リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2012年2月~その2

2012年02月29日 | 昔語り(2006~2013)
何度やってもいいね、バレンタイン

2月17日。金曜日。起床は午後12時40分。雨模様。念のために鎮痛薬のタイレノルを1錠だけのんで寝たのが功を奏したのか、咳で傷めた首からの頭痛で目を覚まされずにぐっすり眠れた。普段から市販薬はほとんど使わないせいか、いざというときには用量の半分でもパシッと効くような感じがする。ふつうの鎮痛薬でも常用していると耐性ができてしまうということなのかな。日本で若い頃に何度も手首にできた火ぶくれのような痛い発疹が鎮痛薬による薬疹だとわかったときに、皮膚科の先生が言ったっけ。「たとえどんなに良い薬であっても、人間の身体にとっては異物であることに変わりがないんだよ」と。

今日は雨でポーチのデッキ板の取替えができないので工事は休み。きのうはトレリスの取り付けが終わって、裏庭は完全にカレシのもの。午後には電気屋のロウルが来て、ベースメントのドアの外に照明を付けてくれた。家を設計したときにどうしてそこだけ照明を付けなかったのか、今になっては思い出せないけど、真向かいのガレージの壁に照明をつけたら、カレシが庭に上がる階段のステップが見えなくて足を踏み外しそうになったと言うもので、まあ、「高齢化世帯」の安全対策といったところ。マイクが「変わっているけど電気工としてはピカイチ」と評するロウルはジャマイカの出身で、おしゃべりしていると実に楽しい。配電盤の「池」と書いてあったスイッチを切っておいたと言ったら、「ええ、電線はどうしちゃったの~?」と来る。まだ地面のどこかに埋まったままだと言ったら、「あ~あ、知らないよ~、知らないよ~」と言いながら、電源を落とさずにいとも楽々と配線を外してくれた。(うっかりスイッチを入れたら、地面に漏電して、カレシが感電してしまうとか・・・?)

ここのところ仕事の波に乗った感じで、ブログを書いていないことも忘れてどんどん進んだもので、とうとう納期よりも3日早く仕上がってしまった。そこで、今日は遅ればせのバレンタインデーのディナー。久しぶりにPastisに決めた。しばらく行っていなかったけど、店のデータベースに名前があるので、オーナーのジョンさんが「お久しぶりです」。(お客は覚えていてくれたか!という気分になってチップを弾んじゃったりして。)ワタシは前菜にスィートブレッド(羊の胸腺)、メインは鴨の胸肉、コンフィ添え。ソースに何と中華料理の五香を使っていて、それが何とも不思議な味わいになってすごくおいしかった。カレシは前菜がきのこのキッシュ、メインはヒラメのノルマンディー風。ムール貝とアサリが一緒にお皿に乗っていておいしそう。料理が肉と魚に別れたので、ワインは赤と白と別々にグラスで注文。デザートはカレシはプロフィテロールで、ワタシはこの店の特製のプチマドレーヌ。甘みを抑えたチョコレート味とレモン味のひと口マドレーヌは焼きたてのほっかほかで、口に入れるとふっかふか。ああ、天国ぅ~という気分になってしまう。

バレンタインが終わったばかりでレストランは空いているかなと思ったら、どうしてどうして。あっという間にほぼ満員。ほとんどが年配層の客なのがおもしろい。ワタシたちのようにバレンタインデーのラッシュをやり過ごした人たちなのかもしれない。久しぶりの外食でワタシもカレシもすっごく楽しかった。あんがい久しぶりだからかな。世紀が変わった頃から7、8年くらいは週末ごとに食べ歩いていたけど、どんなに高級なレストランでもカリスマシェフのグルメ料理でも、毎週となるとやっぱり飽きが来るものらしい。カレシのコレステロール問題で魚食に切り替えた頃にはほとんど惰性のようになっていたから、ぱったり外食をやめてもちっとも気にならなかった。まあ、「久しぶりに」とか「たまには」とかいうのはそれだけでプラスアルファの要素になるってことか。Less is moreと言われるけど、ひっくり返せばmore is lessと言うことだろうな。

