のセキュリティを通ってから変装して、誰かと搭乗券を交換したのではないかと言う憶測だけど、アメリカのパスポートを持っていたそうで、それによると年令は55歳。ふつうなら搭乗口でパスポートの写真と本人の顔を照合するときにヘンだと思いそうなもんだけど、どうやら、動作やコミュニケーションの不自由な高齢者ということでさっさと通してしまったらしい。まあ、こんな機嫌の悪そうなじい様の相手をしているヒマはないってことだったのかなあ。[写真]

飛行機がバンクーバーに着いてCBSAの管理官に迎えられた「本人」はその場で難民申請をしたそうな。ということは、これから難民の審査が完了するまで3年くらいはカナダにいられるわけか。長い順番待ちができている移民審査を省略するためにしては、手が込みすぎているような感じもしないではないけど、空港で搭乗券とパスポートを交換したと言われる「アメリカ人」はどうしちゃったんだろうな。ひょっとして若いアジア人のマスクをつけて別の飛行機に乗り込んだとか?ハロウィーンに合わせて起きた事件だけに、まさに奇々怪々・・・。

変装用のシリコーンのマスクの精巧さは技術の進歩の賜物といえるんだろうけど、「手」の年令だけはなかなかごまかせないな。映画などではメイクでカムフラージュできても、10時間以上も機内で過ごすとなれば、メイクなんか剥げて来て、あちこちにヘンなしみをつけそうだから無理だろうな。ワタシだって、アジア人に生まれたおかげで顔の方は実年令よりずっと若く見てもらえることが多いけど、手だけはしっかり60代。静脈は浮いて見えるし、皮膚はちりめん風のしわだらけだし、指は関節炎でごつごつだから、どう見たっておばあちゃんの手だもんなあ。まあ、35年も毎日炊事洗濯をして、バンバン仕事をして来た手なんだから、それがあたりまえだけど。

航空会社は高齢の乗客には甘そうだってことがわかったけど、それをテロリストに悪用されるようになったら困るな。バンクーバー映画学校の先生がみごとに高齢の男性に紛争した若い女子学生の写真を見せながら、シリコーンマスクの精巧さを説明していた。これからは搭乗口で顔が「本物」かどうか、ほっぺたをつねってみて、念のために手も検査してからでないと乗せてくれなくなったりして・・・。

日本語の省略語はスラング
                   
11月6日。土曜日。週末だというのに、午前9時過ぎに突然のチェーンソーの音でたたき起こされた起き出して窓の外を見たら、カレシが剪定やら何やらを頼んであったツリーサービスのトラックが止まっていて、白樺の木を伐っているところ。事前に電話してくれるはずだったんじゃないのかな。まあ、この白樺、土地の境界線の外側で勝手に芽を出して伸びたものだから、実質的に市の所有木。枯れ方がひどかった一方を2月に自腹を切って伐ってもらったけど、残った方も夏の間に上からどんどん枯れてしまった。20分ほどでトラックが走り去る音がして、静かになったところをみると、今日は白樺の処理だけが目的だったらしい。そのまま正午ぎりぎりまで寝直してから、二階の窓から見ると、斜めになってゲートの方に枝を広げていた木がそっくりなくなっていて、なんだか気分的にも見晴らしが広く開けたような・・・。

朝食後はめずらしくしばしの間の読書。イギリスの言語学者David Crystalが書いた『A Little Book of Language』と言う本(Yale University Press、2010年)で、ふむふむと読み進んでいるうちに、デンバーとの往復の機内で半分以上読んでしまった。生まれたばかりの赤ん坊が音声を聞き分けることを覚え、その音声をまねて発音してみることで発声器官を制御することを体得し、音声のそれぞれに意味があることを発見し・・・そうやって言葉を学んで行くという話から始まって、文法や表記、発音、訛りや方言、語彙、世界の言語とその変化、言葉の起源、文字の起源、現代語など、短い章(全部で40章)ごとにテーマが広がって行って、いつのまにか先へ先へとページをめくっている。今日は「スラング」の章で、読みながらはたと思い当たったのが、日本語に溢れ返っている意味不明の「省略語」は、実はスラングなのではないか、ということ。

