この間、平野啓一郎「ある男」を読んだので、続いて「決壊」(上下)を探し出してきた。「新潮」に2006年11月号から2008年4月号まで連載され、同年に2冊の上下巻ハードカバーで刊行された。(現在は新潮文庫に上下2巻で収録。)翌年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。よくオカミが賞をくれたなという小説だが、まあ大臣は読んでないんだろう。同年の「このミステリーがすごい!」13位に選出されたが、本質は「純文学」と考えるべき本である。
(上巻)
これは凄まじい犯罪小説で、読み終わるには力が要る本だ。そもそも長いし、始まってから事件の本筋が見えてくるまでも長い。そして長く辛い読書の末に、ほのかな灯りが見えるかというと、いやいや全く暗いままで暗澹たる世界が広がっているだけ。無理に勧めるのもどうかと思う小説だが、これは10年以上前に書かれた本なのに、全く古びていない。というか、まさに「現在」が書かれていることに驚く。世界がどんどん悪くなっているという感慨を覚えててしまう本である。
小説内の時点は2002年の夏から秋である。どんな時代か覚えているだろうか。2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起こった。それから1年、アメリカはアフガニスタンに兵を送り、さらにイラクのフセイン政権打倒を掲げてイラク戦争を始めようとしていた。日本では小泉政権の時代で、9月17日に小泉首相が電撃的に北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した。会談では日本人拉致を認めて「5人生存、8人死亡」という情報を伝えた。それらは小説内で語られるが、もちろん今では「イラク戦争をどう防ぐべきか」などという論点は古くなってしまった。しかし、アメリカ、中東、東アジア情勢の重大性は変わっていない。
この時期は、現役世代のほとんどに「インターネット」が普及した頃だった。パソコンが一般化して、家でネットを使う人が増えた。また、90年代半ば頃から携帯電話の普及が始まり、2002年段階では電子メールの利用も一般化していた。まだスマートフォンというものはなかったが、「IT社会」に近づいたのだった。自分自身では1996年に携帯電話、2000年にインターネット(ケーブルテレビ回線)の利用を始めている。デジタルネイティヴ世代が増えてきて、いつ頃からあったのか判らない人も増えていると思う。21世紀になったばかりの時代はそんな変化が起きた頃だった。
(下巻)
2021年10月31日。その日は衆議院選挙が行われた日だが、関東地方では開票速報の合間合間に、20時頃に発生した「京王線刺傷事件」のニュースを大きく報道していた。その前に8月6日には「小田急線刺傷事件」が起き、京王線の犯人はそれに影響されたと供述している。思想や宗教に拠るものではない「無差別テロ事件」が日本社会で起きている。また11月24日には、愛知県で中学3年生の生徒が同級生に刺殺された事件が起きた。これらの事件の詳細は未だ判っていないことも多いが、「決壊」を読むとまさに「予見の小説」だったと思わざるを得ない。そういう犯罪小説なのである。
「決壊」は夏休みの帰省を前にした、北九州市の沢野家で始まる。長く新日鐵で働いて定年になった父は最近元気がなく、母が次男一家(妻と3歳の長男)を車で迎えに来る。次男沢野良介は山口県宇部市で営業の仕事をしているが、必ずしも人生に満足していない。常に優秀な兄と比べられてきた人生だったのである。兄の沢野崇は東大を卒業して、国会図書館で調査員をしている。数年前には外務省に出向しフランスに滞在していた。結婚せずに多くの女性と性的な関係を含めた関わりを持っている。
結局はこの沢野兄弟をめぐる物語なのだが、最初はこの家庭の話が長い。それはどこにでもあるような、一家の様々な事情が事細かに語られていく。達者なものである。それは面白いと思うが、この本は犯罪小説じゃなかったのかと疑問を抱くほど、何も起こらずに進行する。弟の良介は悩みを匿名の日記としてネット上に書き込んでいた。それを偶然知ってしまった妻は、そのことを夫に秘密にしたまま兄の崇に(メールで)相談する。日記サイトには妻が匿名でコメントしていたのだが、その頃から「666」というコメントも付くようになった。そのため、妻はそれが兄の書き込みなのではないかと思い込む。
そこに鳥取市に住む中学生の話が絡んでくる。一体それは今までの話とどうつながるのだろうか。兄は別れを決めた女性と最後に京都旅行をしようと思い、そのついでに出張で大阪に来る弟と会うことにした。そして、そこである恐るべき犯罪が起きるのである。その話を書いてしまうと、一応形としてはミステリーなので約束違反になるだろう。それにしても恐るべき犯罪で、その全体像が明らかになるときには、心の中の暗黒面がさらけ出されてしまう。
この設定からして、これはインターネットと携帯電話なくして起こりえなかった犯罪である。しかし、著者が過剰なほどに現代世界の分析を行うのは、単なる犯罪を描くのではなく「文明史的視点」で世界の変貌を考察したいのだと思う。人間性の中には「悪」がある訳だが、それに対する日本社会や日本警察は全く時代の変化に対応できていない。絶望的に遅れている。想像力の広がりに欠ける。この小説が書かれてから、すでに13年。日本がどんどん衰退しているのも当然か。とにかく読んでいて嫌になるぐらい、暗黒面を見せつけられるが、これは重要な小説だ。精神的にタフな人は是非チャレンジして欲しい。

