尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

旧川喜多邸別邸と鎌倉映画の話-鎌倉散歩②

2017年04月09日 21時13分44秒 | 東京関東散歩
 戦前に東和商事を作ってヨーロッパ映画の名作を日本で公開した川喜多長政、かしこ夫妻の邸宅が「鎌倉市川喜多映画記念館」になっている。2010年の開館で、映画の上映もやっているけど、まだ行ったことがなかった。(鎌倉へ行く交通費だけで東京で映画が2本見られるから、わざわざ行く気にならない。)ところで、記念館の隣に別邸があり、そこは春秋の特別公開しか見られないというから、一度行ってみたいなと思っていた。場所は鶴岡八幡宮の近く、小町通りをずっと行って左折したあたり。
   
 これは何だというと「旧和辻邸」である。その前は神奈川県の大山付近にあった江戸時代後期古民家だった。それを和辻哲郎が練馬区で居宅として使用していたという。それをさらに川喜多夫妻が移築したもので、今は鎌倉市の所有になっている。世界から映画人が訪れるたび、ここでもてなしたという。記念館の隣だけど、高台になっている場所にあり、小雨で地面が滑りやすい。背後に山があり、落ち着いた景観になっている。ガラス戸が開けられ、ここで撮られた写真が掲示されている。ヴィム・ヴェンダースが小津について撮った「東京画」という映画はここで撮影されたという。
   
 和辻哲郎はほとんど読んでないんだけど、長男の夏彦氏が父の同級生だった。旧制武蔵中学の時で、単に同級生というだけでなく、テニス部で親友だったらしい。よく和辻さんという名前を小さいころから聞いていたんだけど、50代くらいでなくなってしまった。この家にかつて住んでいたこともあるんだろうか。また父の知人で、僕の仲人をしてくれた人が、鶴岡八幡宮の近くで駐車場を持っていた。若いころにお正月に訪ねたことがあるけど、初詣が一番の繁忙期で忙しそうだった。
 
 その後、記念館を見た。いまちょうど「鎌倉映画地図」という特集をやっている。「海街diary」で使われた着物なんかも展示されていた。ところで川喜多夫妻は日本の映画界に非常に大きな足跡を残した人である。いまも映画界に貢献した人に贈る川喜多賞が贈られている。長政は戦時中に中国で「中華電影」を設立し、かしこは高野悦子とともに「エキプ・ド・シネマ」を結成して岩波ホールでの上映運動を始めた。だけど、僕はやはり重要なのは戦前のヨーロッパ映画公開だと思う。
 
 「巴里祭」「会議は踊る」「望郷」「女だけの都」「民族の祭典」…。今の若い人は名前も知らないかもしれないけど、僕の親の世代はこれらの映画で外国を知った。だから小さいころから名前をよく聞かされて育った。そして、それらの映画は僕も若いころにたくさん見ることができた。それは東和が上映した映画のフィルムは、すべてフィルムセンターに寄贈されていたからである。戦前のヨーロッパ映画の特集上映は昔のフィルムセンターでよく行われていた。フィルムが収蔵されているからである。

 ところで、鎌倉を舞台にした映画は数多い。僕が最近見たものでは、田中絹代が鎌倉彫の店で女主人をしている「黄色いからす」(五所平之助監督)がある。戦後の鎌倉駅周辺が映し出されていた。また澤井信一郎監督「早春物語」では原田知世が鎌倉の海辺の高校に通っている。(映画内では学校名は出てこない。)鎌倉のお寺もずいぶん出てくる。ずいぶんいろんな映画あるもんだ。

 それでも最近の「海街diary」を除くと、やっぱり鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」が僕には印象深い。また見たいなあと思うが、中で出てくる「釈迦堂切通し」は見たら忘れられない印象を残す。一度実際に見てみたいと思いつつ、調べると「今は通行止め」と出ている。でも場所を調べてみると、「旧華頂宮邸」や「報国寺」の近くなのである。バス通りからちょっと離れると、もう深山めいたムードが漂い、ウグイスが鳴いている。それが鎌倉である。具体的には詳述しないけど…こんな感じ。
 
 切通しなんだから、向こう側を探してみると、もっと近くて一応見える。ここは金沢街道と名越のあたりを結ぶ山道だった。非常に印象的なんだけど、まあ「通行止め」ということである。不思議なムードの映画に取りつかれた人でもなければ、あえて見てみる必要もないと思うけど、どこにあるかと思うと、案外市街地のすぐ近くにあるということが鎌倉の面白さである。鎌倉で見てないところは多くて、実は大仏も見たことがない。元気なうちに少し回ってみるかなあと思った鎌倉散歩だった。
 
