2015年に公開されて大ヒットした「映画ビリギャル」をやっと見た。池袋の新文芸坐で2015年の日本映画特集。「バクマン。」と二本立てで、18、19に上映された。どっちも見る気があったのだが、見逃していた。大ヒット映画を見逃すのはおかしいと思われるだろうが、「その日しか上映されない」という古い映画のピンポイント上映を優先すると、いつの間にか終わってしまうわけである。でも、こうやってそのうち名画座で上映されたりするからまあいいやと思うのである。
「映画」というカテゴリーもあるし、「映画の中の学校」というカテゴリーも作っているけど、「ビリギャル」は学校に関する映画ではないし、映画として書くまでもない気もした。だけど、その中に描かれている問題は、「教育」を考えるヒントになると思うので、教育の問題として書いておきたいと思う。長くなりそうなので2回に分ける。なお、原作は読んでない。
まず、題名にした「『ビリギャル』を抑圧装置にしないために」の意味を書いておきたい。この映画(および実話に基づく原作ノンフィクション)は、正確な題名にある「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の通りの物語である。「エンタメ映画」の文法に沿って、なかなか出来がよく作られている「さわやか青春映画」なので、これを見ると「自分も頑張れば、偏差値を上げて慶応大学に入れる(入れた)かも」と見る人に思わせる力がある。
だから、それを逆手に取られると、受験生にとっては「ビリギャル見ただろ。頑張ればああいうこともあるんだよ。だから、お前が入試に落ちたのは、お前が頑張らなかった結果なんだ」と言われかねない。また教師にとっても、「わが高校の進学実績が振るわないのは、生徒のやる気を引き出せない教師の無能が原因である。ビリギャルの塾講師を見よ」と使われかねない。また大人の多くには、「私にもビリギャルの坪田先生みたいな人さえいれば、人生も変わっていたはずなのに」と「自己欺瞞」として機能しやすい。現実の家庭や学校の条件を考えることなしに、ただ「ひたすら頑張れば、何でもできる神話」になりやすいのである。もう実際に、「ビリギャル」を抑圧装置に使っている人もいるんじゃないかと思う。そうではなく、「ビリギャル」を解放装置に使うにはどうしたらいいかを考えたい。
最初に映画について。脚本があり、演出があり、演技があり、撮影がある。だけど、それではまだ映画にはならない。撮影したフィルム、というかもうフィルムじゃないけど、そのデジタル画像を編集することで「見る映画」に仕上がっていく。すぐれた「エンタメ映画」は、この編集が素晴らしいのである。堪能するしかない編集リズムであり、いったん流れに身を任せてしまえば、最後までジェットコースターに乗ったように進行する。だけど、ちょっと立ち止まって見ると、予測通りの展開だからどんどん忘れていく。ベストテン上位になった「恋人たち」や「ハッピーアワー」のような、見る者の心をいつまでもざわざわと波立たせる「居心地悪さ」がないのである。
物語の構造としては、「無知」というお城に閉じ込められていたお姫様が、王子様(現実の中では風采が上がらない塾講師だが)の助けにより自分を解放するお話。およびバカにされても反撃できずに溜りに溜まった怒りをバネに、ついに立ち上がって攻撃に乗り込んで行くお話。つまり「眠れる森の美女」と「忠臣蔵」の合体で、慶應の入試は討ち入りと同じようなもんである。物語の構造というものは、いつの世でも基本は同じようなものだということである。
さて、ここまででずいぶん長くなってしまったけれど、まず「偏差値」について。偏差値というのは、(まあ書くまでもないかと思うけど)、平均を50として、平均からの隔たりを数値化したものである。その基となるのは「正規分布」という考え方で、非常に多くの人数を(学力だけでなく、何でもいいが)比べてみると、平均点付近に一番多数の人が存在し、テストで言えば100点も0点もごくわずかになるはずだということである。だから、すごく易しい、あるいは難しい問題だと偏差値化する意味がないが、受験人数は何十万もいるし、「落とすために入試をする」以上、難易度がある程度の幅に止まると考えられるから、まあ偏差値で捉えられるわけである。偏差値が「30から70の間」に約95.4%の人数が含まれるので、「偏差値30」=下位2.3%、「偏差値70」=上位2.3%になる。
それは映画の中でも、「70万人の受験生」の中で、下位2%にいる生徒が上位2%に入るのは不可能だと学校の教員が語っている。まず、「70万」から検討する。18歳選挙権のところで書いたけれど、現在の「18歳人口」はおおよそ120万人である。この話は今よりもう少し前の話なんだけど、大学進学者はおおむね60万人で変わらない。そして、「浪人生」は約10万人強とされるから、合わせると翌年の大学受験を考えているのは、やはり「70万人」ということになる。