本来、「スラングの主な用途は仲間であることを証明すること」で、職場にはその会社特有の「社内用語」があり、若者には「若者言葉」があり、悪いやつらには「隠語」があり、それぞれの家庭にはその家庭だけの「食卓語」がある。要するに、仲間同士を確認するためのボキャブラリであって、同時に部外者を識別する「試し言葉」の役もするということだろうな。ビジネスや学術の世界にはそれぞれの業種や専門分野ごとに「専門用語」というのがあるけど、これは特定の分野で使われるものではあっても、その分野に特有の物や事象を言い表すためのものだから、スラングとはちょっと性格が違うかな。でも、「業界用語」と言われるものは、その業界に属する人たちが日常の折衝で使っているものだとすれば、立派なスラングだと言えるかもしれない。

つまり、スラングは「我々」と「その他」を区別したい、外部にわからない言葉を使うことで「他人」を排除して「仲間」としての結束とアイデンティティを確立したいという願望の現われなんだろう。意図的だという違いはあるにしても、なんとなく「お国言葉」と良く似た機能があるような感じがするからおもしろい。いうなれば、「ムラ社会」の暗号化言語のようなものかな。仲良しムラの秘密の暗号をそのメンバーがムラの外へ持って行って(故意あるいは無意識に)使っているうちに、いつのまにか広く伝わって、やがて単なる世間一般の「俗語」としての市民権を得ることも多いけど、そうなるとまた自分たちのアイデンティティを部外者から守るために新しい「ムラ言葉」が必要になるわけで、新しいスラングが次々と生まれて、そのほとんどが短命なのはそのせいということかな。まあ、「他の誰も知らない(自分だけが知っている)こと」だからスリルがあるんであって、周知の事実になったらもう価値はなくなるのが秘密というものだから、仲間内のスラングもそんなものかもしれないな。

だから、ワタシは、マタママ、プレママ、完母、完ミ、トイトレ、ネントレと聞いてちんぷんかんぷんでもかまわない年代だし、今どき風のヘビロテもコーデもカーデもアクセもコスメも関係ないゴーイングマイウェイ(ゴイマ・・・はまだない?)派だし、料理はレシピなしのぶっつけ本番の思いつきが多いから、省略語でもスラングでも何でもいいんだよね。ワタシくらいの年になると神経が太くなっているもので、「仲間に入れてやんないよ~」と言われても、無理してムラに入れてもらいたいとも思わないから、ムズムズもイライラもしないな。翻訳用の原稿にさえ出てこなければ、そのまま「スルーして」しまえばいいわけで、文句を言う筋合いもないだろうな。まあ、世間に発信する一般用、商売用の文書だけは「標準日本語」で書くことをお忘れなく・・・。

いながらにして時差ぼけの日
                   
11月7日。日曜日。目が覚めたら時計は午前11時40分(標準時)。外はまぶしいけど、標準時間に戻った今日はなんとなくボケ~とした気分。時計を1時間戻すと言う、一見して簡単なことで、テレビやラジオでは変更を周知させるのに「1時間長く眠れますよ~」なんて言うけど、結果としては寝ている間に隣の時間帯にテレポートされたようなもの。週明けの2日ほどは交通事故やニアミスが5割くらい増えるといわれるくらいで、ちょっとした時差ぼけ状態になることに変わりはない。これからたった4ヵ月の「標準時」なんてばかばかしいから、ウィンタースポーツ用品の業界あたりが陳情して、年中「夏時間」ということにしてほしいもんだけど。元々は5ヵ月そこそこだった夏時間がまるで「常夏の国」みたいに8ヵ月も続くようになったのは、レジャー業界の陳情のせいなんだから、もうひとふんばりして何とかしてくれないかなあ。

