元プロ野球選手の杉下茂氏が亡くなった。97歳と長命だった。中日ドラゴンズで活躍し、日本で初めてフォークボールを投げて「フォークの神様」と呼ばれた人である。1951年、54年に最多勝利、51、52、54年に3度沢村賞を獲得したという偉大な記録を持っている。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手でもある。このような活躍は僕が生まれる前なので、もちろん直接は知らないけれど。通算勝利215勝は、日本プロ野球史上15位の記録となっている。同日に訃報が報じられた元広島の北別府学投手は213勝で、歴代17位だった。(昨年亡くなった村田兆治氏も215勝で、15位が2人いる。)
(杉下茂氏)
さて、3年前の2020年夏、コロナ禍で夏の甲子園大会が中止になった年のことだけど、東京新聞に杉下氏のインタビューが掲載された。杉下氏の名前ぐらいは知っていたけれど、「伝説の投手」というだけで杉下氏の戦争体験のことなど全く知らなかった。そこで語られた言葉は、胸に迫る深さがあり非常に驚いた。そのため、ブログでも紹介したことがある。(2020年9月3日)その内容は改めて紹介する価値があると思う。むしろ今こそさらに重みが増しているというべきかもしれない。自分でも忘れていたぐらいだから、当時読んだ人でも多分覚えてないだろうと思う。そこで以下に再掲したい。
(現役当時の杉下氏)
杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
「―そのときの思いは。」
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。
「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」
日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。
「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています。」
このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。

さて、3年前の2020年夏、コロナ禍で夏の甲子園大会が中止になった年のことだけど、東京新聞に杉下氏のインタビューが掲載された。杉下氏の名前ぐらいは知っていたけれど、「伝説の投手」というだけで杉下氏の戦争体験のことなど全く知らなかった。そこで語られた言葉は、胸に迫る深さがあり非常に驚いた。そのため、ブログでも紹介したことがある。(2020年9月3日)その内容は改めて紹介する価値があると思う。むしろ今こそさらに重みが増しているというべきかもしれない。自分でも忘れていたぐらいだから、当時読んだ人でも多分覚えてないだろうと思う。そこで以下に再掲したい。

杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
「―そのときの思いは。」
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。
「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」
日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。
「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています。」
このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
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