尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

藤井聡「大阪都構想が日本を破壊する」を読む

2015年04月22日 23時49分20秒 | 政治
 藤井聡氏(京都大学教授)の「大阪都構想が日本を破壊する」(文春新書)という本。僕もちょっと前に「大阪都構想」について書いたので、読んでみた。自分の記事に訂正、補足等もあると思ったが、最後の方に書いてある藤井氏の「大大阪構想」という「代案」も結構ぶっ飛んでいる。新書本なので、740円+税。こういう簡単に入手できる批判本が他にないので、都構想だけでなく、日本の政治や経済に関心のある向きも、手に取ってみる価値はある。読まないと批判のしようもない。新書ぐらいはきちんと読んで欲しいものだ。(「文春」は個人でボイコットしてるという人もいると思うけど、例外で。)

 帯の裏に「知って欲しい7つの事実」というのが載っている。大阪市民には、せめて本屋でそこだけでも読んで欲しいと思う。だけど、その最初が住民投票賛成多数でも、「大阪都」は「大阪府」のままって、そんなところから議論しなくてはいけないのかとビックリした。大阪市民しか住民投票できないということを知らない府民もいるとか。都構想とは、つまり「大阪市5分割」だから当然だけど、大阪の人でも知らない人がいるのだとか。「東京23区には「特別区はダメ、市にしてほしい」という議論があるとか、東京の繁栄は「都区制度」のおかげでなく、「一極集中」の賜物という話はブログでも強調しておいた。

 だけど、外部の人間として、ある種薄めて書いておいたのが、大阪市の人口が府の中で3割しかないという問題である。東京の場合、23区の人口が都全体の3分の2に達している。だから、東京市が廃止されて、市税が都に吸い上げられても、都議会でその分を23区の発展にために使うと決めることが可能である。(というか、実際は各政党の考え方が違うわけだが。)一方、人口の3割しか占めていない大阪市を廃止して、市税が府に行ってしまったら、大阪府はそれを大阪市のためでなく、大阪府全体のために使うだろういうことである。もちろん、それが悪いということでもなく、大阪市民が納得して自己犠牲を払うというのなら問題ないけれど。橋下氏自身が大阪府知事だった時は、「大阪市の持っている権限、力、カネをむしり取る」と力説していたという話である。これに賛成する大阪市民が半分ぐらいいるということの方が理解不能だろう。

 僕がよく知らなかったことは、「一部事務組合」なるものがものすごく大きいらしいということである。特別区は基礎自治体だから、当然やるべき行政は特別区がやるんだと思い込んでいたが、そうではないらしい。だから、大阪市を廃止して「府と区」にするのではなく、正確には「府と一部事務組合と区」に分けるらしい。二重行政を廃すると称して、三重行政になるらしいのである。その「一部事業組合」で行うとされる事業は、本書124頁に出ているが、健保、介護保険、水道、住民基本台帳システム等の住民情報システム、福祉施設、市民利用施設(青少年野外活動施設、市民学習センター、大阪市立体育館、大阪市立大阪プール等)、診療所、斎場、霊園、処分検討地とされた土地の管理など…。

 ええっと驚く。健保も住民基本台帳も自分でできない「特別区」とは。特養も自分でやらないで、基礎自治体と言えるのか。水道は、東京は「東京都水道局」だから、当然「大阪府水道局」に統合されるんだと思ったら、大阪市地域だけで事務組合を作るの?一体、どこが「特別区」なんだろう。どう考えても、今より面倒くさい。これはつまり、「郵政民営化」なんだと思う。政治家が思いつきで叫びだし、結局形だけは実現するが、住民サービスは低下し、官僚組織には傷がつかない。大阪市分割も、結局は「住民サービスが低下するが、官僚機構には変りなし」で、政治家の思いつきに振り回されるだけ。

 大阪都構想が賛成多数になると、今後の5年間、大阪市は各事業と人員をそれぞれ「府」「一部事業組合」「特別区」に振り分ける内部作業に振り回される。藤井氏によれば、東京が五輪に向けて「未来に向けての投資」を行う間に、大阪は行政機構の分割をめぐる後ろ向きの行政しかできず、未来に向けての投資が停滞する。「大阪都構想」により、東京と大阪の差が追いつけないものになってしまうというのである。なるほど、それは東京ではあまり気付かなかった視点である。もっとも、僕には東京五輪に向けての再開発など、都民にはムダで過剰なものだとしか思えないが。だけど、「公務員」という業種を思い浮かべてみると、大阪市という政令指定都市で働くつもりで行政マンになったものが、区役所職員になれとなったら「格下げ」意識を避けられないと思う。東京でも、都庁職員と区役所職員には意識差があるだろう。そういう問題に職員の意識が向かってしまうだけで、確かにずいぶん行政のマイナスになるだろう。

 ところで、藤井氏はどういう人かと経歴をみれば、公共政策論、都市社会工学が専門とあり、同じ文春新書で「公共事業が日本を救う」とか「列島強靭化論」などの本を出している。そう言えばそんな本を見た記憶も。いまどき、そんな主張をする人がいるのかと思ったけど、最後の方では「リニア新幹線を大阪まで同時開業しよう」とか、どうかと思う主張を繰り広げている。まあ大風呂敷としては面白い面もあるが。そこらへんの問題は、大阪都構想に直接関係しないので、今は詳しくは触れない。ただ、地震の危険性は西日本も同様であって、東京が首都直下地震で首都機能が低下した時に、大阪が残っていることが日本を救うという議論は、どうなんだろう。また、文楽の補助金削減や大阪市音楽団の廃止などの文化行政の問題に全く言及がない。本人に関心がないのかもしれない。