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旧華頂宮邸と報国寺-鎌倉散歩①

2017年04月08日 23時05分22秒 | 東京関東散歩
 晴れていたら絶好のお花見日和の週末だけど、あいにく関東は土日とも雨もようの予想である。あんまり散歩に向かないんだけど、鎌倉へ行ってきた。というのも、「旧華頂宮邸」と「旧川喜多邸別邸」が特別公開されるからだ。毎年春秋に二日ほど公開されるので、まあ秋に行ってもいいわけだけど、行く気になった時に行かないと機を逸するものだから行くことにした。

 鎌倉駅から金沢八景駅行バスに乗って、浄妙寺前で降りる。道を渡って報国寺方向へ歩いて数分で、「旧華頂宮邸」がある。歩いても35分ぐらいとあるけど、道が判ってないからバスで行った。月火を除き庭園だけは公開されているようだけど、家の内部は特別公開だけ。最初に中を見て、それから庭へ下りるんだけど、全景は庭から見た方が判りやすい。最初に庭からの写真を。
  
 ところで、「華頂宮」(かちょうのみや)なんて言っても、誰だそれ、課長の宮さんかという感じだろう。そんな皇族がいたのか。現代史にも全然出てこない。それも道理で、大体「旧華頂宮邸」という呼び方は、ちょっと正しくない。もちろん「華頂宮」という皇族はあったわけだけど、ほとんど活動がなかった。1868年に伏見宮邦家親王の12子、博経親王が創設したのが初代。この人は1870年に米国へ留学し、海軍軍人となった。1873年に帰国したが、1876年に26歳で亡くなった。博経親王の子は臣籍降下するはずが、幼い身を惜しんで明治天皇の特旨をもって存続できた。だけど、2代博厚親王は1873年に8歳で亡くなってしまった。悲運の皇族なのである。
   
 そこで元の伏見宮家から当主貞愛親王の第一子(だけど、庶子)の博恭親王が華頂宮家を継いだ。しかし、伏見宮家の嫡子が病弱だったため、1904年に博恭親王は伏見宮家に戻った。この伏見宮博恭親王が、1932年に海軍軍令部長になった人。昭和史に関心のある人には知られた名前である。(陸軍が閑院宮を参謀総長にしたので、海軍も対抗したわけである。もちろん皇族はお飾りで、実務上のトップは次長が務めていた。)博恭親王が伏見宮家に戻った後、その第2子博忠王が2歳で華頂宮家を継いで、長じて海軍軍人になったが、1924年に22歳で亡くなってしまった。
  
 華頂宮第4代博忠王は妻子がなかったので、これで終わり。華頂宮家の祭祀は、博忠王の弟(博恭王の3男)伏見宮博信王が継ぐことになり、臣籍降下して華頂侯爵家を起こした。この邸宅が作られたのは、1929年。だからここは正確に言えば「旧華頂侯爵邸」である。一度も宮邸だったことはないはずだけど、まあそれは細かい話。華頂侯爵家が住んだのは数年で、持ち主はたびたび変わったという。現在は鎌倉市所有で、国登録有形文化財となっている。
   
 華頂宮家の由来を詳しく書いてしまった。まあ知らないことは多いんだなあということである。インターネットで調べられてしまうから書いたけど、近代史の片隅で起こったことだ。洋館を見る楽しみとしては、かなり小ぶりなもので、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)や旧前田侯爵邸に比べるとそれほど大きくない。当主の地位が違うということなんだろう。中の写真を上に載せたが、まあどこの洋館でも似ている。様式の説明は自分でも判らないから省略。庭から表門側に回って表の写真を撮って帰る。

 旧華頂宮邸のすぐそばに「報国寺」がある。1334年創建と伝えられる臨済宗の禅寺である。鎌倉のお寺は行ってないところが多く、ここも今回初めて知った。「竹の庭」が有名だという。鎌倉のガイド本には必ず出ている。見るには200円の拝観料がいるけど、これは壮観だった。竹ばかりのド迫力に心奪われて何枚も写真を撮ってしまったけど、後で見ると皆同じようなものばかり。
   
 まあ4枚に留めておくけど、これは何枚載せても見た感じは伝わらない。道には人がいるし、大体立ち止まって写真を撮っている。竹だけ撮っても同じような感じなんだけど、竹が高いし密集しているから迫力が凄い。そのさまを何と表現するべきか。歩いて行くとぐるっと回って、石庭がある。向こうには崖が見えている。そこを周ってお寺に戻ると桜が満開である。その後、釈迦堂切通しや川喜多邸別邸へ行ったけど、その話は映画の話になるので別に書くことにしたい。
   
