尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「大阪都構想」再論①

2015年04月08日 00時08分37秒 | 政治
 少し現実に戻って。とにかく沖縄をめぐる情勢、政府の対応がひどすぎて、何か書きたいと思い続けているけれど、書くとなると調べることも多いし…という状態。中学教科書の検定結果も公表され、これも書きたいけれど、いずれもっと調べてからにする。安倍政権の政策、あるいは首相以下の発言のあれこれが、反対というレベルを超えて、どこから手を付けていいのか判らない絶望感さえ感じる。

 そんな中で、もう書かなくていいかと思った「大阪都構想」なるものが甦ってしまって、5月に住民投票がある。その前に府議選、市議選が今行われている。「大阪都」に自民党大阪府連は反対のはずなのに、「憲法改正の同志」が欲しい安倍首相が橋下市長を持ち上げる。橋下市長は首相にすり寄る。「公明党は許せない」などと言ってたのに、昨年12月の総選挙で、公明現職のいる選挙区に「維新」は候補を擁立しなかった。その後、公明党は「都構想」に反対のはずなのに、住民投票を行うのは容認するなどと不思議なことを言って、都構想の採決に賛成してしまった。賛成した議案に、住民投票では反対するのか?こういう「裏取引」(誰だって、そう思うでしょう)は、やだなあ。

 橋下市長、あるいは「大阪維新の会」をどう考えるべきか、重大性、緊急性が今よりもあった時期がある。その時期に「大阪都構想」をどう考えるべきかについて書いた。基本的には今と同じなんだけど、時間が経ったので、もう一回書いておきたいと思う。「維新」側の考えも知りたいと思う人は、「大阪都構想―二重行政を解消し、大阪は豊かになる」というホームページがある。一々読む気もしないけど、詳しく知りたい人は参照。大阪都構想は紆余曲折があったけど、一応いまのところ、「大阪市を解体して、5つの特別区に分割する」ということが基本。大阪の土地勘がないから、僕にはよく判らないけど、その区割りは以下のようなものとされている。
■東区 城東区、東成区、生野区、旭区、鶴見区
■北区 北区、都島区、淀川区、東淀川区
■湾岸区 港区、此花区、福島区、大正区、西淀川区、住之江区
■中央区 西成区、中央区、西区、天王寺区、浪速区
■南区 阿倍野区、平野区、住吉区、東住吉区

 さて、「大阪都」というものは、僕の見るところ、要するに「単なる思い付き」であって、現代人によくある「自分から不幸になりたがる人々」の発想法だと思う。やって見れば判るけれど、面倒なことがあるだけで、かえって不便になるだけだと思う。そのことは、冷静に考えればすぐに判ることである。現在もすでに大阪市のサービスは切り詰められているようだが、「大きいことで得られるメリット」が基本的にはなくなってしまう。大阪市民が大阪市全域で受けられているサービスが、新設の「特別区」の住民だけになるのである。(もちろん、大阪府に移管されて同様に受けられるサービスもあるだろうが、それは旧大阪市民だけではなく、大阪府民全員が共通に受けられるものである。

 さて、そういう問題を考える前に、「大阪市はどのくらい大きいのか」を見ておきたい。二重行政だの何だのと言われるのは、つまりは「大阪府の中で大阪市が大きな位置を占めている」というイメージから来ている。だから、府と市で張り合うだの、協力しないだのということが起きるということらしい。今までの府と市の関係は、外部の人にはよく判らないから何も言えない。そういうこともあるのかもしれないが、要するに「大阪市の大きさ」と言っても、絶対的な基準はなく相対的なものである。(例えば、相撲取りの世界で「小兵」と言われる力士でも、一般社会では「ずば抜けて大きい」わけである。)

 さて、では「大きさの基準」は何だろうか。大きくは3つあるだろう。「面積」「人口」「税収入」である。前の二つは「目で見て理解しやすい」指標だが、本当に大事なのは税収の方かもしれない。だけど、税収の割合を調べるのは面倒なので、個々では面積と人口を見ておくことにする。(税収に関しては、府税収入の中で、大阪市民が納税している割合を見るだけでなく、大阪府の各市町村税の合計の中で大阪市税収入がどのくらいあるかも調べる必要がある。また市が解体されると、市税がどのように「府税」と「特別区税」に分割されるのかも。)

 さて、まずは東京から。
 東京都の面積は、2,190.90km² 
 東京23区の面積は、622.99km²   割合は、約28.5%
 東京都の人口は、13,392,417人
 東京23区の人口は、9,157,590人  割合は、約68.4%
*面積は3割にも満たないが、人口は3分の2以上が区部に集中している。

