尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「はだかっ子」とユネスコ村ー映画に見る昔の学校⑦

2015年10月28日 13時05分38秒 |  〃  (旧作日本映画)
 田坂具隆監督「はだかっ子」という1961年の映画を30数年ぶりに見た。涙なくして見られぬ感動作だけど、当時の学校の状況などがよく判る意味でも面白かった。だから、「映画の中の学校」という観点から書いておきたい。田坂具隆という監督については、別に書きたいと思う。
  
 1956年、東京近郊の米軍基地に近い町。調べてみると、埼玉県の所沢でロケされているらしい。父がインドネシアで戦死して、母(木暮実千代)と二人で暮らしている少年・元太がいる。母は時々チンドン屋をしているが、いつもは「ニコヨン」(日雇い労働者)をして生活費を得ている。死んだ夫は大工で、その弟弟子(三國連太郎)の家の二階を間借りして、貧しく暮らしている。ある日、学校へ行く途中で、クラスメートの犬が、つないでなかったという理由で、「犬殺し」に連れて行かれるところに居合わせる。元太は犬を取り戻そうと噛みついたりして犬を逃がす。そこへ担任の高木先生(有馬稲子)が通りかかり、取りなしてくれる。こうして、この映画が始まる。

 元太は文字通り、元気いっぱいで、母親思いの一本気な少年。映画は、彼とクラスメートとの関わりや先生との交流を丹念に描いて行く。ある日、「ユネスコ村」に遠足に行く。ユネスコ村に関しては後記するが、世界各国の家を建ててある施設で、よく学校の遠足で利用されていた。そこで相撲をして、元太はみなに負けないが、高木先生にはかなわない。写生をすることになって、いろいろな家を皆がスケッチし始めるが、元太は決められず、あっちこっち行くうちに「インドネシア」の家にたどり着く。ここが父が死んだところかと思って、母に見せようとその家を描き始める。急に天候が変わり雷雨になると、皆とはぐれた元太は家の中に避難する。そこに探しに来た高木先生が見つけて助け出す。

 翌日の授業では、社会科で「ユネスコ」の学習。戦争をなくすために「心の中に平和の砦を築く」というのは、どういうことだろうか。戦争というと大きくなるけど、「ケンカ」と考えてみるとどうでしょうと高木先生。相手を思いやる気持ちの大切さに気付かせていく。最後は教科書を皆に読ませて確認させる。板書は「UNESCO」だけで、後は生徒が一生懸命先生の話を聞いている。今では内容的にも方法的にも考えられない素朴な授業だが、それが成立していた。教科書は東京書籍を使っていた。

 ある日「親子討論会」が開かれる。そんなものが開かれていたのか。先生はオブザーバーで、子どもと親が話し合うのである。競輪は良くないという意見が出る。後援会長が競輪を運営しているということで答弁に立ち、「競輪は社会にいい面もある」という。反論が相次ぐが、元太も「会長さんはいいこともあるというけど、会長さんは弱い者いじめをしているじゃないか」と告発する。この会長(織田政男)は地元の有力者で、後で元太の家にきて「誰に頼まれて、ああいうことを子どもに言わせたんだ」と母を追求する。そういうタイプの人物だったのだ。

 その頃、母は病気に倒れてしまう。「再生不良性貧血」(白血病)である。そのため、修学旅行を止めることにした元太は、同じく行かなかった女子と自転車で遊園地(西武園)に行く。当時の遊園地のジェットコースターを初めとするさまざまの遊具が出て来て、非常に貴重。最後は、運動会で頑張る元太を見ることなく、母は死んでいくという悲しいシーンとなる。運動会シーンも、非常に貴重な映像。

 「いじめ」的なことがないわけじゃない。姉が基地の「外人」と結婚している女子(一緒に遊園地に行くことになる子)は、机にパンを二つ並べてからかわれている。(パンが二つで「パンパン」。)また、道に信号もガードレールもなく、車がひっきりなしに通るところを横断するので、見ていてハラハラする。その頃は「交通戦争」と言われ、子どもが多い時代だったから、交通事故が今以上に大問題だった。

 子どもをめぐる当時の状況がよく判る映画だが、基本的に「教師の権威」「学校で勉強する」ことが全く疑われていない。「牧歌的な学校生活」である。田坂監督ならではの、クローズアップを多用した丁寧で誠実な演出に、ちょっとリズムがゆったりすぎると思いながらも、だんだん乗せられていき感涙に終わる。61年のベストテンで8位選出。1位が「不良少年」(羽仁進)、2位が「用心棒」(黒澤明)で、9位が「飼育」(大島渚)、10位が「黒い十人の女」(市川崑)。もうベストテンが意味ないような時代である。

 「ユネスコ村」は、西武鉄道が西武園の近くに開いていた遊園地(テーマパーク)である。ベースは世界の家が並ぶだけ。どうしてそれで客が呼べたのだろう。海外旅行など夢のまた夢、世界を知りたい人々の欲求に応える施設で、マジメな学習意欲が世の中に満ちていたのである。東京周辺の学校では、小学校の遠足の定番で、大体の人は当時行ってるんじゃないか。1951年に開園して、1990年に閉園した。単に遊園地というよりも、ユネスコの理想を多くの人が大切していた時代である。
(「ユネスコ村」の説明)
 日本はユネスコに1951年9月に加盟した。まだ占領中で、国連本体には加盟できていない。戦争の傷を皆が負い、日本は「文化国家」「平和国家」を目指していた。日本はユネスコから国際社会に復帰したのである。だから、「ユネスコ」という名前は戦後の希望だった。今は「負担金を払うな」などとずいぶんエラそうなことを言う国になってしまったが。もちろん僕も行ってるし、そう言えば生徒を連れて行ったこともあったと思いだした。非常に貴重なシーンで、懐かしさでいっぱいになった。それだけでも見る価値がある。(2020.5.21一部改稿)
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