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冒険ふたたび、「キトラ・ボックス」-池澤夏樹を読む⑦

2017年04月07日 21時17分47秒 | 本 (日本文学)
 池澤夏樹の「アトミック・ボックス」(角川文庫)という本のことをちょっと前に書いた。(3.20付記事)ところで、その続編というべき「キトラ・ボックス」(角川書店)という長編小説がちょうど3月に出たばかりだった。最近、池澤夏樹の新刊は買ってなかったんだけど、そうと知ったら買わずにいられない。長そうな「騎士団長殺し」を後回しにして、こっちを読み始めたら、スイスイ読めて一日で終わってしまった。

 まあ、ものすごく出来がいいかというと、ちょっと疑問もあるけれど、とにかく面白い。その一番の理由は、前作「アトミック・ボックス」の主要登場人物が再結集することである。前の本の登場人物はとてもよくできていた。その設定をそのまま使えるんだから、スイスイ進むわけだ。逆に言えば、前作を読まずに、こっちから読んではいけない。前作の結末を前提にして書いてあるから。

 もっとも、前作のヒロイン宮本美汐は今回は脇役である。美汐と一時付き合いながら若い院生に心が移り、その後捨てられてしまったという讃岐大学准教授の藤波三次郎。前回は脇役だったけど、今回の主役は彼の方で、専門の考古学でちゃんと活躍させてもらっている。でも真の主人公はウィグル族の女性研究者で、大阪の民族学博物館で研究職をしているカトゥン、可敦という人である。この人の研究上の活躍と同時に、ウィグル族をめぐる複雑な政治情勢がテーマとなっている。

 藤波は瀬戸内海の高地性集落を研究していたが、もうひとつ、奈良県の天川にある日月神社(フィクション)のご神体の研究を頼まれる。その鏡と似ていると思われるものが新疆で発掘されていて、その報告をした人がいま民博にいると知った藤波はその女性研究者、可敦に連絡を取る。さらにしまなみ海道の大三島に、もう一つ似た鏡があるということで二人で見に行くと…。そこで可敦は何者かによって拉致されそうに…。彼女を守るため、藤波は美汐に助けを求め…。意外な人物まで総結集して救援に動き始める。前回は日本政府が相手だったけど、今度は中国公安(と思われる)が相手とは。

 実はもうひとり、主人公的な人物がいて、それはキトラ古墳の被葬者その人である。なんで関係してくるかというと、可敦さんが鏡の文様とキトラ古墳の壁画の類似に気が付くのである。それは現代の話だけど、小説の中ではキトラ古墳の盗掘から話が始まり、古代の人々が登場してくる。そして、「キトラ古墳の真の被葬者」が判るという設定になっている。なんとも大胆な設定である。歴史上の疑問点を「解決」してしまうんだから。中で書かれているように、キトラ古墳の被葬者は、阿倍御主人(あべの・みうし)とか高市皇子、弓削皇子などの説が出されている。小説もそれに基づいている。

 という、1300年の時空を超えて人々が活躍するという大胆不敵な小説である。だけど、ミステリーや冒険小説としてはちょっと物足りない。そういう小説は、謀略のスケールの大きさ、主人公たちの陥る危険の深さがあってこそ、スリルとサスペンスがいや増すことになる。でも、「キトラ・ボックス」はそこがちょっと弱くて、サスペンスというより「仲間小説」っぽい作り。まあ、いつもいつも緊張して書いてるわけにもいかないだろうから、これはこれで楽しい。むしろ、「古代史ミステリー」の趣も強くて、壬申の乱をめぐる「真相」などちょっと驚く設定になっている。

 ところで、中国の民族問題、特にチベットとウィグルをどう考えるべきか。この小説はその難問を突き付ける面もある。昔のミステリーでは、なんでもアメリカのCIA、あるいはソ連のKGBなんかの謀略にしてしまうことがあった。中国の台頭とともに、日本でも中国公安が出てくる小説がけっこうあると思うけど、そういう時代になっている。「キトラ・ボックス」に出てくる話自体はフィクションだけど、ウィグル族に対する監視が日本でも行われているのは事実だろう。ウィグル人研究者が帰国したまま出国できない事態は、今までにも起きている。そういうことも考えさせる小説である。
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紀尾井坂散歩

2017年04月06日 21時40分35秒 | 東京関東散歩
 冬が終わり桜が咲き始めると、ようやく街を散歩しようかという気持ちになってくる。ところが今年は3月後半がずっと寒くて桜がなかなか咲かない。東京の開花日だけは早かったけど、あれは靖国神社にあるとかいう標本木が早すぎるのである。どこも3月にはほとんど咲いてなくて、4月になって少し咲き始めてきた。4日、5日と暖かくようやく満開と言える感じになった。そこで四谷から紀尾井坂を歩いてみることにした。そういうところがあることは知っているけど、行ったことはなかった。
   