 では、大阪の場合。
 大阪府の面積は、1,904.99km² 
 大阪市の面積は、225.21km²   割合は、約11.8%
 大阪府の人口は、8,845,977人
 大阪市の人口は、2,687,456人  割合は、30.4%
*東京都に比べて、大阪府の中で大阪市が占める割合は、半分以下だということが判る。

 やはり大都市の問題だから、人口が重要なので、他の道府県の場合も少し見てみたい。
北海道の人口(5,432,200人)の中で、札幌市の人口(1,936,239人)が占める割合(35.6%
神奈川県の人口(9,097,624人)の中で、横浜市の人口(3,710,824人)が占める割合(40.8%
③同じく、神奈川県の政令指定都市である川崎市の人口(1,461,866人)と相模原市の人口(722,679人)を加えて、神奈川県で政令指定都市の人口が占める割合(64.8%
福岡県の人口(5,091,964人)の中で、福岡市の人口(1,522,368人)と北九州市の人口(961,873人)の合計が占める割合(48.8%

 以上を見れば判るように、「大阪市が大きすぎる」という前提条件にそもそも疑問がある。「大阪都」みたいな発想が意味を持つんだったら、大阪より大きな横浜市こそ、まず対象にならないとおかしい。特に神奈川は三つも政令指定都市があるというのは、確かに問題もあると思う。大阪の場合は、都道府県の中でひとつの市に人口が集中しているのは確かだが、その割合は東京などに比べてみれば、まだ大きいとは言えないのである。(なお、大阪府にも堺市というもう一つの政令指定都市があるが、当初は一緒に都構想に乗るはずが、脱退してしまった経緯がある。)

 ところで、以上の数字を見てもわかる通り、東京都で特別区部への人口集中は際立っている。しかし、これは理由があるのであって、歴史的経緯がある。東京では古く1878年(明治11年)に区制が敷かれ、15区が置かれた。浅草や深川を東端として、後はほぼ山手線内のあたりであるが、実はその当時は新宿、渋谷、池袋などの駅は郡部にあったのである。しかし、1923年の関東大震災で大きな被害を受けた東京市は、郊外に人口が移ってしまい、一時は大阪市に人口を抜かれる。ところが、1932年に郊外の5郡82市町村を東京市に編入し、20区を新たに置いて、合計35区になる。その「大東京市」が戦時下の1943年、内務省主導で(戦時中で東京市民の意向などと関係なく)、東京都に再編された。そして、1947年に23区体制になったのである。この「大東京」誕生がなければ、新宿や渋谷に止まらず、現在は高級住宅地とされる成城や田園調布など、みな東京市の外だったわけである。

 大阪も随時「市域拡大」を行ってきたが、東京ほど大規模な拡大をしていない。だから、東京の感覚では特別区になってもおかしくない距離の町が、独立した市になっている。都市というのは、中心部から近い地区に住んでいた中流階級が郊外に移転して、旧市街には貧困地区ができるようなことが起きやすい。(東京は東西格差があるので、むしろ「山の手」と「川向う」という差異になる。)だから、「生活保護世帯が多い」といった問題も、「大阪都」で解決するような問題ではなく、世界的に生じる「都市拡大」に取り残された地域という問題だと思う。大阪市だけ解体しても、逆に問題がさらに大きくなるという可能性が高いのではないだろうか。
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桂米朝、松谷みよ子、今江祥智等ー2015年3月の訃報

