幕末にイギリス外交官アーネスト・サトウの生涯を追う「遠い崖」。人生で何度も味わえない豊かな読書体験だったが、前半と後半ではかなり印象が違う。前半は幕末動乱の目撃者にして、登場人物の一人でもあったから、波乱万丈の青春である。でも明治政府ができてしまうと、要するに外交官は外国人。重要な存在ではあっても、日本政治の登場人物ではなくなる。かつては友人のように付き合った志士たちも、新政府の有力者になってしまい立場が違ってしまう。
サトウ自身も幕末維新の燃え立つような日々を忘れられなかったらしい。あまりにも激しい歴史変動の目撃者となって、一種の燃えつき症候群になったようだ。明治になると日記の記述も少なくなり、なんだか無味乾燥になってくる。条約改正問題など外交官にとっては大問題だが、サトウは上司の公使、有名なサー・ハリー・パークスの対応にも批判的だった。有名なパークスが、こんなに「仕えづらい」上司だったとは知らなかった。サトウも日記や手紙には書くけど、公には隠していた。サトウは有能過ぎる通訳官だったから、パークスも手放さずにハードワークを命じていた。
サトウは賜暇(しか=英本国から遠く離れた東アジア勤務の外交官は、5年勤続で帰国のための休暇が与えられた。事情によっては遅くなるが、家族の急病などでは臨時の休暇が取れる。)のたびに、家族とでヨーロッパを旅行し音楽会に通っている。西欧文明にどっぷりつかった教養人で、日本でも地理、歴史などの研究に余念がなかった。本居宣長らを縦横に読み込んだ論文も書いてるし、富士山や日光を始め日本中を旅行して回って英語で初の日本旅行案内も書いている。サトウは明治になったら、日本学者であり「文化人」という感じで生きていた。
「遠い崖」の登場人物の中で、主役級は英国側ではパークス、日本側では西郷隆盛である。幕末動乱期に西郷と交わした密談のことは前に書いた。江戸総攻撃をめぐる勝海舟との交渉は知略の限りを尽くした歴史ドラマだった。サトウも両者に接触して情報探索に奔走した。ところが西郷は明治以後に精彩がなくなる。鹿児島に引きこもりがちで、中央政府にもなかなか参加しない。英雄の西郷が野にあることは中央政府にとって気がかりなことだった。
(西郷隆盛)
それは薩摩藩の実質的な支配者である藩主の父島津久光も同様で、こっちは明確な新政府反対派、西欧化、文明開化一般に大反対で、身分制度を壊す改革そのものに反対だった。この西郷と島津久光をなんとかしないと、全国に広がる旧武士(士族)と農民の反発と結びつくのが怖い。そこで政府は鹿児島に勅使を派遣する。何と西郷引き出しの勅使は勝海舟である。明治維新を成しとげた薩長の人ではなく、かつては敵だった勝海舟こそが心の通う間柄になっていた。西郷も勝も「幕末のドラマ」で一生を使い果たしたかのようである。恩讐を超えた「心友」なのだ。
西郷は一旦は上京して、岩倉使節団外遊中の留守政府を任される。その後「明治6年の政変」で下野して鹿児島に帰る。その理由は長く「征韓論」とされ、その真意をめぐって昔からいろいろ言われてきた。しかし、萩原氏は細かく検討して「西郷問題」だと言っている。政策論争というよりも、ともすれば鹿児島に帰りたいと言い、極論を主張しては辞めたいとごねる西郷。長年の盟友大久保もついに腹を決めて、西郷と決別する。しかし、世論は西郷びいきだった。
この「西郷問題」をどう考えるか。以下は史料に基づく意見ではなく僕の想像。一種の「父と暮らせば」症候群じゃないか。井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」である。広島の原爆で多くの人が死んだときに、生き残った娘が自分だけが幸せになっていいのかと思い悩む。そこに死んだ父が幽霊となって現れる。そのような感覚は大きな戦争や災害の後に世界で見られるものだろう。西郷の命令によって、死ななくても良かった若者を多数死なせてしまった。それなのに維新後の政府は急激な西欧化を追い求め武士の魂は忘れられる。死んだ者に申し訳ない。それが維新後の西郷の心境じゃなかったのだろうか。
サトウも表面的な西欧化を追い求める日本に批判的で、内心では西郷に同情していたようだ。かつての反体制派革命家が名士と奉られ、疑獄事件に連座する日本。そんな日本政府に失望し、日本の過去を研究し、日本中を歩き回って庶民と交流する。サトウ日記に「完璧な一日」と書かれた日があるそうだ。公使館の仕事が一切なくて、一日中日本の昔の本を読んでいた日だった。サトウも、20代の若き日に革命の機微に触れた激動の日々を忘れられなかった。人生最良の日々だったのである。