 JR四谷駅から上智大学方面に出る。今回は大学は見ていないけど、そこから外堀に沿った土手道になっていて、桜が咲き誇っている。上智大学生かと思われる学生グループがシートに座っているけど、案外人は少なくて歩きやすい。つい気が付かずに通り過ぎてしまいそうになるけど、右側を見ると土手下のJR線路の向こうに迎賓館が見えている。威容というか、異様な感じもするけど。
  (右写真はアップ)
 土手上の散歩道は案外短くて、下りたところが紀尾井坂のてっぺん。行く手にホテル・ニューオータニの大きな姿が見え、左手には紀尾井ホールがある。1995年に開設したクラシック・邦楽の専門ホールで、まだ一度も行ったことがない場所である。ホテル・ニューオータニの方も同じく一度も行ったことがない。東京にいて東京には泊まらないけど、これほど大きなホテルで結婚式をやったりした親戚もいない。紀尾井坂はほぼ半面がホテルの敷地に面している。けっこうちゃんとした坂道で、これほど急なまま残っているところも珍しい。東京の坂道は市電敷設で均されたところが多いけど。
  
 上の3枚目がホテル・ニューオータニだが、東京五輪をめざして建設され、1964年9月1日に開業したという。日本の高層建築の走りと言える歴史的建築物。今はこの後ろに建て増しされ非常に大きな建物になっている。道から歩道を歩いていくと、日本庭園がある。そこにも高そうな風情のある料理屋がある。また旧幕時代から続くカヤやイヌマキの木があって、千代田区の天然記念物に指定されている。そこらも面白いんだけど、今は省略して「紀尾井坂」の由来を。
   
 「紀尾井坂」というのは、江戸時代にここに「紀州藩」「尾張藩」「彦根藩(井伊家)」の屋敷があったことから付いた名前である。上の写真は、名前の由来順に記念碑を並べたもの。紀伊和歌山藩徳川家屋敷の碑は、坂を下りきった「東京ガーデンテラス紀尾井町」(旧赤坂プリンスホテル)の弁慶橋際に立っている。尾張名古屋藩徳川家屋敷の碑は、紀尾井ホールの隣にある。上智大学は尾張家屋敷跡に建てられた。そして、近江彦根藩井伊家屋敷は、ホテル・ニューオータニになってる場所で、道から少し入ったホテル歩道わきに碑がある。尾・井の碑は近いが、紀州碑が離れている。

 この紀尾井坂で日本史を変えた事件が起きている。「紀尾井坂の変」と呼ばれる。1878年(明治11年)5月14日、ここで大久保利通が襲われ絶命した。大久保の地位は「内務卿」だったけど、事実上明治新政府のトップと言っていい。前年の西南戦争で、薩摩藩で並び称された西郷隆盛はすでにない。長州藩の木戸孝允も前年に世を去っていた。大久保の横死で、ここに「維新の三傑」はすべて去った。
   
 紀尾井坂を下りて赤坂見附の方に曲がると、清水谷公園がある。そこに大久保利通の碑がある。「贈右大臣大久保公哀悼碑」とある巨大な碑で、1888年に建てられたもの。ちょっと虚を突かれるほど大きな碑で、さすがに歴史上の偉人だなと思うけど、ちょっと大きすぎる感じもした。この「清水谷公園」という場所は、昔よく新左翼系のデモの出発点になっていたから名前を聞くことが多かった。だいぶ公園の様子も変わっているそうで、今では集まる空間がない感じ。清水谷の説明碑があり、また公園入口に満開の桜の木があった。お昼時だったので、お弁当を食べている人がいっぱい。

 さて坂を下り切ると、昔はそこに赤坂プリンスホテルがあったということだけど、それも僕は知らない。2011年3月いっぱいで営業を停止し、たまたま同時期に起こった原発事故避難者の一時受け入れに使われたことは記憶に新しい。今は取り壊されて、紀尾井町ガーデンテラスになっている。そこに以前からあり、今も残されているのが、「赤坂プリンス クラシックハウス」。ビルを登っていくと一番上にある。これは東京の建物に関心がある人には有名な「旧李王家邸」である。
   
 それが上の写真の瀟洒な建物である。今もレストランやバーなどが営業している。「李王家邸」とは、つまり大韓帝国最後の皇太子、李垠の邸宅として1930年に建てられた。様式はチューダー・ゴシックで、細部にスパニッシュ・スタイルも見られる。と言ってもよく判らないけど、いろいろ見ていると「スパニッシュ」は何となくわかる気がする。当時李王家は皇族に準じる扱いを受けていたから宮内庁内匠寮が建てたものである。戦後、李王家もなくなり、西武が入手し赤坂プリンスホテルとなった。非常に見ごたえがある洋館で、複雑な歴史的経緯も含めて、東京を代表する洋館の一つだろう。(なぜか大きな白いトナカイの像があるのが不思議だけど。一番最初の写真をよく見ると写っている。)
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追悼・大岡信