2015年04月06日 23時47分07秒 | 追悼
 3月は阿奈井文彦さんの追悼文を書いたけれど、個人的な思い出があるという意味では悲しい訃報だった。その後も重要な訃報が相次いだが、独自に書くほどよく知らない人が多くて書かなかった。例えば、上方落語の桂米朝(3.19没、89歳)師がその典型で、名前はもちろん昔から何度も聞いてるわけだが、一度も高座を聞いたことがない。もともと大阪が活動の中心だし、僕がある程度落語に関心を持つようになったときは、もう東京で公演することはほとんどなかったのではないかと思う。落語界で二人目の人間国宝だが、それより初の文化勲章受章者である。4年前のことだと思うが、新宿の紀伊国屋で「桂米朝展」が開かれ、ホールでは弟子などによる落語もあった。その時はもう本人は出て来れなかった。
(桂米朝)
 児童文学作家の松谷みよ子(2.28没、89歳)は2月末の訃報だったけど、発表は3月。「龍の子太郎」(国際アンデルセン賞受賞)などいくつもの作品を残した。「ふたりのイーダ」も身近な話が反戦につながる作品で忘れがたい。「私のアンネ・フランク」を書いた人でもある。そういう作品群も素晴らしいのだが、もう一つ「現代民話考」というシリーズがあり、現代の「民話」を集めるという重要な取り組みを行った。その中には、「軍隊」という巻もある。持ってるけどちゃんと読んでないんだけど、軍隊体験に関する「民話」を集めるという、1980年代にやってくれた人がいたから永遠に伝わったのではないかと思える「功績」もある。日本の伝統を探り庶民の中に平和への思いを見出していった人なんだと思う。まだまだ発見の余地のある作家ではないか。
(松谷みよ子)
 一月もせずに今江祥智(いまえ・よしとも 3月20日没、83歳)の訃が伝えられた。去年の秋には高倉健、菅原文太が続けて亡くなって驚かされたが、松谷みよ子に続いて今江祥智というのも似たような衝撃ではないだろうか。僕にとっては、何といっても「ぼんぼん」なんだけど、その後児童文学から遠ざかって以後の作品は読んでない。一時期、各文庫が児童文学をラインナップに取り入れた時期があり、今江のデビュー作「山の向こうは青い海だった」が角川文庫に入った時に読んだ。これがすごく面白かった。関西で活動した人で、その意味でも桂米朝と並んで重大な損失ではないかと思う。
(今江祥智)
 シンガポール元首相リー・クアンユーが死んだ。(3.23没、91歳)桂米朝師と同じく、ここ数年何度も入院情報が報じられていたから、年齢も年齢だし、まあ意外さはない。シンガポールはもともと1963年にマレーシア連邦の一員としてイギリスから独立したが、1965年にさらに小さな島国だけで再独立したのである。その後、韓国、台湾、香港と並んで「新興工業国」としての地位を確立していった手並みは、確かに「国父」であり、「偉大な指導者」だったと言ってよいだろう。でも、その裏面でそれほどの「管理社会」を作り上げたか、それも知る人ぞ知るである。シンガポールに住みたい人は住めばいいけど、僕は絶対に住みたくはない国である。
(リー・クアンユー)
 弁護士の中平健吉(なかだいら・けんきち 3月7日没、89歳)氏は、家永教科書裁判の第二次訴訟の一審勝訴判決(1970年の「国民に教育権がある」という歴史的判決)に関わった裁判官だった人。弁護士になって、内申書裁判や自衛官合祀訴訟を担当した、またアムネスティ・インターナショナル日本支部長を務めていたから、何度か話を聞いてると思う。僕がアムネスティに加入した時の支部長だったのではないか。今思ったけど、米朝師、松谷みよ子さん、中平弁護士はみな89歳で亡くなっている。高齢化が進んでいると言っても、90歳を超えるというのは大きな壁のようだ。

 「冠婚葬祭入門」でベストセラーで昔は誰でも知っていた塩月弥栄子(3月8日没、96歳)、劇画の生みの親、辰巳ヨシヒロ(3月7日没、79歳)、国際政治学者の浅井信雄(3月6日、79歳)、元外務省アメリカ局長で、沖縄密約を認める証言をした吉野文六(3月29日没、96歳)、ノーベル賞詩人で俳句の影響を受けた詩を作ったスウェーデンの詩人、トーマス・トランストロンメル(3月26日没、83歳)などの訃報を書き留めておきたい。
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映画「イミテーション・ゲーム」

2015年04月06日 21時33分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 第二次世界大戦中の英国の「秘話」、ドイツの史上最強の暗号「エニグマ」解読の謎を再現した映画「イミテーション・ゲーム」を見た。時代に先駆けた学者の悲劇でもあるが、むしろセクシャル・マイノリティの悲劇的な歴史という色彩が見ているうちに強くなっていく。映画としては非常によく出来ていて、その「よく出来た現代史秘話」を打ち破るほどの新味がない感じもするけど、見ていて飽きない出来なのは間違いない。内容的にも、まあ知っておくべき現代史かも知れない。

 今年の米国アカデミー賞で、作品、監督、主演男優、助演女優、脚色、編集、作曲、美術の8部門にノミネートされたが、受賞は脚色賞(グレアム・ムーア)のみに留まった。脚色というのは、原作や実話をもとに書かれたシナリオに与えられる賞だけど、この映画の場合は実話の映画化ということになる。監督はノルウェー出身のモルテン・ティルドムという人で、2011年の「ヘッドハンター」という映画がノルウェー史上最大のヒットとなった由。日本公開もされたらしいけど、全然記憶にない。近年北欧出身の映画監督が世界で活躍しているが、ぜひ記憶しておきたい名前である。

 主演のアラン・チューリング役はベネディクト・カンバ―バッチで、「シャーロック」のタイトルロールの他、映画、舞台で活躍が続く。予告編で顔を見て思い出したのは、「裏切りのサーカス」でスマイリーの助手役のピーター・ギラムをやった人である。これは原作を読んだときの僕の印象と違うキャスティングだったので、忘れられない。女性として数学が得意でアランの協力者となるジョーンはキーラ・ナイトレイで、難しい役を印象的に演じている。