おなかいっぱいでほのぼのした気分になった帰りは、Whole Foodsに寄って好物のシリアルに、魚を何種類か(今日の掘り出し物はストライプバス!)、切らしていた柚子と酢橘のポン酢、ランチ用に冷凍のチキンもどき(大豆タンパク)のオレンジ煮とサケ、マグロ、マヒマヒの3種類の魚バーガー、寝酒のつまみ用にはニシンの燻製を調達。その足でさらに酒屋に寄って、忙しがっている間にみんな切れてしまった酒棚の補充(レミ、アルマニャック2種、ジン、ベルモット、そしてワインの補充。ハウスワインにしていたニュージーランドのStarboroughのソヴィニョンブランはカレシが2010年ものが前の年より甘いと言うので、ニュージーランドの別のワイナリーのものを数本と新入荷らしいStarboroughの2011年ものを数本。ワイン造りはデリケートだから、年毎に天候条件などで味に微妙な違いが出る。だからワイン通はヴィンテージがどうのこうのと熱くなるんだけど、カレシも違いがわかるようになったのかなあ。ふ~ん・・・。

今日はいい日だったね。遅ればせの(というか二度目の、というか何度やってもいい)ハッピー・バレンタイン!

放射能難民を申請した日本人の却下第1号だって

2月18日。土曜日。かなりの雨。薬なしでも頭痛で目が覚めることなくぐっすり8時間。仕事もほんのちょっとだけ一段落したので、今日は休養日。(次に納期まで20日足らずで原稿用紙換算250枚の仕事が控えているから、1日だけの休みってことなんだけど。)

朝食が終わる頃には雨が止んで、日が差してきたから、キッチンのテーブルでコーヒーを飲みながら、仕事にかまけてごぶさたして読みかけの本を開く。今読んでいるのはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』。なんとも背中がぞくぞくと寒くなって来る本だな。だって、焚書による言論統制がテーマかと思っていたのが、読み進んでみると「恣意的な愚民政策」の話で、書かれた頃にはSFだったかもしれないけど、描かれている近未来の「情報が映像化、感覚化されて思考停止した社会」がどうしても「今」と重なってしまう。特に主人公モンタグの行動を怪しんで様子を見に来たビーティ隊長の説諭?はまさに恣意的な愚民化の過程を説いたもので、読むほどに「今」を予言しているようでぞっとした。おかげで、怖いもの見たさもあるのか、あっという間に半分ほど読み進んでしまった。

おとといだったかケニー移民大臣が難民受け入れの制度を抜本改革して、「安全」と思われる国から来た人の申請はさくさくと審査して、さくさくと片付ける(送り返す)と発表して、あちこちの利害のある方面からブーイングが起こった。ワタシとしては、そういう(一応であっても)民主主義が機能している国から来た「難民」はおそらく身勝手な理由でカナダに住む権利を得ようとしていると考えるから、日々身を粉にして稼いで決して安くない税金を払っているカナダ国民としておもしろくない。どこの国の人だって自分の国でそういうことが起きていれば同じような感情を持つだろうと思うけどな。

ところが、今日のトロントの新聞「Toronto Sun」紙に、日本人女性の難民申請が却下されたという記事が出ていて、目が点々。2年前のバンクーバーオリンピックのときに観光ビザで来た日本人が2人だか3人だか難民の申請して、その報告を受けた大臣が「アホか!」と言った(とか言わなかった)という新聞記事を思い出した。何でも、今回の女性は福島原発の放射能の影響が怖いし、日本政府は信じられないという理由で、「自分の身が危険に曝されている」と難民申請をしたらしい。アホか~と思ったら、この女性は正式な判定が下った「最初」のケースで、あと何十人だかの日本人の「原発難民」が受け入れ可否の判定を待っているというから、ますます目が点点々。なんでぇ・・・?

そうまでしてカナダに住みたい理由は何なの?デフレとはいえ未だに世界第3位の経済大国なんでしょ、ニッポンは?日本人同士の「絆」を大事にする人間にやさしい国なんでしょ、ニッポンは?海外をチラ見した日本人が「ああ日本人で良かった(○○人じゃなくて~)」と声高に自慢できるすごい国なんでしょ、ニッポンは?放射能が怖いからって、それでも1億何千万人が折り合いを付けながら暮らしているんでしょ、ニッポンでは?もしもうまい具合に難民として認定されて永住できることになっても、どうせカナダはあ~だこ~だと愚痴るんでしょ?国も人もバカでしょうがないけどいてやっているんでしょ、カナダには?まあ、この人たちは何でもいいけど何とかしてカナダに長居できる方法を探していて、「なあんだ、難民ビザってのがあるじゃん!」とダメ元の気分で申請しただけなのかもしれないけど・・・。

カナダにはいろんな国から「難民」が何千、何万と来る。その人たちが判定を待つ間、そして判定を不服として抗告して、さらに上告して最終的に決定が出るのを待つ数年の生活費や医療費のめんどうを見るのはカナダ人が払った税金なのだ。いつまでもお人よしの国だと利用されているのを「世界から尊敬されている」と自己満足している場合じゃないと思うけどな。そんなんだから、国民がこぞって「安全」と自慢する経済大国からまで「迫害から逃れて来た」んだから入れろと要求して来る人たちが出るんじゃないの?