2017年04月05日 21時44分30秒 | 追悼
 詩人・評論家の大岡信(おおおか・まこと)氏が亡くなった。1931年2月16日~2017年4月5日、86歳。ごく最近、岩波文庫の「自選 大岡信詩集」を読んだばかりで、感想を書こうかどうしようかと思っていたところだった。他のことを書こうと思ってたんだけど、それではやはり追悼としても書いておきたいと思った。というと、大岡信をたくさん読んできたと思われるかもしれない。実はそうでもないし、有名な「折々のうた」も読んだり読まなかったりだった。

 僕は現代詩をそんなに読んでないんだけど、それでも全然読まないという人が多いと思うから、そういう中では読んでる方になると思う。昔、角川文庫で現代詩選集5巻が出たときがあり、それを高校生ころに読んだから、戦後の重要な詩人には一応一回は触れたのである。大岡信の詩ももちろん入っていて、60年代までに書かれた詩を読んで強い印象を受けた。例えば、有名な「マリリン」のラスト「マリリン/マリーン/ブルー」のイメージの飛翔に感銘を受けたのである。

 そんな中で一番心を打ったのが「一九五一年降誕祭前夜—朝鮮戦争の時代」という詩だった。読んでいたのが、まさに冬休みのころで、僕にとっては「一九七二年降誕祭前夜—ベトナム戦争の時代」だった。ちょうどニクソン米大統領が猛烈な北ベトナム爆撃(北爆)を行っていた時である。パリで行われていたベトナム和平交渉は最終盤を迎えていると報じられていた。実際、ベトナム和平協定(パリ協定)が締結されたのは、1973年1月27日のことである。それなら北爆などないはずだが、その最後のころに猛烈な爆撃が行われた。国際政治の酷烈なさまを見せつけられたわけだが、僕はこれは和平協定が近いということを逆説的に示しているんだろうとはニュースを聞いて思ったのだった。

 ところで、「降誕祭前夜」とは、つまり「クリスマスイブ」のこと。でも漢字で書くだけで、なんだか詩的なムードがグッと高まるではないか。「おれたちの青春は雨にうたれている」と詠まれた冷徹な認識と愛をうたった清冽な詩情が同居する。大岡信の詩的世界に僕は圧倒されたのである。冒頭におかれた「青春」という詩は「あてどない夢の過剰が、一つの愛から夢を奪った。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような裂目がある」と始まる。詩だから具体的にはよく判らないんだけど、青春に傷つく心の彷徨が読む者の心に強く伝わってくるではないか。

 その後の詩人の歩みも書きたいところだけど、今回「自選 大岡信詩集」を読むと、それ以前の作品が大量に採用されている。そしてその初期詩集は、17歳で知り合い、曲折はありつつも結婚し生涯をともにした妻・深瀬サキ(彼女も詩を書き、筆名が深瀬サキだった)への愛を背景にして書かれている。だけど、知り合う前の16歳に書かれた「朝の頌歌(ほめうた)」もすでに抒情の質において、明らかに後の大詩人を思わせている。

 「朝は 白い服を着た少女である/朝は/谷間から/泉から/大空の雲から/野木のささやかな流れから/朽ちた木橋のたもとから/その純白な姿を/風に匂はせながら静かに現れる」と始まる。この詩を16歳で書いていたのだから、驚くほかはない。言葉によって紡がれるイメージの連鎖にビックリする。

 僕がこの前書いていた作家日野啓三は、大岡信にとって一高で一年先輩だった。その後、東大入学後、日野、大岡、佐野洋で同人誌を作る。卒業後、読売新聞に入社するまで三人の経路は共通していた。日野啓三が亡くなった時、葬儀委員長を務めたのは大岡信だった。日野啓三は新聞をやめず、ベトナム特派員になるわけだが、大岡信は1963年に32歳で退社。堤清二のあっせんでパリ・ビエンナーレに参加し、以後の国際的活躍が始まるわけである。

 詩集にある年譜をみると、1974年のところに、実相寺昭雄監督「あさき夢みし」の脚本を担当。また潤色を担当した「トロイアの女」を早稲田小劇場で上演と出ている。詩や評論に限らず、広いフィールドで活躍する文学者だったのである。ずいぶん僕もその名を見聞きしていた。(ちなみに、この「あさき夢みし」は「とはずかたり」の映画化で、非常に面白い傑作だと思った。近く実相寺監督の特集上映がユーロスペースであるんだけど、この映画が入ってないのは残念だ。)