PCの画面の隅っこに表示される時計を見ていると、午前1時59分からひょいと1時間前に過ぎたはずの午前1時にタイムスリップする。(逆に夏時間に切り替わるときは午前2時からいきなり午前3時にジャンプする。)テレビの番組表もよく見たら午前1時の枠が2度あった。家中を走り回って、大小の時計やら、家電にやたらとついている時計やら、暖房のタイマーやら、全部で十何個の時計をリセットして、「夏時間」は終了。ここで標準時の午前3時前に就寝すれば少しは秋眠をむさぼれるものを、ずるずると寝酒をしていて、ベッドにもぐり込んだのは午前4時。前日までは午前5時だった時間だから、時計を見て心理的に「平常通り」に感じても、体内時計では1時間の夜更かし。これじゃあ、ボケ~っとするのも無理はないな。おまけに今日は日本時間で午前9時が納期の仕事がふたつあって、きのうまでは午後5時だったのが、今日から1時間早まって午後4時。なんだか急かされるようで、おちおち見直しもしていられない気分・・・。

ファイルのひとつに、明治初期の頃にできて、とっくに死語になっているとばかり思っていた言葉が想像もつかないような意味に変貌して使われていてびっくり仰天。どうやら、どこかの業界で「隠語」のように使われているうちに、新しい「定義」が定着したらしい。お役所でよく使われるんだそうで、一瞬だけどひょっとしたら「談合用語」、あるいは「汚職用語」かと思ってしまった。隠語というのは文字通り「隠し語」。外の人間に知られたらまずいというような話をするときには隠語は必需品だろうし、先だっても俳優だか何だかがドラッグを仲間内だけで通じる名前で呼んでいたそうだから、遠い明治の言葉のなんとも奇想天外な用法はそういう点でうってつけのような気がするな。まあ、真相はわからないけど、響きからするとあまり賢そうな感じがしない。(やっぱり、昔の建設省あたりの汚職談合から生まれた、とか・・・?)こういうのが専門用語がたくさん出てくる文書のど真ん中にひょこっと登場したら、場違い感がすごいものでずっこけてしまいそうだなあ。今回は翻訳の対象ではなかったからよかったけど。

それにしても、今日はずっと眠くて、何となくかったるくて、背中がぞくぞくして、ああ、やだ。こんなときにちんぷんかんぷんの日本語に出くわすと、それがスラングであろうが、省略語、仲間語、流行語、隠語、俗語の何であろうが、1.5リンガルに格下げされたような感じで、もう、し~らない、や~めた~という気分になる。ああもう、今夜はさっさと寝ちゃおうっと・・・。

雑誌の広告にも福がある
                   
11月8日。月曜日。結局1日が終わる頃にはどよ~っと疲れた気分になって、ベッドに入ったとたんに眠ってしまった。それで、なんともヘンな夢を見ているうちに、目が覚めたら正午の少し前。なんだ、もう「いつもの起床時間」に戻っている。でも、さすがによく寝たあという気がするから、いいか。

仕事、今日もサボりたい気分で、差し迫っている方の納期を再確認して、とりあえず今日1日はサボっても大丈夫と判断。メールを見たら、事務所を持っている同業から仕事の打診。特定の分野で経験者がいない、と。まあ、ワタシは昔その方面はけっこうやったから、納期と料金さえ折り合えば引き受けてもいいと返事をしたのはいいけど、もしも引き受けることになってしまったら、お子様プロジェクトのホームストレッチがきつくなってしまいそう。おい、八方美人もいい加減にしとかないと、また徹夜になっても知らないぞぅ・・・。

