フィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」(The Human Stain、2000)という小説を読んでる人は少ないんじゃないかと思う。フィリップ・ロスの「父の遺産」「プロット・アゲンスト・アメリカ」を読んで以来、ロスの旧作を読んでいる。デビュー作の有名な「さようならコロンバス」も再読してみた。その話はまた別に書きたいが、日本で21世紀になって翻訳が出た小説は少ない。でも、先の本の解説などを読むと、生涯の代表作は90年代後半に書かれた何冊かの本であるらしい。ということで、近くの図書館に行って、「ヒューマン・ステイン」と「ダイング・アニマル」という2冊を借りてきたのである。そして、その「ヒューマン・ステイン」という小説は、ものすごい傑作だった。
「ダイング・アニマル」の話は最後に書くけど、こっちも読み始めると止められない面白さである。ただし、150頁ほどの中編と言ってもいい小説で、ほぼ「人間と性」(あるいはさらに「老いと病」もあるけれど)の話である。一方、「ヒューマン・ステイン」(上岡伸雄訳、2004年、集英社)の方は450頁を超える大長編で、登場人物もたくさんいる本格的な社会小説である。読み応えたっぷりで、つまりなかなか終わらない。でも、難しいところはどこにもない。「白いカラス」という映画にもなり、日本でも公開された。だから、この小説はもっと知られてもいいはずだし、文庫にも入ってしかるべきなんだけど、日本では受けにくい要素もある。「アメリカ社会」、特に東部の大学社会を舞台にし、「ポリティカル・コレクティネス」(PC)、あの「政治的公正さ」をめぐる問題がテーマなのである。
それだけならともかく、ここにはロスの多くの小説と同じく、「セックスをめぐる話題」もたっぷりとあって、それも「71歳の元大学教授」(男性)と「34歳の文字の読めない清掃員」(女性)という、どっちもシングルなんだから本人同士がいいんならどうでもいいではないかと思いつつ、公になればスキャンダルっぽい関係である。そして、ヴェトナム戦争のPTSDを抱える元兵士、フランスからやってきた若き美人研究者といった脇役を配し、アメリカ現代史数十年、あるいは建国以来のアメリカ史にまで絡んでくる壮大な物語に仕上げている。そして「人は歴史的な関係の中で生まれてくるが、自分の人生を設計し直すことはできるのだろうか」という非常に重大なテーマが浮かび上がってくる。
と同時に、一種の「知的世界」の寓話でもあって、そういうところが読者を選ぶ点でもある。例えば、29歳の美人フランス人女性学者は、しかしアメリカで孤独である。ある日、ニューヨークの図書館で原語でジュリア・クリスティヴァを読んでいたら、隣にフランス語でフィリップ・ソレルスを読んでいる男が座る。この二人は夫婦でもあるので、これは運命かと一瞬考えてしまうのだが…という場面が出てくる。僕はこの二人を読んだことがないし、夫婦だというのも初めて知ったけど(日本語のウィキペディアには出ていない)、名前ぐらいは知っている。その程度には有名な作家、学者であるのは間違いないと思うが、全然知らない人にはこの場面が楽しめないだろう。これは知的なサービスだが、アメリカ現代史の話だからアメリカ人でないとよく判らないような場面も多い。だけど、これほど重要な小説も少ないと思う。
この小説の語り手は、ネイサン・ザッカーマンという高齢の作家で、フィリップ・ロスの分身としてよく小説に使われる人物。主人公と言えるのは、コールマン・シルクという元大学教授で、2年前までマサチューセッツの小さな大学、アシーナ大学で「古典文学」を教えてきた。「古典」とは主にギリシャ古代文学のことで、「イリアス」とかである。単に教えるだけでなく、学部長として大学の改革にまい進してきて学長以上に重要人物とみなされてきた。だけど、2年前に授業に一度も出てこない学生を「幽霊」かなと出席点呼時に語った。その時に使った“spook”(スプーク)という単語は、今検索してみると、「幽霊」以外には、「スパイ」とか「(特に馬が)神経質な」という意味しか出ていないが、この単語にはかつて黒人に対する差別語として使われたという。そこで、学生が差別発言だと申し立てることになるのだが、コールマンとしては一度も出てきていない学生が黒人かどうかさえ判らなかったのである。