 連歌に通じる「連詩」を提唱・実践しつつも、「うたげと孤心」という評論の名にあるような、双方を日本文化の伝統、詩の本質と見たんだと思う。この「うたげと孤心」という言葉は知っていると人生に役立つと思う。僕にとっての大岡信はそこまでで、その後「折々のうた」で有名になっちゃった後はあまり読んでない。岩波文庫の詩集は、機会があれば読んでてほしい。
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マレーシア映画「タレンタイム~優しい歌」

2017年04月04日 23時30分54秒 |  〃  (新作外国映画)
 マレーシアの故ヤスミン・アフマド監督(1958~2009)の遺作「タレンタイム~優しい歌」が渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開されている。初めて正式の公開ということになるが、映画祭等で今までかなり上映されている。僕もヤスミン・アフマド作品は全部見ていて、以前に書いている。でも、それは2011年とずいぶん前のことになるから、この機会に改めて簡単に紹介しておきたいと思う。

 僕はこの映画を多くの若い人々、特に音楽が好きな人、東南アジア諸国に関心がある人に見て欲しいと思うんだけど、やっぱりマレーシアという国に関する基礎知識は必要だと思う。そのことは、かつて「ヤスミン・アフマド監督の映画①」「ヤスミン・アフマド監督の映画②」でかなり書いているので、そちらを参照して欲しい。なんと言ってもピート・テオの楽曲が素晴らしく、耳に残り続ける。また、民族や宗教、あるいは障害の有無などを超えて、人は理解できるし、愛し合えるという監督の信念が伝わる。

 世界がますます分断され、宗教をめぐる争いも絶えない今、マレーシアのムスリム女性監督がこのようなメッセージを残していたことの意味。それが今こそ、多くの人にこの映画を見て欲しい理由である。基本的には誰にもわかりやすい青春音楽映画だけど、この映画にはいくつかの「判りにくいところ」もある。それは「マレーシアの独自な社会事情」もあるし、「監督の独自な作風」もある。それに「監督の理想主義的な作為」も大きい。そのことをいくつか指摘しておきたい。

 まず、「タレンタイム」という言葉なんだけど、これは高校生の音楽・舞踊コンクールの一般名詞としてシンガポールやマレーシアで使われている言葉だそうだ。まあ、タレント(才能)タイム(時間)なんだろう。学校の文化祭みたいな感じだけど、個々で参加する。その学校以外の生徒も応募していいし、選抜された生徒だけが本選に出られるということらしい。マレー系のムスリムだけど、イギリス人の祖母を持ちリベラルな家風で育ったムルーというヒロインは、大学進学予備課程に通っているという。

 一方、男子のハフィズはマレー系だが、転校してきてすぐ一番になる。それでトップを奪われたカーホウは華人系で、ハフィズに対して恵まれているくせにといったことを言う。それは「マレー系優先政策」で大学進学も華人系は不利だという事実を背景にしている。タレンタイムではハフィズが自作の歌を歌い、カーホウは二胡の演奏を行う。この二人の関係がどうなるかも映画の大きな焦点になる。

 さて、ムルーの送迎を行うインド系のマヘーシュがいないと、この映画は成立しない。だからインド系というか、タミル人というべきだろうが、そういうマイノリティを出す必然性はあるが、彼はろうあ者である。そこに大きなドラマ性が生じるが、このようなろうあ青年が一般の学校に通っているのか。それはまだいいとして、耳が聞こえない青年を「バイク送迎」の担当になぜ選ぶのか。そこがある種、監督の理想主義的な設定で、現実のマレーシアではないんだろう。それを言えば、そもそも「なぜ送迎の生徒がいるのか」という根本問題がよく判らない。公共交通機関ではダメなの?

 その他、いくつもの「よく判らないシーン」もある。ドビュッシーの「月の光」やバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を流しながら映像を流すシーンが何回かあるけど、これはヤスミン・アフマドのお得意の手法である。一方、ハフィズの母のもとを訪れる「謎の車いす男」は何なのだろうか。彼こそ、「神」が言いすぎならば「運命」の象徴的表現ではないかと思うのだが。母の死期をつかさどっていて、彼女にイチゴを差し出し、母も運命を悟って受け取る。そういう表現なのかなと思うんだけど。

 まあ、マレーシアの多民族国家性から理解の難しい点もある。映画内でもいくつかの言語が話されていて、それは字幕に工夫がされている。監督の作風自体、モザイク状にいくつものエピソードを並べていき、必ずしも直線的に話を進めない。そういう作家性に基づく部分もあると思うが、それでも監督のメッセージは世界に届くだろう。それは「愛は民族を超える」ということで、そのことを素晴らしい歌で表現している。とても心に響き続ける映画だから、見る機会があればぜひ見て欲しいと思う。
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渡瀬恒彦、ムッシュかまやつ、清水房雄等-2017年3月の訃報