けさ届いたMacLean’sの最新号にブッシュ政権の国務長官だったコンドリーザ・ライスのインタビュー記事が載っていた。てっきり進歩的な中流家庭に育ったのかと思っていたら、中流家庭ではあっても、育ちはまだ人種隔離があった頃のアラバマ州バーミンガムの黒人が住む地区で、遊び友達が教会爆破の犠牲になったり、父親がショットガンを抱えて夜通し家の前で見張りをしていたことがあって、子供心に「テロ」とは何かを感じ取ったという。アフリカ系のアメリカ人から「Not black enough(黒人らしさが足りない)」と批判されることについて、そういう批判が破壊的な影響を及ぼすのは、子供たちが「黒人らしさ」とはまともな英語を話さず、学校の成績も悪くて自分たちを「被害者」だと考えることだと思ってしまった場合だ」という。「黒人らしさが足りない」と言ったのは、黒人の彼女が白人に立ち混じって保守政権の中枢にまで進出したのが気に入らなかった黒人たちなんだろうな。ワタシはもろに「日本人らしくない」(not Japanese enoughということかな?)と批判されたけど、これも「外国かぶれ」といった批判と同じで、日本人が海外で欧米人に立ち混じって適応している」のが気に食わない日本人が言ったんだと思えばいいんだろうな。コンディが自分は間違いなく黒人だと言っているように、ワタシも間違いなく日本人なんだけどなあ、日本国民じゃないだけで・・・。

雑誌を読み進んでいて、ぱっと目についたのが「業務用コンピュータを100%償却しよう」というカナダ政府の広告。「2011年1月31日までのチャンス」といううたい文句に誘われてよく見たら、政府の経済行動計画の一環として、来年1月31日までに購入したビジネス用にコンピュータは即100%減価償却できるというもの。カナダの税法では会計上の減価償却とは別に税務上の減価償却があって、機材や設備の「クラス」ごとに償却率が決まっている。しかも新しく購入した場合、初年度には1年の償却額の半分しか認められない。まあ、年度の途中で買うことが多いからなんだろうけど、この特別クラスが適用されると半年ルールもなくて、購入費用をソフトウェアと一緒に全額一気に償却してしまえるという。

うん、いいもの見ちゃった。広告にも目を向けてみるもんだよね。ワタシのコンピュータもそろそろ買い替え時だし、バックアップと携行用にラップトップを買いたいと思っていたところで、しめしめ。ハーバーさん、ありがとうね。問題は、ワタシの年度末は12月末だから、2台とも今年度中に買うか、1台は1月に買って来年度の償却にするか、かな。めんどうだからまとめて買った方が早いかな。ケチケチしないでいいのをど~んと買おうかなんて、ワタシもけっこうゲンキンな人間だけど、テキストの処理がほとんどなもので、今のキカイだって30ギガくらいしかハードディスクの容量を使っていないのに、でかいのを買ってどうするのかな。なんだか急にぜいたくな悩みが出て来てしまったけど、ここはちょいと腕をまくってど~んと仕事をしなきゃあなるまいという気分にもなって来た。だからこういうのをインセンティブと呼んでいるわけでもないだろうけど・・・。

結婚と浮気と離婚と愛と
                   
11月9日。火曜日。一応は晴れていたけど、道路はびしょびしょ。まあ、今の季節、晴れたいんだか、降りたいんだか、よくわからないことが多い。とにかく、朝食を済ませて、銀行へ行くついでに機能しなくなったワイヤレスの温度計の代わりを探して来ることにする。ポーチの気温は5度。でもまあ、運動代わりに徒歩ででかけるからと、半袖のTシャツの上にコットンのジャケット。玄関を開けたら、どうも降りそうな空模様なんだけど、そこで「まあ、どうってことないよ」と傘を持たずに出てしまうのがバンクーバーっ子で、そういう思考の人と35年も一緒にいて、ワタシの思考も「まあ、どうってことないか」。