これは凄まじい犯罪小説で、読み終わるには力が要る本だ。そもそも長いし、始まってから事件の本筋が見えてくるまでも長い。そして長く辛い読書の末に、ほのかな灯りが見えるかというと、いやいや全く暗いままで暗澹たる世界が広がっているだけ。無理に勧めるのもどうかと思う小説だが、これは10年以上前に書かれた本なのに、全く古びていない。というか、まさに「現在」が書かれていることに驚く。世界がどんどん悪くなっているという感慨を覚えててしまう本である。
小説内の時点は2002年の夏から秋である。どんな時代か覚えているだろうか。2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起こった。それから1年、アメリカはアフガニスタンに兵を送り、さらにイラクのフセイン政権打倒を掲げてイラク戦争を始めようとしていた。日本では小泉政権の時代で、9月17日に小泉首相が電撃的に北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した。会談では日本人拉致を認めて「5人生存、8人死亡」という情報を伝えた。それらは小説内で語られるが、もちろん今では「イラク戦争をどう防ぐべきか」などという論点は古くなってしまった。しかし、アメリカ、中東、東アジア情勢の重大性は変わっていない。
この時期は、現役世代のほとんどに「インターネット」が普及した頃だった。パソコンが一般化して、家でネットを使う人が増えた。また、90年代半ば頃から携帯電話の普及が始まり、2002年段階では電子メールの利用も一般化していた。まだスマートフォンというものはなかったが、「IT社会」に近づいたのだった。自分自身では1996年に携帯電話、2000年にインターネット(ケーブルテレビ回線)の利用を始めている。デジタルネイティヴ世代が増えてきて、いつ頃からあったのか判らない人も増えていると思う。21世紀になったばかりの時代はそんな変化が起きた頃だった。

2021年10月31日。その日は衆議院選挙が行われた日だが、関東地方では開票速報の合間合間に、20時頃に発生した「京王線刺傷事件」のニュースを大きく報道していた。その前に8月6日には「小田急線刺傷事件」が起き、京王線の犯人はそれに影響されたと供述している。思想や宗教に拠るものではない「無差別テロ事件」が日本社会で起きている。また11月24日には、愛知県で中学3年生の生徒が同級生に刺殺された事件が起きた。これらの事件の詳細は未だ判っていないことも多いが、「決壊」を読むとまさに「予見の小説」だったと思わざるを得ない。そういう犯罪小説なのである。
「決壊」は夏休みの帰省を前にした、北九州市の沢野家で始まる。長く新日鐵で働いて定年になった父は最近元気がなく、母が次男一家(妻と3歳の長男)を車で迎えに来る。次男沢野良介は山口県宇部市で営業の仕事をしているが、必ずしも人生に満足していない。常に優秀な兄と比べられてきた人生だったのである。兄の沢野崇は東大を卒業して、国会図書館で調査員をしている。数年前には外務省に出向しフランスに滞在していた。結婚せずに多くの女性と性的な関係を含めた関わりを持っている。
結局はこの沢野兄弟をめぐる物語なのだが、最初はこの家庭の話が長い。それはどこにでもあるような、一家の様々な事情が事細かに語られていく。達者なものである。それは面白いと思うが、この本は犯罪小説じゃなかったのかと疑問を抱くほど、何も起こらずに進行する。弟の良介は悩みを匿名の日記としてネット上に書き込んでいた。それを偶然知ってしまった妻は、そのことを夫に秘密にしたまま兄の崇に(メールで)相談する。日記サイトには妻が匿名でコメントしていたのだが、その頃から「666」というコメントも付くようになった。そのため、妻はそれが兄の書き込みなのではないかと思い込む。
そこに鳥取市に住む中学生の話が絡んでくる。一体それは今までの話とどうつながるのだろうか。兄は別れを決めた女性と最後に京都旅行をしようと思い、そのついでに出張で大阪に来る弟と会うことにした。そして、そこである恐るべき犯罪が起きるのである。その話を書いてしまうと、一応形としてはミステリーなので約束違反になるだろう。それにしても恐るべき犯罪で、その全体像が明らかになるときには、心の中の暗黒面がさらけ出されてしまう。
この設定からして、これはインターネットと携帯電話なくして起こりえなかった犯罪である。しかし、著者が過剰なほどに現代世界の分析を行うのは、単なる犯罪を描くのではなく「文明史的視点」で世界の変貌を考察したいのだと思う。人間性の中には「悪」がある訳だが、それに対する日本社会や日本警察は全く時代の変化に対応できていない。絶望的に遅れている。想像力の広がりに欠ける。この小説が書かれてから、すでに13年。日本がどんどん衰退しているのも当然か。とにかく読んでいて嫌になるぐらい、暗黒面を見せつけられるが、これは重要な小説だ。精神的にタフな人は是非チャレンジして欲しい。
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