 「エニグマと天才数学者の秘密」という副題が付いているが、まさにその通りの映画で、まずはドイツのエニグマ暗号機の解読の話。どれだけ大変なことだったかは、この映画を見て初めてわかると言ってもいい。科学史ジャーナリスト、サイモン・シンの「暗号解読」(新潮文庫)を昔読んだけど、エニグマの大変さは判るが、歯が立たなかった。(「フェルマーの最終定理」も完全に理解はできないが、読んでいて面白いと思えた。だから「暗号解読」も手に取ったのだが…)そのぐらい大変な暗号機だというのは、人間の手によっては解明が難しい、つまりは「コンピュータ」がいるということである。映画に出てくるのは、当時の解読用の実物よりは大きく作られているということだが、実に「モノ」としての実在感がすごい。一昔前はコンピュータのことを「電子計算機」、略して「電算」などと言っていた。

 そういう科学史的な偉業を達成したのが、この映画の主人公アラン・チューリングだということである。だが、その偉業は達成した瞬間から秘密にされなければならなかった。ドイツ軍に解読したことが露見しては、解読した意味が失われるからである。だから、空襲の予定地、潜水艦の位置などが判明しても、あえて伏せられた場合もある。有名なのはコヴェントリーの空襲で、事前に判っていたが知らないふりをしていた。その結果、多数の英国人の犠牲が出るわけだが、「より重要な戦略的価値」のために犠牲とされたのである。国家はそのように行動するのである。映画ではアラン本人が決断したように描かれるが、そんなことはもちろんなくて、チャーチル首相が最終判断したのである。秘密に指定されていたので、チャーチルのノーベル文学賞受賞作「第二次世界大戦回顧録」でも触れられていない。

 問題はアラン・チューリングという「天才」をどう考えるかである。学者(に限らず何事においても人に圧倒的にぬきんでている者)はよく「変人」である。そういう「変人」だったのだろうか。しかし、幼いころから他人とうまく交わることができないように描かれている。その描写を見ると、いわゆる軽度の自閉症である「アスペルガー障害」、今は自閉症スペクトラム障害という印象をも受ける。だが、同時に性的なマイノリティとして生きざるを得なかったアランが、世に受け入れられないと自分から自我を閉ざして成長していったという理解もできるかもしれない。驚いたのが、性的マイノリティに厳しい法的制裁が待っていることで、イギリスではそうだったのかと改めて重大なことを知らなかったと思った。「時計じかけのオレンジ」を見たばかりだが、僕はあの中の「犯罪性質矯正」を「近未来」的と見たのだが、同時代のイギリスには似たような実例が行われていたのである。正直、驚いた。これから見る人のために詳しい経過を書かないことにするが、実在人物の業績と悲劇については、ウィキペディアに詳しい。
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キューブリックの映画を再見

2015年04月06日 00時50分01秒 |  〃 (世界の映画監督)
 スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick 1928~1999)の映画作品5本をデジタルでやるというので、見たいと思った。全部見ているけれど、ずいぶん忘れてしまった。僕の中では一番良かった「バリー・リンドン」も、今見てみるとどうなのか。50年代から作り続けて、最初は名前の読みもクブリックとかカブリックとか書かれたりしていたけど、やがてキューブリックに統一された。アメリカの生まれだが、後にイギリスに定住した。4作目の「恐怖と欲望」(1953)は2014年に初めて日本公開されたが、あまり面白くなかった。「非情の罠」(1955)、「現金に体を張れ」(1956)の犯罪映画で注目され、特に後者は傑作。「突撃」、「スパルタカス」(1960)、「ロリータ」(1962)と話題作を監督。

 1964年の「博士の異常な愛情」が今回上映で一番古い。「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という長い副題が付いているブラックユーモアの大傑作。原題は「Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb」という。これは昔2回見ている。1回目はよく判らなかった。少し大人になって再見したら、ものすごい傑作ではないか。ある意味でキューブリックの最高傑作ではないかと思っていたのだが、何十年ぶりに「冷戦崩壊」以後に初めて見たら…。細部はかなり覚えていたのだが、昔ほど面白さを感じなかった。3役やってるピーター・セラーズやタカ派将軍のジョージ・C・スコットなどの演技は面白い。だが米ソの冷戦に基づく「狂った将軍の暴走」という悪夢のシナリオが、今見て少し古く感じられる。それは良いことなんだろう。