銀行へ行って、買い物をして、郵便局の私書箱を開けたら、「預かり」の通知。ここ1週間ほどご無沙汰しているうちに郵便物が溢れて保管室入りになったらしい。渡された袋がずっしりと重いのは、通販のカタログの山か。トートバッグに詰めて肩に担いだら、腕がしびれそうなくらい。外へ出たら、雨。「まあ、たいしたことないか」と歩いて行くうちにだんだん本降りになりそうな雨足。運動がてらの早歩きでそれほどひどく濡れずに帰り着いたけど、ためしに測ってみたカタログの山の重さはなんと4キロ。ああ、クリスマス商戦のシーズン到来・・・。

ぼちぼちと仕事を始めて、タイトルと最初の一節をやったところで何となく「飽きた」ので、ほぼ機械的に小町横町の井戸端会議を覗きにでかける。相も変わらず人さまに判断を仰いでいるようなトピックが多いから、おいおい。つい「自分のことなんだから、自分で考えて決めるのが一番いいと思いますが」と頭の中で仮想投稿。ほんとに、どうしたらいいかと真っ赤な他人様に聞いてどうするんだろうと思うようなトピックが多いのは、自分のことさえ自分で考えて決められない迷い人が増えたということなのか。それにしても多いなあ、浮気と離婚。男と女がいたらそんなことは大昔から世の常なんだろうけど、倫理観や価値観が変わったのか、それとも単にインターネットや携帯の普及で、いわば「どこでも浮気」が手軽にできるようになったからなのか・・・。

その背景にぼんやりと見えている(とワタシは思う)のが、結婚したい、結婚したいと言うそこに「人間」の存在があまり感じられないこと。たぶん、「結婚している私」しか頭になくて、「結婚をすること」自体がゴールになっているからだろうと思うんだけど、どうなんだろうな。それで、運良く相手が見つかって、めでたく結婚したら、配偶者は「家族の一員」としてしか見られないとか何とか。情はあるけど愛はなくなったとか何とか。情愛が家族愛に変わったんだとか何とか。結婚することにエネルギーを使い果たしてしまったのか、それとも自分と子供以外に(愛するという)エネルギーを使うのがめんどうくさいのか。まさにそれで外国人の夫から離婚を切り出されて慌てている人のトピックもあって、「女がいるに違いない」とか「外国人はそういうものなんだ」とか。だけど、夫であっても距離をおきたいという価値観て、どういうものなんだろうな。

夫の不倫が発覚して苦しんでいる妻が、離婚と言う選択肢を取らなかった人のその後を聞いているトピックもあって、いろいろな人の思いが書き込まれている。その中で、10年前に夫が部下と浮気して離婚を切り出して来たものの、相手の女に振られて戻っていた来たという人の書き込みが、「夫のことは、許すとか忘れるとか、そういった次元ではなく…ありのまま全てを受け入れて、粉々に砕け散った破片をひとつひとつ拾い集めて再構築してきた、という感じです。今の夫は優しいです」と。なんだか胸にじ~んと来て、思わず涙が出そうになった。そう、そういう選択肢もあるのた。よく、土下座して謝罪させたとか、二度としないと言う念書を書かせたとか言う人もいるけど、そういう解決を選んだ人たちはやがては離婚に行き着いているんじゃないかという気がする。

この女性は「相手の女性のことだけは今でも許せず苦しんでいます」と言う。許せなくてもいいと思うけどな。許さなくたっていいじゃないかと思う。許せないことで苦しむことはないと思う。憎まなければそれでいい。許せない気持が憎しみに変わったらもっと苦しむことになると思うから。

大山鳴動、ありふれた感染症
                   
11月10日。水曜日。今日はいい天気だ。かなり早くに電話が鳴っていた。起きて番号表示をチェックしたら、病院。ボイスメールにメッセージが残っていないから間違い電話かな、と思ったのに、「病院」と聞いただけで、カレシのパニック・ボタンがピピッ。「やっぱり何か見つかったんだ」と、もうあと数時間の命みたいな取り乱しよう。何か見つかったんならメッセージぐらい残すだろうし、電話はあまりならないで唐突に鳴り止んだような気がするから、間違いなんじゃないのと言ってみるけど、ああ、頭の配線が完全にショートしちゃって、ダメだ、こりゃ・・・。