だけど、ここで気を付けるべき問題がある。「高校受験」と「大学受験」の違いである。高校受験はほぼ全中学生に関わるから、20世紀末に文部省が禁止するまで「業者テスト」を校内で行っていた。そうすると、そのデータは全生徒の点数を偏差値換算したものになる。(業者は複数あるから、実際には全生徒のデータが一社に集まることはないが。またこの映画の場合のように、内部進学中心の私立中高一貫校は参加しないから除かれるが。)その場合、「偏差値30」というのは、中学で下位2.3%の生徒ということだから、ホントにビリという感じを与える。実際の中学教員の感覚では、学習障害や知的障害(のボーダー)ではないかと疑うレベルである。
その高校入試の偏差値感覚を多くの人が持っていると思う。それで考えると、学習障害のような生徒が指導によっては慶應大学に入れたのかと誤解されかねない。いくらなんでも、どんな熱心な教え方をしても、それは全く無理だろうと思う。しかし、ここで問題にしているのは、大学入試だから、初めから関係ない生徒が多い。この映画でも主人公の友人たちは全然勉強してないが、内部進学で系列の大学に行ける人もいるだろう。そういう人は初めから模試を受けないからデータに入ってない。120万人の同世代の中で、大学へ行くということだけで、ほぼ半数の生徒から関係ないのだから、大学受験生は全員「同世代の学力偏差値が50以上」なのである。
もっとも専門学校の中でも試験があるところもあり、下の方の大学よりも学力が高い生徒がいる。そうだけど、この主人公も私立中学、私立高校へと進級、進学しているんだから、塾の最初のテストほどできないとは考えられない。英語や数学は小学生レベルということはありうるが、国語などはそこそこの点を取るものである。勉強をしなくても高校、大学へ上がれるんだから、確かに学力は低かっただろうが、家は私立へ行かせる経済力はあったんだから、「潜在学力」は相当に高いと見ないといけない。
それに大学入試の場合、高校入試と違い、必ずしも学力だけで輪切りにならない。学力が高くても、経済的な問題で地元の国立大学しか受けない生徒もある。この主人公は、名古屋に住んでいるが、「慶應を受ける」と言いだしたときに、なぜか家族は「東京に行かせる余裕がない」と言わない。周りはお前の学力では無理だと学力の話しかしない。経済力はあると皆は前提にしているのだろう。いまどき何と恵まれていることか。だから、慶應は偏差値が70だと書いてあっても、実際に上位の2.3%、つまり1万6100人に入らないと慶應に合格できないというわけではない。慶應文学部は外国語と地理歴史、総合政策学部は「数学または情報」あるいは「外国語」あるいは「数学および外国語」の3つの中から1つと小論文。外国語は英語じゃなくても可能だけど、まあ普通は英語。英語と日本史にしぼって勉強すればいい。(ちなみに募集人数は文学部580人と総合政策学部275人。)
本人の勉強できない面が誇張されているから、本人と教師の力により「奇跡が起きた」と理解したくなる。だけど、「奇跡的」は起こるけれど、ホントの意味の「奇跡」はこの世には起こらない。この映画の主人公も、中学教師の感覚だと、中ぐらいの高校に行ける程度の生徒が、頑張って学区で一番の高校へ入ったという感じかと思う。先に見たように、真にビリではない。また全県(全都)で一番、(東京で言えば日比谷高校)に入ったわけではない。それは大学で言えば東大だけど、数学や理科も必要だから、もう絶対に間に合わない。だから教科が少ない慶應に照準を合わせた。現実の主人公は、近畿学院とされる関西学院の他に、上智、明治および慶應の他学部も受けたという話。明治には合格したが他は不合格だという。総合政策学部は小論文の比重が高い。だから、学力だけのテストでは、関西学院や明大に合格できる水準に上げてきた。それなら本人の努力で可能ではないか。そう考えた方が、多くの人に勇気を与えるのではないだろうか。それはそれですごいことなんだから。
なお、「偏差値」という言葉が、私立高校の推薦で数字だけ一人歩きしてきたから、今でも「偏差値教育」などと言って悪いものだという印象を持っている人もいるかもしれない。しかし、偏差値に換算しなくても、成績を付けるということは「事実上の偏差値」と同じである。国家公務員の試験も、マスコミの入社試験も、ペーパーテストを行って上位から取るわけだから、偏差値で取っているのと同じである。データを偏差値化していないだけである。(「偏差値教育」を完全に否定するためには、入試を抽選にする以外にない。ペーパーテストを改善したり、小論文や実技試験を導入しても、その評価を数値に換算して上から取るんだから、やはり偏差値と同じである。)
