帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日選書)という本を読んだ。この本に出てくる「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉は初めて聞いたけど、ものすごく大切な考え方だと思う。話が重要なうえに、あちこち飛んでいるから、必ずしも判りやすい本じゃない。でも、ものすごく大事なことが書いてある本だ。医師、教師などを初め、人間に接する仕事をしている人は必読だし、あらゆる人に読んでほしい本。
帚木蓬生(1947~)という作家はミステリー系の作品を中心にしていて、戦争を背景にした骨太な社会派作品も多い。「三たびの海峡」(吉川英治文学賞新人賞)、「逃亡」(柴田錬三郎賞)などいくつかは僕も読んでる。でも、本職は精神科医なのである。東大文学部、九州大学医学部を卒業し、フランスに留学。その後、大学や病院で長く勤務した後、福岡県中間市に精神科・心療内科のクリニックを開業して、開業医のかたわら作家としても活躍しているという人である。
ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)って言うのは、もともと19世紀初頭のイギリス詩人、ジョン・キーツ(1795~1821)の言葉だという。わずか25歳で亡くなった人で、そう言えば「ブライト・スター」というジェイン・カンピオン監督の映画を見たことがあった。キーツは手紙の中でたった一言「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を書いた。それはシェークスピアに関する言葉だった。
シェークスピアの作品なら、誰でもいくつかは知ってるだろう。悲劇、喜劇、歴史劇をたくさん書いた。「ハムレット」「マクベス」「ロミオとジュリエット」…いくつもあるけど、じゃあシェークスピアの思想と言われても、誰も考えたこともないだろう。時代も違うけど、なんらかの思想や政治的立場を広めるためではなく、ただひたすら人間の生を見つめる中で書かれているからである。
そういうシェークスピアの作品をキーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」と表現した。その言葉を第一次大戦、第二次大戦の時代を生きたイギリスの精神科医、ビオンという人が再発見した。そこでは「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を、判りやすく現実を安易に「理解」してしまうのではなく、「不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度」と考えたのである。キーツはもともとは詩人の資質と考えたわけだけど、ビオンはそれを精神科医にも大切なものだと再定義したのである。そして帚木氏は教師や多くの人にも大切だとしてこの本を書いた。
capabilityという言葉は、辞書を検索すると、能力、才能、可能性などと出ている。例えば、「核戦闘能力」は「nuclear capability」となる。だから、普通に考えれば、ポジティブなケイパビリティは必要だけど、ネガティブなケイパビリティなんか不要な感じがする。実際、今の学校で求められている「問い」に対して「正答」を早く導き出す能力は、ポジティブ・ケイパビリティというものである。
だけど、教科学習においては、答えが導き出されるような問いを教師が行うから、ポジティブな能力で解決できる。でも、学校でも生活指導、生徒会指導、部活指導なんかでは、すぐには解決できない問題が多いのは誰でも知っている。努力さえすれば、全部の高校野球部が甲子園に出場できるわけではない。大体、それでは「大会」の意味がない。負けるところがないと勝つチームもない。人生というのは、むしろ「思うようにならないこと」の連続だ。
本当は学校でもそういう時の対処法を教えた方がいいのかもしれない。でも、教師も教えられてないし、最近は教師こそ「問題解決能力」を競わされている。(全国学力テスト」の学校ごとの結果を公表するとか、教師の仕事ぶりを校長が評価して給料を上げたり下げたりするなど。)そうなると、学校の中で「どうにもならないことに耐えていく力」が失われてしまうのではないか。この本で「ネガティブ・ケイパビリティ」と言っているのは、おおよそそういうことだと思う。
そうすると、これは非常に大事なことで、医療、福祉、教育なんかの仕事をする人ばかりでなく、多くの人に必要なものだと判る。誰もが病気をして、やがて死ぬわけだから。生まれた時代、親の経済力、容姿や運動神経…。気づいたときには自分にはどうしようもないことに囲まれているのが人生だろう。漢字検定なんかは、まあ努力で向上するだろうが、そういうことの方が少ない。
だけど、今まで家庭でも学校でも「頑張れ」ばかりで、「どうしようもないことに耐える力」の必要性なんか教えてなかった。でも、多くの人は生きてる中で、自分でそういう能力を身に付けていく。帚木氏の本を読むと、それはもともとの発見の経過からも「詩」とか「劇」というものに深く関わっているんじゃないかと僕は思う。そこらへんは今後も考えていきたい課題だ。
「帚木」「蓬生」というのはもちろんペンネームだけど、多くの人がすぐに気づくと思うけど「源氏物語」の巻の名前。帚木氏によれば、紫式部はシェークスピアに匹敵する「ネガティブ・ケイパビリティ」の持ち主だった。多くの女性たちの運命を見つめ、簡単に決めつけるのではなく、人生の様々な瞬間を生き生きと再現していく。千年前の日本の宮廷の愛の物語が、なぜ今も世界中で読まれるのか。そこに描かれる人々が、人間の本質を見事に描いているからだ。源氏物語に関する考察も非常に面白かった。特にフランスの作家ユルスナールの書いた「続編」の話。