朝食のテーブルをはさんで、カレシが「ちょっとしたことで医者に行ったら、専門家のところに行かされて、なんだかんだと検査されて、超音波検査のテクニシャンがヘンな反応して、それが気になって、ずっと気になっていた」というから、デンバーで寝ずに3時間も話をして納得したようなことを言ってたのに!と、ワタシは少々キレたい気分。「オレ、過剰反応してる?」と聞くから、ワタシとしては「過剰反応していると思う」としか言えないと返したら、「アウトサイダーの客観的な見立てを聞きたいんだ」と。あの、ワタシはアナタの一番近くで、もろにアナタの言動の影響を受ける位置にいるから、他人のアドバイスは要らないと言う人に客観的な見立てをしてあげられるほど離れた「アウトサイダー」じゃないんだけど。

カレシ曰く、「オタワにいた頃、胸に小さなしこりができて医者に見せたら、「病変」という言葉を聞いて大変なことになったとパニックになった。医者はきちんと説明してくれなかったし、相談できる相手が誰もいない土地での一人暮らしだったから、単なる脂肪腫だとわかるまでの間、まるで夢遊病みたいな状態で過ごした。あのときの気が狂いそうな気持も好きだった仕事をやめて帰って来ることにした原因のひとつだった。あれ以来、健康のことで何かあるたびにあのときの気持が戻ってきて、頭から離れなくなる。オタワに行く前のオレはこんなんじゃなかったんだ」と。そっか、トラウマなのか。だったら、ワタシが未だにある特定のことに対してなぜ特定の反応をするのか、わかるよね。(まあ、わからないかもしれないけど・・・。)

ワタシ曰く、「ワタシは過剰反応して気にしすぎていると思うけど、それはアナタの性格がそうさせるんだと思うから、とやかく言わないでいる。ただ、アナタは自分で対処できないストレスを近くにいる人に無言で「何とかしてくれないと爆発する」という威圧で転嫁して、自分の肩の荷を降ろそうとするところがある。それはあまりにも他力本願ではないかと思う。もしも、自分で過剰反応しやすいという認識があって、何とかしたいと思うのなら、本当の意味での「アウトサイダー」に相談してみるのもいいかもしれない。プロなら「アナタという人間」という大きな枠の中で客観的にトラウマの正体や、その対処方法を考えてくれるかもしれない。まあ(と、このあたりからだんだんに哲学論的になって)、人間が住む世界はダイコトミーによって初めて「ひとつ」として完結しているわけで、同じ健康問題でも、ポジティブな見地から対応しようとする人もいれば、ネガティブな対応になる人もいる。中には(パパがそうだったように)うれしそうに病気だと触れて回る人もいると思うよ。そこが人それぞれという所以で・・・」。

でも、カレシとこんな風にしんみりと話ができるようになったのはこの数年のことで、私たちもここまで来たんだなあという感慨があるけど、気を取り直したらしいカレシはとりあえず専門医に問い合わせ。「電話をかけた記録はない」との返事。電話番号はバンクーバー総合病院のいわば「大代表」みたいなもので、病院内のどこからかけても同じ番号が表示されて、しかも折り返しの電話は通じないんだそうな。そこで一件落着したと思ったら、30分くらいでドクターのオフィスから電話があって、尿検査の結果は「尿路感染症」。元の一般医のところへ行って抗生物質の処方箋をもらいなさい、と。「薬で治るんだね」と念を押したカレシは今までの鬱々気分が嘘のように晴れて元気はつらつ。さっそくググりまくって、「特に50を過ぎると多いらしいよ、これ。男よりも女の方がかかりやすいんだって。キミも気をつけたほうがいいよ。今度からは2人とも定期的に健康診断してもらうべきだよな」。あ~あ、病気が見つかったら怖いから健康診断なんて嫌だと言ってたくせに、ゲンキンな人やねえ、アンタ。んっとに、もう・・・。