2017年04月03日 20時29分46秒 | 追悼
 2017年3月の訃報特集。まず、最初は渡瀬恒彦(1944~2017.3.14、72歳)。言うまでもなく渡哲也(1941~)の弟で、僕も70年代前半には「弟」として見ていた。兄弟で俳優をしているのは、阪妻の子どもの田村兄弟、山本學・圭、亘兄弟など、けっこう多い。アクション俳優でも、松方弘樹の弟目黒祐樹、宍戸錠の弟郷鍈治などがいたけれど、弟として一番大成したのは渡瀬恒彦ではないか。

 70年代半ばは、猛烈なアクション俳優で「狂った野獣」(1976)のバス横転を自分で運転したことは有名。新聞の訃報には「仁義なき戦い」などと出てるんだけど、俳優の序列で10番目程度なんだから代表作にはできない。70年代半ばには、東映に名高い「ピラニア軍団」というのがあったが、渡瀬はその兄貴分みたいな印象だった。転機になったのは「北陸代理戦争」で事故があって入院したことだという。その後は「演技派」的な部分が大きくなり、「事件」(1978)などでキネ旬助演賞を得た。

 僕が一番印象的なのは、「神様のくれた赤ん坊」(1980)や「時代屋の女房」(1983)だ。あるいは「セーラー服と機関銃」(1981)もあるけど、見ていた方としては桃井かおりや夏目雅子、そして薬師丸ひろ子の映画を見ているのである。別に渡瀬恒彦を見に行くわけじゃないけど、今になってみると渡瀬恒彦が良かったなあと思うのである。90年代以後はテレビ出演が多く、晩年までずっと出ていたからお茶の間の知名度はずいぶん高かったようだ。僕はテレビドラマをほとんど見てないので、その時期のことは書けないけど。今は若い時のアクションぶりを見直してみたいなと思う。

 ムッシュかまやつ(1939~2017.3.1、78歳)は、僕は「かまやつひろし」が芸名で、相性が「ムッシュ」なのかと思っていたら、89年以降「ムッシュかまやつ」が芸名だったのだという。本名は「釜萢弘」である。父親がジャズミュージシャンのティーブ釜萢で、若いころから音楽活動をしていて、「ザ・スパイダース」で活躍した。というのもずいぶん昔話だな。「我がよき友よ」(1975)という拓郎の曲が当時大ヒットしたけど、僕にとっては何と言っても「シンシア」の方である。なんか、渡瀬恒彦といい70年代頃の話ばかりになってしまうけど、要するに訃報というのも自分の若いころの思い出なのである。

 そういう意味では、チャック・ベリー(1926~2017.3.18、90歳)になると、時代が離れていて思い出がない。もちろん名前は知っている。「ジョニー・B・グッド」である。あるいは「ロールオーバー・ベートーベン」。それらは50年代の話だから、僕にとっては同時代的な感じが伝わらない。名前は知っているけどね、ということになってしまう。そういうロックの伝説時代の人。

 被爆医師と知られ反核運動に取り組んだ肥田舜太郎(1917.1.1~2017.3.20)が、100歳で亡くなった。広島市内で軍医として赴任中、爆心地の北6キロ地点で被爆した。直後から救援にあたり、以後ずっと反核を訴え続けた。直接に話を聞いたことはないけれど、ずいぶんたくさんの記録映画で証言を残している。映像として残されたものは、今後も残り続ける。(スティーヴン・オカザキ「ヒロシマナガサキ」や鎌仲ひとみ「ヒバクシャ」などの映画である。)

 歌人の清水房雄(1915~2017.3.3、101歳)は、戦後の「アララギ」を支えた人と言われる。2004年には斎藤茂吉短歌文学賞を受賞している。山形県上山の茂吉記念館には茂吉賞の受賞者が顕彰されているが、10年ぐらい前に訪ねた折に見た思い出がある。永田和宏「現代秀歌」(岩波新書)には、次の一首が選ばれている。「先に死ぬしあわせなどを語りあひ遊びに似つる去年(こぞ)までの日よ

 という歌人としてというよりも、僕にとって清水氏は「影山先生の連れ合い」ということが大きい。清水氏は戦後都立高校に勤務し、北園高校の校長を務めたとウィキペディアにある。先の歌に詠まれたのは、乳がんでなくなった先妻である。影山先生は僕の高校時代の古文の先生で、70年代初めから夫婦別姓を実践していた。高校時代から強い印象を受けていた。母校を中高一貫化して中学で扶桑社(育鵬社)の教科書を使う問題が起こった時に、反対運動を作り上げる中で再会した。でも「連れ合い」の方がどういう人かは全く存じ上げなかったが、10年ぐらい前にようやく知った次第である。100歳を超える長寿を全うしたのは、影山先生の尽力も大きいと思う。
 