 次の1968年の「2001年宇宙の旅」は今回は上映がない。伝説的なSF映画で、70年代半ばにはなかなか見られず、ぴあが「もういちど見たい映画」のアンケートをすると、いつもダントツで一番だった。1978年にリバイバルされてようやく見たのだが、噂通りよく判らなかった。まさか本当に2001年が来てしまうとは思わなかったが、題名の年2001年にリバイバル上映された時にも見た。

 1971年の「時計じかけのオレンジ」は公開時に僕が見た初めてのキューブリック映画。日本公開は72年だが、非常な評判を呼んだ記憶がある。アンソニー・バージェスの近未来SFの映画化だが、暴力・犯罪・性をめぐる様々な議論を呼び起こす映画で、画面の異様な魅力や独特の言葉遣いなど不可思議な魅力がある。ただ、昔見た時は案外見かけ倒しのような気がして、同年に公開されたペキンパー「わらの犬」の方がすごいと思った記憶がある。今回見ても、面白いことは面白いんだけど、案外ぶっ飛んでなくて、逆にそこが生きているように思った。ストーリイ的にはほぼ忘れてて、こういう映画だったのかと改めて思った。犯罪抑止のための「療法」による精神改造が問題になるわけだけど、そこも時代性を抜けていなかった感じがする。面白くは見られるけど。

 1975年の「バリー・リンドン」はイギリスのサッカレー原作による18世紀ヨーロッパの風雲児を描く大冒険歴史映画。ある男が故あってアイルランドを抜け出し、大陸での戦争、スパイ、ギャンブルなどの末に地位とカネを得るが。3時間超の映画で、前半で得たものを後半で失っていく。まだ技術力の低い時代に、最高度の高感度フィルムで当時の社会を生き生きと描きだし、その研ぎ澄まされた画面に当時は魅入られたものである。だけど、今になってはどうかと心配したのは杞憂で、今見てもヨーロッパの城や田園の美しい風景描写はたとえようもないほど素晴らしい。それを見るだけでも眼福だが、物語の面白さも飛びぬけていて、今回も圧倒された。歴史物語は面白いし、「成り上がりと墜落」という主題もいつでも不変だなと思う。18世紀欧州の戦争や宮廷外交のイメージは、こういう映画を見ないとなかなか実感できない。やはり一番好きな映画だと思う。

 1980年の「シャイニング」はキングのホラー小説の映画化だが、僕には案外つまらなかった。今回は上映なし。1987年の「フルメタル・ジャケット」は日本ではベストテン2位になり、一番評価が高い。けれど、僕はどうにもやりきれなくて好きになれない。前半の海兵隊の訓練シーンがすごくて、それしか覚えてなかった。後半のベトナム戦争のシーンがあんなに長いとは。でも、それぐらい前半の訓練がすごすぎるのである。そういうもんだと教えてくれる映画としては貴重だけど、どうもダメだ。後半のベトナムのシーンは案外普通で、他のベトナム戦争映画にもっとすごいシーンがある。68年のテト攻勢で、フエに行かされるところはすごい。北側の虐殺も描いている。映画としての力はあるが、それより最初にある「好きか嫌いか」というレベルでつまづく映画。

 最後になってしまった1999年の「アイズ・ワイド・シャット」。完成直後に監督が急死した。トム・クルーズ、ニコール・キッドマンの当時実際の夫婦(2001年に離婚)が共演して、しかも主題が「性をめぐる嫉妬」だというので話題となった。でも、当時見て何だ、これはと思って、ストーリイもほとんど忘れてた。一番古い「博士の異常な愛情」を覚えてるのに、一番最近を忘れる。でも、今見ると結構面白いではないか。実の夫婦も離婚しちゃうんだしといった、「その後の展開」を知ってるからか。映像が洗練されているのと、物語的な面白さがあるのである。まあ、夢のような謎めいた部分が多い映画だが、ゴシップや監督急死と言った当時の話題性が忘れられた現在の方が面白いかもしれない。「性をめぐる秘密の冒険」という主題も古びるわけないので。こうしてみると、キューブリック映画も多様だが、実験的、時代的だった部分の方が早く古びていく感じがする。
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神代辰巳の映画を見る