 ところで、橋下市長は例によって藤井教授を「罵倒」するなどして、大阪では丁寧な議論ができにくい状況があるようだ。マスコミも批判しにくく、そういう言論状況そのものが困ったもんだと思う。もしかしたら、そういう「ポピュリズム的な独裁」こそが目的なのかもしれないが。それにしても、多くの人が大阪市民であるにせよ、そうではないにせよ、話題には違いないから、この本ぐらい読んでから議論して欲しい。あとひと月ほどで住民投票だけど、こういうバカげたことで時間を空費して、大阪が自己破滅して行っていいのだろうか。
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映画「インヒアレント・ヴァイス」

2015年04月22日 00時11分24秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画界の鬼才、ポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA、1970~)が、アメリカ文学界の伝説的巨匠トマス・ピンチョンの「LAヴァイス」という作品を映画化した。これは是非見たい。いつもは終了直前にあわてて見るんだけど、今回は時間の関係で公開4日目に見に行った。
 
 これが1970年のロスを舞台にした「探偵映画の脱構築」のような快作(怪作?)で、非常に面白い傑作だと思った。60年代末の、例えばマンソン事件(女優シャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソンらに殺害された事件)に言及されるような「時代を反映した物語」で、主人公の探偵ドック(ホアキン・フェニックス)は、「ヒッピー」と呼ばれて、ラフな服装でマリファナをやりまくっている。そこに昔の女シャスタが現れ、今付き合っている不動産王ミッキー・ウルフマンが、妻とその愛人によって精神病院に入れられ財産を取られようとしていると訴える。ドックが聞き込みに行くと、なぐられて気絶。目覚めた時はウルフマンのボディガード、チャ―ロックの死体と一緒。ロス市警の因縁の刑事、ビッグフットに取り調べられ、ウルフマンと愛人は失踪したと告げられる。こうして、探偵ドックは陰謀に巻き込まれ、謎を追う破目になるわけである。

 謎の帆船「黄金の牙」とは何か。歯科医の謎の組織、アジア系の性風俗店、死んだはずのミュージシャンが生きていたり、ドックが女性検事(リーズ・ウィザースプーン)と付き合っていたり。海運専門の弁護士(ベニチオ・デル・トロ)が出てきたり…。何だかよく判らないままに、謎が謎を呼ぶが、それらは一種の「ロスの探偵もの」のパロディのように進行していく。過去の小説や映画、音楽、さらには時代そのものを風刺するような進行に、楽しんでみていると、突然日本語(らしき)まで飛び出し、「スキヤキ」(上を向いて歩こう)まで流れ出すんだから、楽しくなってしまう。この昔のポップ・カルチャーに彩られた謎めいたユーモアの連鎖は、しかし結局はちゃんと「合理的」(?)な結末に収束はしていき、ミステリーとしてのまとまりは付くかのように見える。主人公ドックの決断もよろしく、「終わり」に至る。149分と長いので、クレジットを見ないで去っていく客も多いが、最後の最後にある言葉が出るので見逃さないように。それはパリ五月革命の落書きなんだけど、妙に心に残る。

 「インヒアレント・ヴァイス」では、何のことだか意味不明だけど、作中で解説されるところによれば「内在する欠陥」という意味だという。海上保険の用語で、卵は割れる、チョコレートは溶けるという「内在的欠陥」を有しているので、そのことに保険は掛けられないという使い方らしい。では、一体この物語における「内在的な欠陥」は何だろうと考えてしまうが、それは自分で見て考えること。探偵物語として作られているが、現代社会への風刺がベースにあるということだろう。トマス・ピンチョン(1937~)はノーベル賞候補にものぼる作家だが、「スローラーナー」に歯が立たず、近年まとまって訳された大長編には挑んでいない。だけど、この映画の原作は判りやすいほうらしく、調べてみると原作にかなり忠実な筋立てらしい。今年のアカデミー賞で、脚色賞と衣装デザイン賞の候補になった。だけど映画賞なんかには恵まれなかったが、そのことが逆にこの映画の魅力を増している。

 PTAはアメリカの監督には珍しく作家性が強い作品を作り続けているが、最初の「ハードエイト」(未公開)を除いてずっと見て来た。それもこれも、ポルノ業界に生きる若者を描く第2作、「ブギーナイツ」が気に入ったからで、以下「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」「ザ・マスター」と奇作、怪作が多い。ダニエル・デイ=ルイスに2度目のアカデミー賞をもたらした「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」が一番普通の意味での傑作だろうが、他の作品は好みが別れるだろう。そういう作風は今回も共通していて、「変な映画好き」には見逃せない。かつて、チャンドラーの「ロング・グッドバイ」をロバート・アルトマンがエリオット・グールドのマーロウで映画化したが、あれも当時の風俗を満喫できるヒッピー風探偵だったと思う。だけど、ぶっ飛び具合は今回のホアキン・フェニックスの方が印象的で、それも時代が経って、一種のパロディとして作れるからだと思う。冒頭とラストで、建物の間に海が見えるショットを見るだけで、「これが映画だ」という思いを喚起させる。PTAもそんな映画作家になったんだと感慨を覚える。
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