つらつらと思うに、移民大臣が抜本改革を打ち出したのはたぶんあのオリンピックのときの日本人難民の出現がきっかけだったのかもしれないな。放射能からの「難民」が続々と申請して来たもので、ケニー大臣はやっと難民政策のお人よしさかげんを何とかしなければと気がついたんだろうな。不要不急の自称「難民」を食わせるために使う税金をそれを納める自国民の福祉のために使うときじゃないかと思うよ。日本人だってきっとそう考えるだろうと思うけどね。ま、あと何人判定待ちなのか知らないけど、日本国政府が「棄民政策」を打ち出したのでない限り、早々にお帰り願って、未曾有の大災害に遭った愛する母国の復興に尽くしていただく方が日本にとってもいいことだと思うんだけど、そういうとまたああだこうだとうるさそう。ほんとにもう、世の中には不思議な人たちがいるもんだと思うしかないか・・・。

縁は異なものスルメの味わい

2月19日。日曜日。晴れたり曇ったり。気温はちょっと低めの5度。ゆっくりと寝て、正午を過ぎたところで起きて、1日の始まり。まず朝食後に本を開く。ますますページの後ろに「今」が見えて来るような錯覚が起きる。10ページほど読み進んで、今日はこれまで。

園芸センターに行くカレシにHマートの近くで下ろしてもらって、ひとりで買い物。日曜の午後だからすっごく混んでいたけど、すぐ退屈してそわそわし始めるカレシがいないから、棚の商品をじっくりと見て歩く。ラベルがハングルだけのものが多いけど、調理法を英語で簡単に説明する札が下がっているものもある。へえ、韓国の人たちはこんなふうに食べるんだ~。聞こえるのはほとんど韓国語なもので、ちょっぴり観光客の気分になって楽しい。(食いしん坊のワタシは世界のどこに行ってもマーケットやスーパーを「観光」するのが大好き・・・。)あちこちのテーブルで試食品を調理していたり、大きなストーブのような機械で焼き芋を作っていたり。焼き芋の売り場はすごい人だかり。へえ、韓国の人たちも焼き芋が好きなんだね。漬物を甕から売っていたテーブルにあったのは化粧箱に入って売っている九州の明太子の倍くらいある大きな明太子。コリアンスタイルと書いてある。高いけど日本のよりはずっと安いのでパックに5本入れてもらったら、おばさんが計量して値段のラベルを貼った後で「エクストラ!」と言いながら大きいのをもう1本入れてくれた。うわっ、すごいおまけ!カムサハムニダ!

新しい菜園を作るボーンミールや肥料を買いに行ったカレシの収穫はコルシカミントの苗。池を撤去してガレージとパティオの間に唯一残った「岩」が不規則な形だったので、通路の敷石との間に点々と隙間ができている。とりあえずマイクに砂利を詰めてもらったけど、そこに縁取りとして植えるつもりらしい。うん、いいよねえ、雨上がりに歩くと足下からミントの香り・・・。うん、仕事が早めに一区切りついたおかげで、何かと2人で楽しんだ週末だったね。カレシ曰く、「キミも引退すれば2人でいろんなことやれるよ。だから、早く引退しなよ」。う~ん・・・。

先週はバレンタインデーのある週ということで、ローカルテレビのニュース番組がいろんなトピックを取り上げていて、その最後が「バンクーバーは出会い砂漠」(日本流に言えば「恋愛氷河期」というところか)という話。元気な独身女性だちが男が消極的過ぎていい出会いがない!と嘆いているという話で、え、バンクーバーの男たちも草食化してるの?と思ったら、けっこういい男が「だってアプローチして振られたら嫌だ」と言うのを聞いて、なるほどっ。でも、ダウンタウンに行けば「ニッポン女子求む」という男は草食、肉食、雑食取り混ぜてまだまだたくさんいるようだし、明らかに(日本だったら絶対に婚活の対象にならないような)欠陥ありの男でも恋に落ちる(恋愛体質?の)ニッポン女子も絶える気配がないようだから、必ずしも「出会い砂漠」というわけではなさそう。まあ、娯楽系のIT/デジタル産業があるせいでオタクっぽい男が多いのかもしれないし、女性が賢くなって男を見る目が厳しくなったのかもしれないし、つまりは、需給関係のミスマッチというところか。少なくとも縁が「異なもの」であることは確か。