ドンキホーテのようなワタシ
                   
11月11日。木曜日。11月11日は第一次世界大戦の休戦を記念する祝日。ずっと昔は「休戦」を意味する「Armistice Day」と呼んでいたのが、第二次世界大戦の後で2つの大戦での戦没者を追悼する日として「Remembrance Day」になった。朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、今はアフガニスタンから戦死者が無言で帰って来ている。今年は戦死者を追悼するだけでなく、国を守ってくれる軍人に感謝の意を表する日にもなっている。第一次大戦を戦った最後の兵士が亡くなって、今年はもう誰もいなくなった。第二次大戦で少年兵として戦地に行って帰った来た人たちもすでに80代に入っている。うん、2つの世界大戦はすでに遠い過去の記憶になりつつあるということだろうな。目覚めかけたところで頭上を飛ぶジェット機の音を聞いて、時計を見たらもう少しで午前11時・・・。

とりあえず診断がついてカレシがアップビートになったところで、今日は納期が2つある正念場。マニラは東京より1時間後で助かったけど、全力疾走して午後4時に終わったところで、即納品。トレッドミルに飛び乗って、汗を流して、熱いシャワーでひと息ついてリラックス。まあ、体はリラックスしたけど、頭は次の仕事を考えて全然リラックスしていないから何となくどよんと疲れた気分。夕食後、オフィスに飛び込んで、こっち時間で真夜中の納期に向かって超特急でまっしぐら。薬品名の検索がめんどうだったけど、午後11時45分に送信ボタンをクリック。やったぁ~と思ったのも束の間で、また仕事が降ってくる。あっちとこっちとクライアントが違うから、そっちで調整してくれと言うわけにも行かないから、えいっと両方まとめて引き受けてしまう。これだからダメなんだよねえ。また徹夜になっても、知らないから・・・。

ここのところ、ママがまた入院してしまうし、カレシは「オレ、重病かも」と気に病んで鬱々としているしで、ちょっとばかりストレスがたまりすぎていたのか、仕事に気合いが入らなくて気が散ってばかりだし、また咳の発作が出てきたし。これが10年前なら、カレシとの修羅場のごたごたやら自分自身のうつ病やらで、相当のストレスになっていたはずなんだけど、仕事には集中して没頭できていたように思うから不思議。私生活が暗礁にぶち当たって難破したような状態で、仕事が救命ボートになっていたのかもしれないけど、あのときはネット空間から侵略して来た得体の知れない妖怪を相手に、自分の「聖域」を守るために戦っていたときでもあったと思う。そっかあ、必死で生きるか死ぬかの戦いをしていたから、仕事にも集中できたということなのかなあ。戦いすんだ今ではそういう緊迫感がなくなって、ちょっとしたストレスで気が散ってしまうのかな。うん、そのあたりがよくわからない。

でも、ワタシって意外とファイターなのかもしれないと思う。自分にとって大切なものを守るために気力を尽くして戦っていないと、平和になってしまうと、碇をなくして漂っている船のようになってしまうのかもしれないな。きっと戦わずに降伏するなんて根っからできない性分なんだろうな。何が何でも戦争はダメ、どんなことでも戦いはダメダメという頑固な平和主義者もたくさんいるけど、ワタシはおとなしい子羊にはなれないと思う。吠えかかって来る狼の群れに立ち向かって行かないと気がすまない黒い羊なんだと思う。戦えるのに(何だかんだと屁理屈をこねて)戦わず、狼の餌食になるなんてまっぴらごめん。だって、たとえ万にひとつでも生き延びる可能性があるなら、それに賭けてみなきゃ損だと思うから。

よ~し、それでは腕をまくって仕事砦の攻略にかかるか。とりあえず、鬨の声も勇ましく・・・。