帚木蓬生(1947~)という作家はミステリー系の作品を中心にしていて、戦争を背景にした骨太な社会派作品も多い。「三たびの海峡」(吉川英治文学賞新人賞)、「逃亡」(柴田錬三郎賞)などいくつかは僕も読んでる。でも、本職は精神科医なのである。東大文学部、九州大学医学部を卒業し、フランスに留学。その後、大学や病院で長く勤務した後、福岡県中間市に精神科・心療内科のクリニックを開業して、開業医のかたわら作家としても活躍しているという人である。
ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)って言うのは、もともと19世紀初頭のイギリス詩人、ジョン・キーツ(1795~1821)の言葉だという。わずか25歳で亡くなった人で、そう言えば「ブライト・スター」というジェイン・カンピオン監督の映画を見たことがあった。キーツは手紙の中でたった一言「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を書いた。それはシェークスピアに関する言葉だった。
シェークスピアの作品なら、誰でもいくつかは知ってるだろう。悲劇、喜劇、歴史劇をたくさん書いた。「ハムレット」「マクベス」「ロミオとジュリエット」…いくつもあるけど、じゃあシェークスピアの思想と言われても、誰も考えたこともないだろう。時代も違うけど、なんらかの思想や政治的立場を広めるためではなく、ただひたすら人間の生を見つめる中で書かれているからである。
そういうシェークスピアの作品をキーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」と表現した。その言葉を第一次大戦、第二次大戦の時代を生きたイギリスの精神科医、ビオンという人が再発見した。そこでは「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を、判りやすく現実を安易に「理解」してしまうのではなく、「不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度」と考えたのである。キーツはもともとは詩人の資質と考えたわけだけど、ビオンはそれを精神科医にも大切なものだと再定義したのである。そして帚木氏は教師や多くの人にも大切だとしてこの本を書いた。
capabilityという言葉は、辞書を検索すると、能力、才能、可能性などと出ている。例えば、「核戦闘能力」は「nuclear capability」となる。だから、普通に考えれば、ポジティブなケイパビリティは必要だけど、ネガティブなケイパビリティなんか不要な感じがする。実際、今の学校で求められている「問い」に対して「正答」を早く導き出す能力は、ポジティブ・ケイパビリティというものである。
だけど、教科学習においては、答えが導き出されるような問いを教師が行うから、ポジティブな能力で解決できる。でも、学校でも生活指導、生徒会指導、部活指導なんかでは、すぐには解決できない問題が多いのは誰でも知っている。努力さえすれば、全部の高校野球部が甲子園に出場できるわけではない。大体、それでは「大会」の意味がない。負けるところがないと勝つチームもない。人生というのは、むしろ「思うようにならないこと」の連続だ。
本当は学校でもそういう時の対処法を教えた方がいいのかもしれない。でも、教師も教えられてないし、最近は教師こそ「問題解決能力」を競わされている。(全国学力テスト」の学校ごとの結果を公表するとか、教師の仕事ぶりを校長が評価して給料を上げたり下げたりするなど。)そうなると、学校の中で「どうにもならないことに耐えていく力」が失われてしまうのではないか。この本で「ネガティブ・ケイパビリティ」と言っているのは、おおよそそういうことだと思う。
そうすると、これは非常に大事なことで、医療、福祉、教育なんかの仕事をする人ばかりでなく、多くの人に必要なものだと判る。誰もが病気をして、やがて死ぬわけだから。生まれた時代、親の経済力、容姿や運動神経…。気づいたときには自分にはどうしようもないことに囲まれているのが人生だろう。漢字検定なんかは、まあ努力で向上するだろうが、そういうことの方が少ない。
だけど、今まで家庭でも学校でも「頑張れ」ばかりで、「どうしようもないことに耐える力」の必要性なんか教えてなかった。でも、多くの人は生きてる中で、自分でそういう能力を身に付けていく。帚木氏の本を読むと、それはもともとの発見の経過からも「詩」とか「劇」というものに深く関わっているんじゃないかと僕は思う。そこらへんは今後も考えていきたい課題だ。
「帚木」「蓬生」というのはもちろんペンネームだけど、多くの人がすぐに気づくと思うけど「源氏物語」の巻の名前。帚木氏によれば、紫式部はシェークスピアに匹敵する「ネガティブ・ケイパビリティ」の持ち主だった。多くの女性たちの運命を見つめ、簡単に決めつけるのではなく、人生の様々な瞬間を生き生きと再現していく。千年前の日本の宮廷の愛の物語が、なぜ今も世界中で読まれるのか。そこに描かれる人々が、人間の本質を見事に描いているからだ。源氏物語に関する考察も非常に面白かった。特にフランスの作家ユルスナールの書いた「続編」の話。
≪…人生の様々な瞬間を生き生きと…≫という[永遠の今]を凝縮している『自然比矩形』の舞台で『数学妖怪キャラクター (『(わけのわからん ちゃん) (かど ちゃん) (ぐるぐる ちゃん) (つながり ちゃん) (まとめ ちゃん) (わけのわかる ちゃん)』) 』が演ずるさまざまな[物語]は、≪… 「詩」とか「劇」というものに深く関わっている…≫との事を踏まえて【数そのモノ】の普遍性と『数に操られる時代の産物としての数(経済等)』には≪…「どうしようもないことに耐える力」の必要性…≫との≪…「ネガティブ・ケイパビリティ」…≫のパースペクティブ(眺望)は持ち合わせていなければならない。