だけど、草食化やオタク化を抜きにしても、「デート難民」問題の根底にはデジタル育ちの若い人世代がイメージ先行型で、何でも完全保証書付き、できれば取扱いマニュアル付き、組立て不要で故障なしの「完成品」を求める傾向を強めているということじゃないかと思う。テレビでよく流れているe-HarmonyやMatchドットコムという、いわゆる恋活/婚活サイトのコマーシャルは、どれも売りは(最新のIT技術を駆使して選別した)「パーフェクト・マッチ」。画面には「完璧に合う」相手を見つけてもらって、ラブラブで幸せ絶頂のカップルがいかにも楽しそうに笑っている映像が流れる。ひょっとして、欠陥(ミスマッチ)があったら、一切不問で全額返金とか無償修理とか、新品お取替えとかいう保証書をつけてくれるのかなあ。

いつも思うんだけど、人間は死ぬまで完成し得ない、いわば「生涯仕掛品」なんであって、デザインも構成部品の形も数も千差万別なのに組立て説明書も完成図も(完成予想図さえも)一切ないし、おまけに完全保証なんてついて来ないし、(トラブルシューティングの章がある)取扱いマニュアルもついて来ない。このあたりは親として子供を育てた人なら良く知っているだろうと思うけど、まさに手探りでの関わり合い。成人した男女となればその縁も関わり合いもきっと先史時代から解き明かされていない人類最大の「謎」で、こればかりは終わり良ければすべて良しとするしかない。ひとつだけ確かなのは、人間の関わりに関する限りでは、結婚にしても友情にしても、(すぐに使える)組立て不要の完成品は金の草鞋を履いて世界の果てまで探しに行っても見つかりっこないということか。

そういえば、シリーズの最初に恋愛アナリストとかいうおばさんが「ニュースがあります。男性はあなたの気持ちを読めません」と言うので、そんなのニュースでも何でもないよ、誰だって昔から知ってることだよねえ、とカレシに振ってみたら、カレシは苦笑。あんがい女性って世の東西を問わず察してちゃんなのかなあ。でも、男には女心なんかわからないし、女にも男心はわからないんだから、ここは痛み分け。そこが縁は異なもの味なものという所以で、まあ、「味」の方は腐っていたり、カビが生えていたり、口に合わなかったりするものはペッと吐き出してしまうだろうし、たとえ口に合っても、その「味わい」は10年、20年、30年と噛んでみないとわからないかもしれない。あら、何だかスルメの話みたい・・・。

人間の権利について来る義務って何だろう

2月20日。月曜日。曇りのちちょっと雨もよう。いつの間にか風邪も首から来る頭痛も消えてしまって、連夜かなりの熟睡。よく眠れるのは何よりも気分がいいな。カレシは天気が好転してマイクが残りの作業ができるようになる日のために、裏のポーチの周りに野放図に広がっているウィンタージャスミンの刈り込み。ベースメントからの階段に沿ってトレリスを立てて植えたら、とにかく旺盛に茂って、上のポーチの周りにもびっしりと緑の壁。名前に「ウィンター」とついている通り、いつも1月から黄色い花を咲かせる。日本では黄梅とか言うらしいけど、梅の花にはあんまり似ていないような。本州の暖かいところで梅が咲き出す季節に咲くからなのかな。

寝る前にニューヨークに仕上がったファイルを送っておいたワタシは、今日からまた仕切り直して次の仕事とがっぷり。いや、これはでかいぞな。ちょっとピッチを上げてがんばらなくちゃね。今日の月曜日はアメリカが同じ月にあるリンカーンとワシントンの誕生日にちなんだ祝日で三連休。東のオンタリオ州でもなぜか「ファミリーデイ」という祝日。そういえば、元旦から次の復活祭(早くて3月下旬)まで三連休の「飢饉」が続くと言うので、2月に祝日を設けるべきという議論はだいぶ前からあったな。ファミリーデイというのはその頃から候補に上がっていたもので、オンタリオ州では4年前に施行したそうな。へえと思っていたら、BC州でも来年から2月の第3月曜日が「ファミリーデイ」の法定祝日になるという記事。へえ、ハッピーマンデーか。これでもまだ日本より祝祭日は少ないけど、ま、ご隠居と自営業の我が家は連休も週末もぜ~んぜん関係ない。