「映画」というカテゴリーもあるし、「映画の中の学校」というカテゴリーも作っているけど、「ビリギャル」は学校に関する映画ではないし、映画として書くまでもない気もした。だけど、その中に描かれている問題は、「教育」を考えるヒントになると思うので、教育の問題として書いておきたいと思う。長くなりそうなので2回に分ける。なお、原作は読んでない。
まず、題名にした「『ビリギャル』を抑圧装置にしないために」の意味を書いておきたい。この映画(および実話に基づく原作ノンフィクション)は、正確な題名にある「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の通りの物語である。「エンタメ映画」の文法に沿って、なかなか出来がよく作られている「さわやか青春映画」なので、これを見ると「自分も頑張れば、偏差値を上げて慶応大学に入れる(入れた)かも」と見る人に思わせる力がある。
だから、それを逆手に取られると、受験生にとっては「ビリギャル見ただろ。頑張ればああいうこともあるんだよ。だから、お前が入試に落ちたのは、お前が頑張らなかった結果なんだ」と言われかねない。また教師にとっても、「わが高校の進学実績が振るわないのは、生徒のやる気を引き出せない教師の無能が原因である。ビリギャルの塾講師を見よ」と使われかねない。また大人の多くには、「私にもビリギャルの坪田先生みたいな人さえいれば、人生も変わっていたはずなのに」と「自己欺瞞」として機能しやすい。現実の家庭や学校の条件を考えることなしに、ただ「ひたすら頑張れば、何でもできる神話」になりやすいのである。もう実際に、「ビリギャル」を抑圧装置に使っている人もいるんじゃないかと思う。そうではなく、「ビリギャル」を解放装置に使うにはどうしたらいいかを考えたい。
最初に映画について。脚本があり、演出があり、演技があり、撮影がある。だけど、それではまだ映画にはならない。撮影したフィルム、というかもうフィルムじゃないけど、そのデジタル画像を編集することで「見る映画」に仕上がっていく。すぐれた「エンタメ映画」は、この編集が素晴らしいのである。堪能するしかない編集リズムであり、いったん流れに身を任せてしまえば、最後までジェットコースターに乗ったように進行する。だけど、ちょっと立ち止まって見ると、予測通りの展開だからどんどん忘れていく。ベストテン上位になった「恋人たち」や「ハッピーアワー」のような、見る者の心をいつまでもざわざわと波立たせる「居心地悪さ」がないのである。
物語の構造としては、「無知」というお城に閉じ込められていたお姫様が、王子様(現実の中では風采が上がらない塾講師だが)の助けにより自分を解放するお話。およびバカにされても反撃できずに溜りに溜まった怒りをバネに、ついに立ち上がって攻撃に乗り込んで行くお話。つまり「眠れる森の美女」と「忠臣蔵」の合体で、慶應の入試は討ち入りと同じようなもんである。物語の構造というものは、いつの世でも基本は同じようなものだということである。
さて、ここまででずいぶん長くなってしまったけれど、まず「偏差値」について。偏差値というのは、(まあ書くまでもないかと思うけど)、平均を50として、平均からの隔たりを数値化したものである。その基となるのは「正規分布」という考え方で、非常に多くの人数を(学力だけでなく、何でもいいが)比べてみると、平均点付近に一番多数の人が存在し、テストで言えば100点も0点もごくわずかになるはずだということである。だから、すごく易しい、あるいは難しい問題だと偏差値化する意味がないが、受験人数は何十万もいるし、「落とすために入試をする」以上、難易度がある程度の幅に止まると考えられるから、まあ偏差値で捉えられるわけである。偏差値が「30から70の間」に約95.4%の人数が含まれるので、「偏差値30」=下位2.3%、「偏差値70」=上位2.3%になる。
それは映画の中でも、「70万人の受験生」の中で、下位2%にいる生徒が上位2%に入るのは不可能だと学校の教員が語っている。まず、「70万」から検討する。18歳選挙権のところで書いたけれど、現在の「18歳人口」はおおよそ120万人である。この話は今よりもう少し前の話なんだけど、大学進学者はおおむね60万人で変わらない。そして、「浪人生」は約10万人強とされるから、合わせると翌年の大学受験を考えているのは、やはり「70万人」ということになる。