やり手の彼には敵も多く、特に24で採用してから5年、今は学科長にまでなった若きフランス人女性研究者、デルフィーヌ・ルーがその急先鋒となる。ところが闘う気満々の最中に妻が急死し、「理不尽に妻が殺された」と怒りにかられて、大学に辞表をだし、以後はほとんど隠遁生活を送っている。このてん末を本にして欲しいと近所に住むザッカーマンを訪れたのが、両者が知り合ったきっかけである。大学退職後、彼はふとしたことから、大学や郵便局で清掃をしているファーニア・ファーリーという34歳の女性と知り合い、性的関係を結ぶ。ファーニアは14歳の時に継父にいたずらされ家出、以後は教育とは縁遠い底辺生活を送り、文字も読めないらしい。ヴェトナム帰還兵と結婚して、二人の子どもが出来たが、夫の暴力で離婚し、子どもは二人とも火事で焼死してしまった。
この二人のかかわりを中心に、元ヴェトナム帰還兵の驚くべき世界、執筆当時話題になっていたビル・クリントンのセックス・スキャンダルなどをはさみながら、コールマン・シルクという人物の人生に秘められた驚くべき秘密が語られていく。その秘密は「訳者あとがき」に書かれているが、これは先に読まない方がいい。叙述がけっこう入り組んでいて、最初はあっと驚くけど、それを知った時に判ってくる驚きがもたらすもの、その複雑な感慨を味わってもらうためには。アメリカという社会の実相、そして「差別」をどう考えるかをよく考えてみるためには。そうだったのか、と深く理解できた時に、コールマンとファーニアという二人の関係も新しく見えてくるものがあるはずである。“stain" という単語は、「しみ」「よごれ」「汚点」といった意味らしい。だが、ファーニーがカラスに会いに行く場面、人間に育てられ野生を失ったカラスを見にいく印象的な場面で、「人間の穢れ」と訳されている。物語の展開にはこれ以上触れないことにする。非常に力強く、小説の楽しみを満喫させられるとともに、アメリカという社会の複雑さを痛感させられた。
なお、この小説でかなり戯画化されているデルフィーヌ・ルーというフランス人学者は、アメリカ人学生を「彼らは黒澤明の映画も観たことがない」と心の中で非難している。(236頁)続いて「彼女が彼らの年頃には、黒澤の映画をすべて観ていたし、タルコフスキーもフェリーニもアントニオーニもファスビンダーもヴェルトミューラーもサタジット・レイもルネ・クレールもヴィム・ヴェンダースもトリュフォーもゴダールもシャブロールもレネもロメールもルノワールもすべて観ていた。それなのにここの若者たちが観ているのは『スター・ウォーズ』だけだ。」と書いている。これはよく判る。「われわれ」が今の日本の若者に言いたいことでもあるが、ここで出てくる人名もある程度は判らないと楽しめないだろう。もっとも「アメリカ人作家が考えた、フランス人女性が選びそうな映画監督リスト」という感じもするけれど。10年以上前の話だが、黒澤より小津でしょう、クリスティヴァを読む若い学者ならと言いたい気もするが、これは黒澤にした理由があると僕は考える。この小説の構成に関する問題である。