首都オタワでは、テイヴズ公安大臣がインターネットの児童ポルノ摘発の目的で警察に「のぞき見」の権限を与える法案を出したもので、連邦議会は騒然。猛反発する中道より左の野党は「プライバシー侵害」の旗を振るのは当然だけど、それを大臣が「反対するやつは児童ポルノを支持しているのも同然だ」とやり返したものでますます騒然。そこで誰かが大臣の離婚裁判記録をツイッターに流し始め、オタワの新聞社が「おとり」のリンクを送って投稿者のIPアドレスが議会お膝元の下院内にあって過去にWikipediaに左派政党を持ち上げる記事も投稿していたことを突き止め、さらにはハッカー集団まで乗り出してきてテイヴズ大臣のプライバシーを洗いざらいぶちまけると脅迫するやらで、「プライバシーの保護」を訴える抗議のつもりだったんだろうに、逆に「インターネット上にはプライバシーなぞ元から存在しない」という現実を見せつける何とも皮肉な展開になって来た。正々堂々の議論をせずにネットの匿名性を利用して相手を攻撃して黙らせようとするのが今どき流「権利」運動の手法なのかもしれないけど、それは怖いな。

他人にあれこれ個人的なことを探られたくないのは誰だって同じ。だからそこに「プライバシー」という壁を作って、知られたくないことを公にされない権利を認められているんだけど、権利というのはある意味で「特権」でもあると思う。プライバシーだって「その壁の後ろで他人を害するようなことをしない」という信頼に基づいて与えられる特権ではないのかな。だから、ワタシとしては、プライバシーを盾にしてこそこそと他人を害することをするのは信頼を裏切る卑怯な行為だと思う。犯罪を犯せば一定期間「自由」という権利を取り上げられる。国によっては犯罪によっては自由どころか「生きる権利」を取り上げられることもある。でも、悪用して他人を害しないと言う信頼に基づいて与えられた権利のその「信頼」に背いたんだから当然の報いだと思うけどな。よく権利には義務が伴うと言われるけど、「他人の権利を尊重する」義務という形で説明されることが多い。でも、ワタシは何であれまず権利を与えてくれた人間社会の信頼を裏切らないことが自分の権利に付帯する最大の義務だと思うんだけどな。まあ、裏切るようなことをするやつほどことさらに(自分の)権利を尊重しろとうるさいみたいで、人間って何なんだろうと考えてしまうけど。

何となくだけど、「人類」という地球上の生物種はすでにピークを過ぎて、徐々に衰退しつつあるという予感がしなうでもないな。あの、人間さま、だいじょーぶ?西暦3000年まで行けそう?

持続ストレス性腹ぺこ症候群だ

2月22日。水曜日。ふと目が覚めて時計を見たら「12:23」。起きて仕事をしなきゃ!といい気持ちで眠っているカレシを肘で突いて起こしたら、がばっと頭を持ち上げたカレシが時計を見て「なんで?まだ10時じゃないか」。よく見たら、ほんと、時計は「10:25」。ひょっとしたら、あまりガシガシと仕事をやりすぎて、また視力が下がったのかな。ま、なあんだということで寝なおして、起きたのは正真正銘の「12:13」。予報に反していい天気。寒気が下りて来て、週末には雪が降るかもって、冗談でしょ?

きのうは常連のところから引き合いがあって、断ってばかりでは何だからと引き受けてしまった。ほんとは立錐の余地もないところにぎゅっと押し込んだわけで、後でしわ寄せが来そうな予感がするけど、常連のお客さんはそこを曲げても大事にしないとね。だけど、今年が明ける前から仕事ラッシュだったせいか、ストレス性腹ぺこ症候群で、あまり動かないのにやたらとおなかが空く。まさにサポルスキー先生の講義の通り、気づかないうちにストレスが溜まっていて、原始時代に組まれた生存プログラムが起動して、すわ飢饉!と勘違いした脳が「大変だ、とにかく食べられるだけ食べてエネルギーを蓄えろ」と叫んでいるような感じがするな。徹夜で仕事をしたときなどはてきめんで、普通に食べても30分もすると腹ぺこ感が襲って来て、脳が「ストレス警報解除」を発令するまで2、3日は「おなか空いた~」の連発だもの。