2015年04月04日 01時29分35秒 |  〃  (日本の映画監督)
 神代辰巳(くましろ・たつみ、1927~2015)の没後20年にちなんで、シネマヴェーラ渋谷で特集上映が行われた。そのうち14本を見たので、他の映画と合わせて振り返っておきたい。神代監督は、ほぼ1970年代に活躍した映画監督(テレビ作品も多い)で、日活ロマンポルノを代表する映画監督だった。日活が一般映画の製作を中止しポルノ映画に取り組むことになった時には、日本映画の没落を嘆く声しきりだった。だが、1972年にロマンポルノ路線が始まり少し経つと、結構頑張ってるらしいぞという声が聞こえてきた。それが神代監督の映画だった。日本映画史に重要な意味を持つ映画監督である。
(神代辰巳監督)
 最初の傑作は「濡れた唇」だった。公開直後以来だけど、今でも面白いロード・ムーヴィーだった。絵沢萌子の初登場作品。次の「一条さゆり 濡れた欲情」に至っては、キネマ旬報ベストテン8位に入選し、主演の伊佐山ひろ子が(10位入選の村川透「白い指の戯れ」とともに)キネ旬主演女優賞を獲得してしまった。「一種のスキャンダル」視する人もいて、翌年以後の審査員を辞退する人が出た。この映画は3回見ている。(傑作だからまた見てもよかったけど、ダウンして見逃した。)素晴らしい群像劇であり、人間賛歌でもある。全作品の中でも、とびぬけた傑作だと思う。

 神代監督のデビュー作は、1967年の「かぶりつき人生」である。記録的な不入りで、以後干され続け、ロマンポルノ路線になって甦ったのである。この映画は前に見て、確かにそれほど面白くないと思った記憶があるが、今回見たらけっこう面白いではないか。ストリッパーの母のようになりたくないはずが、いつか同じ道をたどっていく…。田中小実昌原作の映画化で、全体に60年代っぽくていい。主演は殿岡ハツエで、僕もよく知らない。全然スターが出てないモノクロ作品で、これがヒットするわけない。主人公の生地は「美浜温泉」とあり、これは福井県美浜町のことである。今は日本で一番原発が集中する若狭湾一帯だが、まだ一基も稼働していなかった時代の海辺の観光地だった時代の話である。
(「かぶりつき人生」)
 1973年は、永井荷風作とも言われるポルノ「四畳半襖の下張」を題材にした「四畳半襖の裏張り」がベストテン6位。ニュースフィルムなどを挿入し、米騒動やロシア革命などの世相をよそに、ひたすら性の奥義を求める男と女の模様を描く。当時見て傑作だと思ったが、今回見ても面白かった。たった72分の映画だが、もっと大きな世界を描いている気がしてきて、長い映画を見た思いになる。当時、雑誌「面白半分」が野坂昭如編集長のもと「下張り」を掲載して摘発され、刑事裁判になっていた。そういう「キワモノ」企画だけど、名作が誕生して皆ビックリした。

 3回見てる「恋人たちは濡れた」は今回パス。ベストテン14位。「女地獄 森は濡れた」はいつも見逃してる映画で今回も見れなかった。プログラムピクチャーは時間のない中で量産されるので、中にはくだらない作品があるのはやむを得ない。「やくざ観音 情女(いろ)仁義」はその典型。どうしようもない。

 1974年は大量に作らされた。2年連続ベストテン入選、ヒットもしたということで、会社も頼むし、他社からも声がかかる。「濡れた欲情 特出し21人」(15位)、「四畳半襖の裏張り しのび肌」(14位)、「」をはさんで、東宝系で「青春の蹉跌」(4位)、続いて「赤線玉の井 抜けられます」(16位)、年末に一般映画「宵待草」(75年14位)と作品の出来も安定している。「特出し21人」「しのび肌」はそれぞれ前作とは無関係に名前だけ借りたもので、面白いけど実はもっと傑作だったように記憶していた。公開当時は「勢い」の中で見てるので、2作目がかえって傑作に見えるけど、今見るとやはり最初の方がいい。「玉の井」は見直したかったけど見逃した。群像ドラマだから細かいところは忘れた。
(「青春の蹉跌」)
 素晴らしいのは「青春の蹉跌」で、当時は有名だった石川達三の青春小説を自分流に作った映画。萩原健一桃井かおりの主演コンビが素晴らしい。当時の若い人はみんな見たような映画である。そういう映画は時間の経過とともに価値が下がるんだけど、数年前に見て面白く、今回も面白かった。当時の風俗も面白いが、今も生きている面白さがある。ドライサー「アメリカの悲劇」、その映画化「陽の当たる場所」が基になっている。物語の構造が(風化もしている部分もあるが)、今も意味を持つのである。主演の二人がそれまでに見たことのないような、つまり日活の裕次郎映画や東宝の若大将シリーズなんかにはないような、実に生々しい(セックスシーンも含めて)現実感があった。

 これが大ヒットして、1975年には東宝公開の文芸映画「櫛の火」(古井由吉原作)と「アフリカの光」(丸山健二原作)を作った。当時の神代には、こんな原作を映画化できる力があったのである。でも、この2作は暗い暗い青春映画で、いくら何でも…という映画。まあ、そこが捨てがたいとも言えるが。