さて、「ダイング・アニマル」だが、これも同じ訳者で2005年に出て、「エレジー」という映画になった作品である。これはロスが主にセックスをテーマにするときに使うデイヴィッド・ケペシュというテレビに出ている文化批評家が主人公である。そして老年を迎えたケペシュがキューバ系の24歳の美女、コンスエラ・カスティリョと秘密の関係を持つ。そのことだけをめぐって、えんえんと語りつくされる。この語りが読みやすくて、実に面白い。なんと不道徳なと怒りだす人には不向きだけど、まあ、源氏だって谷崎だって、同じではないかと思えれば、これほど面白い本もない。特にアメリカの60年代、セックス革命の時代を語り論じているのが、興味深いのである。題名はイエーツの詩から。「死にゆく獣」の物語。
55頁にジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスを語っている場面がある。「あの時代」の女子学生の「文化的叛乱」ぶりを語るところである。やはりジャニスとジミ・ヘンなのだ。ジャニスは「白い顔をした彼女たちのベッシー・スミス、彼女たちのシャウター、ホンキートンク、ラリったジュディ・ガーランド」である。ジミ・ヘンは「彼女らのギター版チャーリー・パーカー」というのである。いや、よく判る傑作な表現ではないか。
「ダイング・アニマル」の話は最後に書くけど、こっちも読み始めると止められない面白さである。ただし、150頁ほどの中編と言ってもいい小説で、ほぼ「人間と性」(あるいはさらに「老いと病」もあるけれど)の話である。一方、「ヒューマン・ステイン」(上岡伸雄訳、2004年、集英社)の方は450頁を超える大長編で、登場人物もたくさんいる本格的な社会小説である。読み応えたっぷりで、つまりなかなか終わらない。でも、難しいところはどこにもない。「白いカラス」という映画にもなり、日本でも公開された。だから、この小説はもっと知られてもいいはずだし、文庫にも入ってしかるべきなんだけど、日本では受けにくい要素もある。「アメリカ社会」、特に東部の大学社会を舞台にし、「ポリティカル・コレクティネス」(PC)、あの「政治的公正さ」をめぐる問題がテーマなのである。
それだけならともかく、ここにはロスの多くの小説と同じく、「セックスをめぐる話題」もたっぷりとあって、それも「71歳の元大学教授」(男性)と「34歳の文字の読めない清掃員」(女性)という、どっちもシングルなんだから本人同士がいいんならどうでもいいではないかと思いつつ、公になればスキャンダルっぽい関係である。そして、ヴェトナム戦争のPTSDを抱える元兵士、フランスからやってきた若き美人研究者といった脇役を配し、アメリカ現代史数十年、あるいは建国以来のアメリカ史にまで絡んでくる壮大な物語に仕上げている。そして「人は歴史的な関係の中で生まれてくるが、自分の人生を設計し直すことはできるのだろうか」という非常に重大なテーマが浮かび上がってくる。
と同時に、一種の「知的世界」の寓話でもあって、そういうところが読者を選ぶ点でもある。例えば、29歳の美人フランス人女性学者は、しかしアメリカで孤独である。ある日、ニューヨークの図書館で原語でジュリア・クリスティヴァを読んでいたら、隣にフランス語でフィリップ・ソレルスを読んでいる男が座る。この二人は夫婦でもあるので、これは運命かと一瞬考えてしまうのだが…という場面が出てくる。僕はこの二人を読んだことがないし、夫婦だというのも初めて知ったけど(日本語のウィキペディアには出ていない)、名前ぐらいは知っている。その程度には有名な作家、学者であるのは間違いないと思うが、全然知らない人にはこの場面が楽しめないだろう。これは知的なサービスだが、アメリカ現代史の話だからアメリカ人でないとよく判らないような場面も多い。だけど、これほど重要な小説も少ないと思う。