だけど、「口がさびしい」という感覚ではない(というかこの感覚はワタシにはわからない)ので、元々しない間食をするまでには至っていない。それでも体重はやや右肩上がりで、1990年代後半のストレス太りにじわっと近づきつつあるような感じもする。やぁ~だ、どうする?あの頃は洪水のような仕事の忙しさだけじゃなくて、更年期とかカレシとのこととか、何やかやがどっと重なった「複合ストレス」で、今になって当時の写真を見ると思わず「げぇ~ッ」となるくらい太った。たぶん、難しい思春期真っ盛りの高校時代以来の太りようだったと思うな。それがカレシとの大嵐に遭遇したら、ほとんど普通に食べていたのに半年で7、8キロもやせた。サポルスキー先生によれば、あれは飢饉とは別の「戦うか逃げるか」という瞬発的なエネルギーを要求するストレスに対応するために、よけいな荷物を捨てて身軽になろうとした結果ということになる。

つまり、今は持続的なストレスにエネルギーを蓄えることで対応している状況ということか。ストレスが去って空腹感がなくなれば、体重も徐々に減って、まじめに運動をすることでBMI22くらいの普通レベルに戻るよね(とのんきに構える極楽とんぼ・・・)。もっとも、花も恥らう婚活女子なら、「デブ」と言われたら猛省して(誰のか知らないけど)基準に合わせる努力をすべきなんだろうけど、この年(あと2ヵ月で64!)になったら、ぽっちゃりを放置するのもダイエットで矯正するのも本人の勝手で、健康でさえあればいいと思う。だって、他人にスタイルがいいとかモデル体型だとか言ってもらうためにやせようとしてもよけいストレスになるだけで、身体よりも心の健康に悪いんじゃないかと思うな。(ま、ワタシとしてはダイエットなんかめんどうくさくて、やろうと思ったところでやれっこないと思っているから、負け惜しみを言っているのかもしれないけど。)

それでも、「最盛期」の水準までまだまだ余裕があるなんて言ってはいられないかな。午前4時の寝酒とおつまみ、やめてみる?やめらないよねえ。やめたら仕事の後の緊張をほぐす楽しみがなくなってしまって、それじゃあよけいにストレスかも。納期まであと2週間。原始の脳が命じるままに食べて、飲んで、エネルギーをため込むことにするか。あ~あ・・・。

また次々と家電が壊れ始めた

2月23日。木曜日。今日も予報外れのいい天気。起床は午後1時。ゆうべは地元産のイワシの燻製をつまみながら、お気に入りのシングルモルトのスコッチを傾けて、ゆったりした気分で就寝。ごみの収集日なのに、トラックの轟音でもまったく目が覚めなかったくらいの熟睡。疲れてきたのかなあ、やっぱり・・・。

朝食後に『華氏451度』を読み終えて、しばし黙考。小説としてはかなり荒削りで、人物の肉付けが足りないような気がするけど、テーマは意味深長だな。小学校時代によく読後感想文というのを書かされたけど、最終的にはもっと本を読みたい、本を読んで頭がクラクラするまでいろんなことを考えたいというのが今回の「感想文」。いつもいつも参考資料のような、要するに実用書みたいなものばかり読んでいたような気がして、ほんとに久しぶりに書物と「つながった」という実感があったから、それだけでも大きな収穫だと思う。老後の娯楽のためにと稼ぎを注ぎ込んでせっせと買い集めて来た本。リビングの壁3つにある本棚にいったい何十冊、何百冊あるやら。その本を開くのに老後まで待つ理由なんかあるはずがない。ということで、勢いに乗ってこれにしようか、あれにしようかと迷って、次はポール・オースターの『ニューヨーク三部作』。

カレシは庭仕事、ワタシは仕事。コンピュータの前に座ったら、立ち上げる前の真っ黒な画面に映ったワタシの顔・・・あ~あ、しっかり二重あごになっちゃってる。元々首が太短くてあごも奥行きがあまりないワタシ、激やせしても首を傾げると二重あごになるんだけど、少しでもぽっちゃりになると、ああ、ほんとの二重あご。何とかしなくちゃダメかなあ、これ。必要以上に食べているということは火を見るより明らかだけど、「持続性ストレス警報発令中」の脳みそは聞く耳持たずで、困ったもんだな。まあ、風邪のときのように仕事に没頭したら「腹ぺこ」メッセージをやり過ごせるかもしれないけど、後でどっと「腹ぺこ」になって元の木阿弥になる予感。