サトウ自身も幕末維新の燃え立つような日々を忘れられなかったらしい。あまりにも激しい歴史変動の目撃者となって、一種の燃えつき症候群になったようだ。明治になると日記の記述も少なくなり、なんだか無味乾燥になってくる。条約改正問題など外交官にとっては大問題だが、サトウは上司の公使、有名なサー・ハリー・パークスの対応にも批判的だった。有名なパークスが、こんなに「仕えづらい」上司だったとは知らなかった。サトウも日記や手紙には書くけど、公には隠していた。サトウは有能過ぎる通訳官だったから、パークスも手放さずにハードワークを命じていた。
サトウは賜暇(しか=英本国から遠く離れた東アジア勤務の外交官は、5年勤続で帰国のための休暇が与えられた。事情によっては遅くなるが、家族の急病などでは臨時の休暇が取れる。)のたびに、家族とでヨーロッパを旅行し音楽会に通っている。西欧文明にどっぷりつかった教養人で、日本でも地理、歴史などの研究に余念がなかった。本居宣長らを縦横に読み込んだ論文も書いてるし、富士山や日光を始め日本中を旅行して回って英語で初の日本旅行案内も書いている。サトウは明治になったら、日本学者であり「文化人」という感じで生きていた。
「遠い崖」の登場人物の中で、主役級は英国側ではパークス、日本側では西郷隆盛である。幕末動乱期に西郷と交わした密談のことは前に書いた。江戸総攻撃をめぐる勝海舟との交渉は知略の限りを尽くした歴史ドラマだった。サトウも両者に接触して情報探索に奔走した。ところが西郷は明治以後に精彩がなくなる。鹿児島に引きこもりがちで、中央政府にもなかなか参加しない。英雄の西郷が野にあることは中央政府にとって気がかりなことだった。

それは薩摩藩の実質的な支配者である藩主の父島津久光も同様で、こっちは明確な新政府反対派、西欧化、文明開化一般に大反対で、身分制度を壊す改革そのものに反対だった。この西郷と島津久光をなんとかしないと、全国に広がる旧武士(士族)と農民の反発と結びつくのが怖い。そこで政府は鹿児島に勅使を派遣する。何と西郷引き出しの勅使は勝海舟である。明治維新を成しとげた薩長の人ではなく、かつては敵だった勝海舟こそが心の通う間柄になっていた。西郷も勝も「幕末のドラマ」で一生を使い果たしたかのようである。恩讐を超えた「心友」なのだ。
西郷は一旦は上京して、岩倉使節団外遊中の留守政府を任される。その後「明治6年の政変」で下野して鹿児島に帰る。その理由は長く「征韓論」とされ、その真意をめぐって昔からいろいろ言われてきた。しかし、萩原氏は細かく検討して「西郷問題」だと言っている。政策論争というよりも、ともすれば鹿児島に帰りたいと言い、極論を主張しては辞めたいとごねる西郷。長年の盟友大久保もついに腹を決めて、西郷と決別する。しかし、世論は西郷びいきだった。
この「西郷問題」をどう考えるか。以下は史料に基づく意見ではなく僕の想像。一種の「父と暮らせば」症候群じゃないか。井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」である。広島の原爆で多くの人が死んだときに、生き残った娘が自分だけが幸せになっていいのかと思い悩む。そこに死んだ父が幽霊となって現れる。そのような感覚は大きな戦争や災害の後に世界で見られるものだろう。西郷の命令によって、死ななくても良かった若者を多数死なせてしまった。それなのに維新後の政府は急激な西欧化を追い求め武士の魂は忘れられる。死んだ者に申し訳ない。それが維新後の西郷の心境じゃなかったのだろうか。
サトウも表面的な西欧化を追い求める日本に批判的で、内心では西郷に同情していたようだ。かつての反体制派革命家が名士と奉られ、疑獄事件に連座する日本。そんな日本政府に失望し、日本の過去を研究し、日本中を歩き回って庶民と交流する。サトウ日記に「完璧な一日」と書かれた日があるそうだ。公使館の仕事が一切なくて、一日中日本の昔の本を読んでいた日だった。サトウも、20代の若き日に革命の機微に触れた激動の日々を忘れられなかった。人生最良の日々だったのである。
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