宮部行範(みやべ・ゆきのり、3.7没、48歳) アルベールビル冬季五輪で、スピードスケート1000mで銅メダルを獲得。
長友啓典(3.4没、77歳) グラフィックデザイナー
ロバート・ジェームズ・ウォラー(3.10没、77歳) 「マディソン郡の橋」の作家
デレク・ウォルコット(3.17没、87歳) カリブ海のセントルシア出身の詩人、劇作家。92年ノーベル文学賞受賞。
コリン・デクスター(3.21没、86歳) イギリスのミステリー作家。モース警部もので知られる。かなり独特の論理的作風だけど、なかなか癖になる。ハヤカワ文庫から出ている。
岡崎トミ子(3.19没、73歳) 民主党政権で国家公安委員長を務めた。元民主党副代表。90年衆院選で、民法穴から社会党議員となった。社会党時代から議員をしていた人が少なくなっていく。
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教練復活?-銃剣道が中学武道に!

2017年04月01日 22時25分33秒 |  〃 (教育行政)
 4月1日、あまりにも驚くべき記事があって、思わず「エイプリルフール」かと思ってしまったけれど、間違いない事実なのである。中学体育の新学習指導要領で、「武道」の中に「銃剣道」が入るという話である。そもそも「銃剣道」なるスポーツがあって、国体の正式種目になっているということも初めて聞いた。検索してみると、確かにそのとおりである。

 学習指導要領の改定案の修正を見てみると、「「F武道」については,柔道,剣道,相撲,空手道,なぎなた,弓道,合気道,少林寺拳法,銃剣道などを通して,我が国固有の伝統と文化により一層触れることができるようにすること。また,(1)の運動については,アからウまでの中から一を選択して履修できるようにすること。なお,地域や学校の実態に応じて,空手道,なぎなた,弓道,合気道,少林寺拳法,銃剣道などについても履修させることができること。」とある。

 上の文章で下線部分が追加された部分である。つまり、基本としては「柔道、剣道、相撲」の中から一つを選んで学ぶわけである。だけど、空手道、なぎなた、弓道、合気道、少林寺拳法の中から選んでも良かったところに、銃剣道が加わったわけである。指導者である体育教員の事情を考えれば、柔道、剣道が多くなるだろう。銃剣道が文面上加わったからと言って、すぐに学校で実施されるということにはならないだろう。それは判っているけれど、これは何なんだろうか。

 そもそも、「我が国固有の伝統と文化により一層触れることができるようにする」なんていう言葉遣いそのものが、最近よく耳にするようになった気がするだろう。前回書いた「道徳」教科書問題も似たような言葉が出てくる。それはどうしてかというと、2006年の第一次安倍政権で成立した「教育基本法改正」から発しているわけである。そこから、2012年に中学体育で「武道必修化」が実施された。

 中学では発達段階上、「武道」を体育で義務化することには心配も多かった。事実、柔道部の部活動では死亡事故も起こっている。いろいろと現場には心配も多かったと思うけど、「我が国の伝統と文化」などという言葉が今の日本では呪縛力を持っているのである。よく考えてみると、少林寺拳法など「我が国の伝統」なのか疑問になる。他の競技も同じだろう。銃剣道というのも、銃を使うんだから近代になって外国(フランス)の影響で作られたものだそうだ。

 戦前には「学校教練」という科目があった。1925年から始まった。大正時代に結ばれたワシントン軍縮条約で、日本でも「軍縮」が進められた。だけど、その代わりに軍人を学校に派遣することが始まった。教練を修了したものは、幹部候補生の資格を得られるなど特典があった。でも、実際はどれほど嫌なものだったか、戦後に書かれたいくつもの小説に書かれている。また、「学校体罰」が広がる起源としても、学校教練が大きかったと言われる。

 その教練の実技に重要なものが、「銃剣」だった。その「刺突訓練」は、中国戦線で実際に使われた。いまの「銃剣道」はスポーツ化されたものだというけれど、それでも旧軍隊を思い起こさせるのは間違いない。何も学校でやるべき必然性もない。それほど一般的に普及しているとは言えないだろう。多分競技関係者には自衛隊関係の人が多いのではないか。今後、研修会などを通して体育指導者と自衛隊関係者が密接になっていく危惧もある。安倍内閣の教育政策の方向性が、とかく「復古的」だということが、ここにも示されていると思う。
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