 一方、「宵待草」は日活が正月作品として作った非ポルノ映画で、時々そういうのも作った。(藤田敏八の「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」なども同じで、普段ロマンポルノを上映している映画館で、ときたまそういう映画もやったのである。)これが実に魅力的で、大正ロマンとうたい、アナーキストたちの恋と冒険を描くロードムーヴィー。僕は公開の時から大好きで、もう4回か5回見ている。何だつまらないと思う時もあるけど、今回は楽しく見られた。いつもよりは予算が多いのかもしれないが、それでもあまり予算がない感じがする。それでもいいと思うか、そこをダメとするか。高橋洋子の華族のお嬢様、高岡健二と夏八木勲のアナーキスト団の二人が魅力がある。北へと流れて大陸を目指すが…。左右ゴチャマゼの冒険時代を描いた痛快作品。
(「宵待草」)
 ここまでが素晴らしく、75年の「黒薔薇昇天」(15位)、「濡れた欲情 開け!チューリップ」、77年の「悶絶!どんでん返し」(14位)はコメディ作品。「壇の浦夜枕合戦記」は前に見てつまらなかった。もう終わりかと思うと、79年に最高傑作「赫い髪の女」が現れた。中上健次映画化で、最高傑作だと思う。宮下順子、石橋蓮司がひたすら求め合うだけの映画だけど、行くあてもなき男女の性を憂歌団の歌に乗せて見つめる。すごい。日活100年の時に見直して、今回が3回目、やっぱりいい。主演の二人以外も、石橋蓮司の姉という絵沢萌子と夫の山谷初男など、短いシーンだけと笑える。宮下順子のトークショーも行われ、聞いてきた。好きなタイプの女優だったから、満足のトークショー。

 その後は1981年の「嗚呼!おんなたち 猥歌」(5位)、1985年の「恋文」(6位)、遺作の1994年「棒の哀しみ」(4位)がベストテンに入っている。今回見直した感じでは、今まで傑作と言われる映画がやはりいいのだと思う。「一条さゆり 濡れた欲情」、「青春の蹉跌」、「赫い髪の女」が飛びぬけている。まあ、それは前からわかっていることだが。今も面白いのは70年代の青春が刻印されていることか。長回しや独特のセリフ、音楽の使用法などで、独自の世界を作っている。藤田敏八作品では感じることもある古びた感じがほとんどない。でも、くだらない映画も多く、そこが面白い。とにかく、日活ロマンポルノを作品的に代表する監督であるのは間違いない。
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「幕が上がる」、原作と映画

2015年04月01日 23時15分12秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「幕が上がる」を見た(TOHOシネマズ錦糸町)。平田オリザ原作、本広克行監督で、「ももクロ」(ももいろクローバーZ)のメンバーが主演しているということで話題ともなった。僕はももクロに特に関心はないけど、「演劇部の映画」だから是非見たいと思った。というか、原作が面白かったのである。平田オリザが初めて小説を書いてちょっと話題となり、2012年の晩秋に本屋にサイン本が置いてあったので買った。でも、面白いのかなあとずっと放っておいて、最近になってようやく映画化されたということで読んでみたら、これが面白かった。というか、感動的な「ポスト3・11」小説だった。

 で、映画を見たいと思いつつ時間が合わないできたのだが、ようやく「映画サービスデー」を機に見に行った。そろそろ終わってしまいそうである。あまりきちんと論じようという気はしないので、雑駁に感想を書いておきたい。カテゴリーを「映画の中の学校」としたように、僕の主たる関心は「部活映画」という点にある。「部活映画」は成功することが多い。この映画も舞台の本番に臨むときのあのドキドキ感、青春の一瞬の輝くような日々を感じ取ることができる。むしろ演劇に関心がないような人に見て欲しい。「青春の一回性」に基づく、定番的な展開の物語だけど、十分に心に響くと思う。特に、賢治ファン、銀鉄ファンには絶対逃してはならない映画、小説である。まだ知らない人がいたら、是非触れて欲しい。逆に「銀河鉄道の夜」を読んだことがなくて、この映画を見た人(どのくらいいるのか判らないが)は、今からでも読んで欲しいと思う。

 この映画が成功しているかどうかはよく判らないけど、原作が好きな人には残念な部分もある。それは「わび助」がいないのである。「わび助」っていうのは、けっこういい味出してる2年生の男子である。物語の中心は3年生の4人の女子だけど、下級生には男子もいるのである。だけど、映画では女子のみの部活になっている。その分、「明美ちゃん」の役割が拡大されている。これは「ももクロ」主演であることによる脚本(「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平)の工夫なんだろうけど、原作は先輩にも男子がいて、そこが大きく違う。この「わび助」をやれる俳優を見つけるのは大変だろうけど、「わび助」登場ヴァージョンも誰か作って欲しいと願うほど魅力的な脇役なのである。
 