そんなときに先日のコーヒーメーカーに続いて、今度は電子レンジが急死。前の夜はちゃんと動いていたのに、次の日にはうんともすんとも言わないなんて、そんなあ・・・。何かひとつが壊れると2つ目が壊れて、2度あることが3度になるのはどうして?何年か前にも、家電やエレクトロニクスが2、3ヵ月の間に次々と壊れたことがあった。カレシは「みんな同じ組合なんだよ」と冗談を言っていたけど、5つも6つも壊れるとやっぱりちょっとばかり気味が悪かった。もっとも、この電子レンジはかなり長いこと使っているから、あんがい寿命だったのかもしれない。しばらく新しいのを買いに行く時間がなさそうだけど、普段からあまり使わないし、いざとなったらベースメントにある500ワットので間に合わせられて、あまり不便がなさそうなのが勿怪の幸いか。だけど、どうしてこういうときに限ってこういうことになるのかなあ。もしかして何かの陰謀・・・?

そういえば、先だって日本のどこかの新聞に「買ったけど期待ほどではなかった家電」の調査結果なるものがあって、トップは「食器洗い乾燥機」、次いで「衣類乾燥機」、そして「ホームベーカリー」の順だった。ワタシの三種の神器は「食洗機」、「全自動洗濯機・乾燥機」、そして「貯蔵用フリーザー」だから、ほとんど逆だな。日本の家庭では食事のたびに茶碗や小鉢の類をいくつも使うから、それを洗ってくれる機械は主婦の省力化の花形だろうと思ったけど、機械の洗い方に満足できなくて、結局手で洗い直すという人がけっこういるらしい。要するに自分でやった方が早くてきれいだということか。日本の主婦は潔癖症が多いみたいだし、期待通りに洗ってくれないのでは使えないやつになってもしょうがないな。ワタシの食洗機もたまに洗い残しのかすがついていたりするけど、ずぼらなワタシは濡らしておいてまた食洗機に入れてしまう。(おたくに食事に呼ばれたくないわ、と言われるか・・・?)

ホームベーカリーというのはパン焼き器のことらしいけど、我が家ではもう20年くらい朝食用のパンを焼いている。現在の機械はたしか7代目。最初はワタシが使っていたのに、いつのまにか自家製好きのカレシが自分の「持ち場」にしてしまった。朝食のパンを焼いている。まあ、日本はご飯を食べる文化だから期待することもかなり違うだろうと思うけど、ホームベーカリーに関しては、カナダでも買ったはいいけどキッチンのカウンターの隅っこで埃をかぶっているというケースが多いんじゃないかと思うな。貯蔵用のフリーザーは日本ではあまり使われていないから出て来なかったんだろうな。こっちでは共働きがあたりまえだし、ショッピングセンターのスーパーまで車で買出しに行かなければならないところなもので、まずどこの家にもある。我が家のは中でも一番小さい200リットルだけど、離婚する前のジムとマリルーの家には倍くらいの大きさのが2つもあった。

さてさて、二度あることは三度あるというから、次は何だろうな。テレビかな。カレシの野菜用冷蔵庫かな。それとも洗濯機かな。知らないよ。ちょっと戦々恐々・・・?

1億の絆があるはずなのになぜ孤独死?

2月25日。土曜日。きのうの朝の雪まじりの雨に続いて、今度は強風注意報発令中。高台では予報通りの「雪」だったけど、たぶんバンクーバーで一番気候温暖な我が家のあたりでは、カレシによると「大きいのが3枚か4枚」。もう来週は弥生3月なんだから。弥生って草木が芽を出して茂るという意味じゃなかった?

中小企業の年金を運用していた会社が2千億円も無くしていたという嘘みたいな本当の話。運用に失敗して損が出て、それを客に知られないうちに取り戻そうあがいているうちに2千億円が消えたということかな。日本の新聞サイトではほんの数行の電報文みたいな記事しかなかったけど、『ウォールストリートジャーナル』紙にかなり詳しい記事があった。ま、オリンパス事件以来、日本のビジネスの隠蔽体質が注目されているから。何でもリーマンショックの後の2009年頃に「利益が安定しすぎていておかしい」と警告を発したアナリストがいたそうだけど、「有名な」ところじゃなかったから、お金を預けていた企業は信じなかったんだろうな。それとも、株価も景気も不安定な状況で「安定した」利益を得ていることに安心したのかな。年金の掛け金を払っていた人たちはどうなるんだろう。中小企業で働く人たちが額に汗して稼いで、老後のために積み立てたお金なのに。