だけど、ここで気を付けるべき問題がある。「高校受験」と「大学受験」の違いである。高校受験はほぼ全中学生に関わるから、20世紀末に文部省が禁止するまで「業者テスト」を校内で行っていた。そうすると、そのデータは全生徒の点数を偏差値換算したものになる。(業者は複数あるから、実際には全生徒のデータが一社に集まることはないが。またこの映画の場合のように、内部進学中心の私立中高一貫校は参加しないから除かれるが。)その場合、「偏差値30」というのは、中学で下位2.3%の生徒ということだから、ホントにビリという感じを与える。実際の中学教員の感覚では、学習障害や知的障害(のボーダー)ではないかと疑うレベルである。
その高校入試の偏差値感覚を多くの人が持っていると思う。それで考えると、学習障害のような生徒が指導によっては慶應大学に入れたのかと誤解されかねない。いくらなんでも、どんな熱心な教え方をしても、それは全く無理だろうと思う。しかし、ここで問題にしているのは、大学入試だから、初めから関係ない生徒が多い。この映画でも主人公の友人たちは全然勉強してないが、内部進学で系列の大学に行ける人もいるだろう。そういう人は初めから模試を受けないからデータに入ってない。120万人の同世代の中で、大学へ行くということだけで、ほぼ半数の生徒から関係ないのだから、大学受験生は全員「同世代の学力偏差値が50以上」なのである。
もっとも専門学校の中でも試験があるところもあり、下の方の大学よりも学力が高い生徒がいる。そうだけど、この主人公も私立中学、私立高校へと進級、進学しているんだから、塾の最初のテストほどできないとは考えられない。英語や数学は小学生レベルということはありうるが、国語などはそこそこの点を取るものである。勉強をしなくても高校、大学へ上がれるんだから、確かに学力は低かっただろうが、家は私立へ行かせる経済力はあったんだから、「潜在学力」は相当に高いと見ないといけない。
それに大学入試の場合、高校入試と違い、必ずしも学力だけで輪切りにならない。学力が高くても、経済的な問題で地元の国立大学しか受けない生徒もある。この主人公は、名古屋に住んでいるが、「慶應を受ける」と言いだしたときに、なぜか家族は「東京に行かせる余裕がない」と言わない。周りはお前の学力では無理だと学力の話しかしない。経済力はあると皆は前提にしているのだろう。いまどき何と恵まれていることか。だから、慶應は偏差値が70だと書いてあっても、実際に上位の2.3%、つまり1万6100人に入らないと慶應に合格できないというわけではない。慶應文学部は外国語と地理歴史、総合政策学部は「数学または情報」あるいは「外国語」あるいは「数学および外国語」の3つの中から1つと小論文。外国語は英語じゃなくても可能だけど、まあ普通は英語。英語と日本史にしぼって勉強すればいい。(ちなみに募集人数は文学部580人と総合政策学部275人。)
本人の勉強できない面が誇張されているから、本人と教師の力により「奇跡が起きた」と理解したくなる。だけど、「奇跡的」は起こるけれど、ホントの意味の「奇跡」はこの世には起こらない。この映画の主人公も、中学教師の感覚だと、中ぐらいの高校に行ける程度の生徒が、頑張って学区で一番の高校へ入ったという感じかと思う。先に見たように、真にビリではない。また全県(全都)で一番、(東京で言えば日比谷高校)に入ったわけではない。それは大学で言えば東大だけど、数学や理科も必要だから、もう絶対に間に合わない。だから教科が少ない慶應に照準を合わせた。現実の主人公は、近畿学院とされる関西学院の他に、上智、明治および慶應の他学部も受けたという話。明治には合格したが他は不合格だという。総合政策学部は小論文の比重が高い。だから、学力だけのテストでは、関西学院や明大に合格できる水準に上げてきた。それなら本人の努力で可能ではないか。そう考えた方が、多くの人に勇気を与えるのではないだろうか。それはそれですごいことなんだから。
なお、「偏差値」という言葉が、私立高校の推薦で数字だけ一人歩きしてきたから、今でも「偏差値教育」などと言って悪いものだという印象を持っている人もいるかもしれない。しかし、偏差値に換算しなくても、成績を付けるということは「事実上の偏差値」と同じである。国家公務員の試験も、マスコミの入社試験も、ペーパーテストを行って上位から取るわけだから、偏差値で取っているのと同じである。データを偏差値化していないだけである。(「偏差値教育」を完全に否定するためには、入試を抽選にする以外にない。ペーパーテストを改善したり、小論文や実技試験を導入しても、その評価を数値に換算して上から取るんだから、やはり偏差値と同じである。)
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