 映画が原作と違うのはやむを得ないけど、僕の場合、原作で残して欲しいとこほど映画にはなくて、映画の素晴らしい部分は原作でも出てくる感じもした。最初の方の「新入生オリエンテーション」が違う。大体、1年生全員に見せる生徒会行事だと思い込んでいたら(そういう学校は多いと思うけど)、映画では自由参加の行事だった。原作は「わび助」と「ガルル」(3年の演劇部員)を中心に行うけど、まあ「わび助」がいない以上仕方ないんだろうけど、そこでやる「ロミジュリ」の抜粋が、観客の反応も含めていかにもリアルで、いやあ何だか懐かしいなあと思ってしまった。「普通の演劇部」っぽいですよ。

 その後で、「吉岡先生」登場になるが、吉岡先生登場の設定も微妙に違う。この吉岡っていうのは新任の美術教師だが、実は「学生演劇の女王」だったという設定である。誰がやるか難しいキャスティングだけど、黒木華(はる)がやっている。やはりうまいとは思うんだけど、一番最初の場面で「神が舞い降りた」というほどの劇的な印象は僕は受けなかった。というか、原作にはそういう部分はなくて、そっちの方がリアルだろう。まあ、そういう点を細かく挙げていっても仕方ないんだけど、実は一番大事なところだと思う「県大会に向けて台本を書き直す場面」が映画にない。国語の先生の「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)の授業で相対性理論を取り上げるところはある。だけど、そこから書き直しのアイディアを得て、感動的なラストに向かうシーンがない。まあ仕方ない。原作を読みましょう。

 もっとも、あれだけのことから高校生が作り出すという原作の設定は無理があると思う。本職の劇作家である平田オリザが書くからできるのである。だけど、僕はここで「いま、『銀河鉄道の夜』を読むこと」の重大性を改めて感じ取ることができた。日本で、世界で、多くの災害、テロ、戦争などで大切な人を失った人が無数に生まれていく。一度死んだら不可逆で、元に戻せない。そのことは判っているけど、この大きな喪失感をどうすればいいのか。2012年に出版された原作は、つまり2011年の演劇部の活動を描いているということで、「3・11」を高校生としてどう受け止めるかという問題意識があるのだと受け止めた。大切な友人を失い、銀河の果てまで共に行っても元の世界には共に戻れない。そんな中で、ジョバンニは、つまり僕たちはどう生きていけるのか。これが感動的なセリフで示されるが、それが映画では判りにくい。これも是非原作で。

 「映画の中の学校」という観点からは、原作以上に学校のシステム的な部分の抜けが大きい。思い付き的に「東京合宿」なんかできないと思うし、顧問、副顧問の仕事もあいまい。地区大会も一日では終わらないし、自分たちが出ない日は仕事の割り振りがある。受付とか、(審査員の先生への)お茶出しとか。この映画を見てると、大会で演技するだけに見えてしまうけど、当然運営の仕事もある。一方、映画ならではだと思ったのは、演劇というのは「全部を見ることが不可能」で、演技してれば自分では見られないし、舞台監督してれば照明や音響を見てられない。そういう役割分担があって演劇が成り立つわけだが、映画なら各部門をパッパッと見せることができるわけである。そうだそうだ、と見ていて思ったところである。また映画には出てこないが、進路と部活との関係が特に演劇部には大きい。大学の推薦入試と大会(あるいは学校の文化祭)の日程がかぶりやすいのである。では、この演劇部の彼女たちはどうしたかも是非原作で。

 と原作のことばかり書いてる感じだけど、映画は映画でもちろん面白い。大体原作はどこかと思うと、大分読んで群馬県だと判るが、映画は静岡県を最初から明示している。富士山もよく出てくる。東京に近いことが条件になっているが、でも東京にちょっと臆するところもあるという微妙なムードが必要。北関東と東海とどっちがいいのかは判らないが。監督の本広克行は「踊る大捜査線」シリーズをテレビでも映画でも手がけた人で、それ以外の映画もけっこう撮っている(「サトラレ」「UDON」など)けど、この映画が一番いいだろう。学校が出てきて、発声練習やってるだけで、なんだか心に訴えてくる。「櫻の園」(吉田秋生原作、中原俊監督)や「桐島、部活やめるってよ」「楽隊のうさぎ」なんかのような「部活動を舞台にした人間ドラマ」ではなく、演劇部の大会に向けた活動そのものを描いた、ある意味「純粋な部活映画」。
コメント (1)
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