世界第3位の豊かな国でひっそりと餓死する人がいる。各国の新聞も「kodokushi」という日本語の表現をそのまま使って報道していた。かって「karoshi」という日本語がメディアをにぎわしたけど、日本語をそのままローマ字で表記するのはその国にそういう現象を表現する言葉がないから。東京圏のようなカナダの全人口に匹敵するくらいの人たちがひしめき合っているところで、電気やガスを止められたことや病気や飢えを誰にも知られずに死ぬ人がいて、それを何ヵ月も誰も気づかずにいる。部屋で死なれては迷惑だからと孤老に部屋を貸したがらない風潮さえあるという。福祉担当の役人は「プライバシーの壁に阻まれた」、薄々でも問題に気づいていた人たちも「プライバシーに立ち入るのは・・・」。ひょっとして他人のプライバシーを自分が見たくないものを見ないですませるための遮断幕にしているんじゃないかと勘ぐってしまう。

母親と幼い子供が死んだ事件では、障害児を持った母親が福祉の助けを求めなかったのは日本に「恥の文化」があるからだと言った評論家?がいた。恥じることを美徳とするのが日本文化だということはわかっているけど、それは自分に対して恥ることじゃないのかな。母親が障害児を持った自分を恥じていたということなのか、障害を持った子供のことを恥じていたのか。漢字を見るとわかるけど「恥」は「心の耳」、つまり自分の「良心の耳」だと思うんだけど、日本の美徳とされる「恥の文化」は世間が見たくないものを見せるなかれということのようで、だから助けを求める(つまり見たくないものを見せる)人には「恥を忍ぶ」という屈辱(罰)を与えるのかもしれないな。あんまり人に優しいようには思えないけど。

母親が自分自身を恥じるのは勝手だけど、障害を持って生まれてしまった子供のことを恥ずかしいと思うのは、子供の人格を否定することではないかと思う。出かけるのに着るものがない言うのと変わらないように思う。ほんとうに着るものがないんじゃなくて、自分が恥ずかしくない(つまり他人の目に映える)ものがないということが多い。最近の小町にもファッション感覚ゼロの友人と一緒にいるところを知り合いに見られたら恥ずかしい、どうしたら友人を変えられるかという相談があったけど、これも友人は着る物と同じで自分が他人の目に映えるための小道具でしなくて、だから自分が世間に対して恥ずかしいと、見事に友人の人格を否定している。理解しがたい心理だけど、小町横町にはそういう住人がひしめきあっているから、やはり文化の影響かな。いつの時代か誰かが元々美徳であった文化を都合がいいように定義しなおしたのかもしれない。見たくないものを見ないで済む、つまり問題を隠蔽すれば対応の努力をせずに済むんだから、こんなに楽なことはない。

他人が窓にカーテンをしていないために家の中が見えてストレスになるという感覚も、ワタシには理解できないけど、小町横町には多数派なのかと思うくらいたくさんいるらしい。人間、意識していないものは見えないんだから、見えるということはつまり見ているということじゃないのかな。見てストレスになるんだったら見なければいいのにと思うけどね。そりゃ素っ裸でいるのが見えて不快だというのならまだわかるけど、自宅で日常生活を営んでいる人たちに向かって、見えるのがストレスになるから見えないようにしろというのは、俗に言う逆切れってやつじゃないのかな。「私がストレスを感じなくて済むようにカーテンの陰に隠れて暮らせ」、つまり「私」の視界から消えろと言っているようなものだと思う。きっと自分の視界のどこまでが自分のスペースなのか、つまり、どこまでが自分でどこからが他人なのかがわかっていない人なんだろうな。

自分と他人の区別を心理学ではバウンダリー(境界線)と言うけど、自分の境界線が見えないということは「自分」が果てしなく漠然と続いているような感じなのかな。そういう状態では漠然とした不安感が起こってもおかしくはないかもしれないな。常に漠然と不安を感じているところへ他人が視野に入ってくると、その他人はその人自身のスペースにいるだけなのに、視野の持ち主はその他人を別のスペースにいる人格として認識できないから自分のスペースを侵犯されたように感じてストレスになってしまうのかもしれないな。漠然とした不安を呼び起こすものは「見せるな」、「隠せ」、心の耳に不快に響くものは「聞かせるな」、「黙れ」という「恥の文化」を作り上げたのは、いつの世だったのか知らないけど、あんがいそういう人たちだったのかも。

それじゃあ人と人の間の空気は薄くなるだろうし、絆も切れてしまうだろうな。中小企業で懸命に働いて、老後のために払い込んできた年金を知らない間にごっそりなくされた人たちに飢えて孤独死するような運命が待っていないことを祈るばかり・・・。