この小説の語り手は、ネイサン・ザッカーマンという高齢の作家で、フィリップ・ロスの分身としてよく小説に使われる人物。主人公と言えるのは、コールマン・シルクという元大学教授で、2年前までマサチューセッツの小さな大学、アシーナ大学で「古典文学」を教えてきた。「古典」とは主にギリシャ古代文学のことで、「イリアス」とかである。単に教えるだけでなく、学部長として大学の改革にまい進してきて学長以上に重要人物とみなされてきた。だけど、2年前に授業に一度も出てこない学生を「幽霊」かなと出席点呼時に語った。その時に使った“spook”(スプーク)という単語は、今検索してみると、「幽霊」以外には、「スパイ」とか「(特に馬が)神経質な」という意味しか出ていないが、この単語にはかつて黒人に対する差別語として使われたという。そこで、学生が差別発言だと申し立てることになるのだが、コールマンとしては一度も出てきていない学生が黒人かどうかさえ判らなかったのである。
やり手の彼には敵も多く、特に24で採用してから5年、今は学科長にまでなった若きフランス人女性研究者、デルフィーヌ・ルーがその急先鋒となる。ところが闘う気満々の最中に妻が急死し、「理不尽に妻が殺された」と怒りにかられて、大学に辞表をだし、以後はほとんど隠遁生活を送っている。このてん末を本にして欲しいと近所に住むザッカーマンを訪れたのが、両者が知り合ったきっかけである。大学退職後、彼はふとしたことから、大学や郵便局で清掃をしているファーニア・ファーリーという34歳の女性と知り合い、性的関係を結ぶ。ファーニアは14歳の時に継父にいたずらされ家出、以後は教育とは縁遠い底辺生活を送り、文字も読めないらしい。ヴェトナム帰還兵と結婚して、二人の子どもが出来たが、夫の暴力で離婚し、子どもは二人とも火事で焼死してしまった。
この二人のかかわりを中心に、元ヴェトナム帰還兵の驚くべき世界、執筆当時話題になっていたビル・クリントンのセックス・スキャンダルなどをはさみながら、コールマン・シルクという人物の人生に秘められた驚くべき秘密が語られていく。その秘密は「訳者あとがき」に書かれているが、これは先に読まない方がいい。叙述がけっこう入り組んでいて、最初はあっと驚くけど、それを知った時に判ってくる驚きがもたらすもの、その複雑な感慨を味わってもらうためには。アメリカという社会の実相、そして「差別」をどう考えるかをよく考えてみるためには。そうだったのか、と深く理解できた時に、コールマンとファーニアという二人の関係も新しく見えてくるものがあるはずである。“stain" という単語は、「しみ」「よごれ」「汚点」といった意味らしい。だが、ファーニーがカラスに会いに行く場面、人間に育てられ野生を失ったカラスを見にいく印象的な場面で、「人間の穢れ」と訳されている。物語の展開にはこれ以上触れないことにする。非常に力強く、小説の楽しみを満喫させられるとともに、アメリカという社会の複雑さを痛感させられた。
なお、この小説でかなり戯画化されているデルフィーヌ・ルーというフランス人学者は、アメリカ人学生を「彼らは黒澤明の映画も観たことがない」と心の中で非難している。(236頁)続いて「彼女が彼らの年頃には、黒澤の映画をすべて観ていたし、タルコフスキーもフェリーニもアントニオーニもファスビンダーもヴェルトミューラーもサタジット・レイもルネ・クレールもヴィム・ヴェンダースもトリュフォーもゴダールもシャブロールもレネもロメールもルノワールもすべて観ていた。それなのにここの若者たちが観ているのは『スター・ウォーズ』だけだ。」と書いている。これはよく判る。「われわれ」が今の日本の若者に言いたいことでもあるが、ここで出てくる人名もある程度は判らないと楽しめないだろう。もっとも「アメリカ人作家が考えた、フランス人女性が選びそうな映画監督リスト」という感じもするけれど。10年以上前の話だが、黒澤より小津でしょう、クリスティヴァを読む若い学者ならと言いたい気もするが、これは黒澤にした理由があると僕は考える。この小説の構成に関する問題である。
さて、「ダイング・アニマル」だが、これも同じ訳者で2005年に出て、「エレジー」という映画になった作品である。これはロスが主にセックスをテーマにするときに使うデイヴィッド・ケペシュというテレビに出ている文化批評家が主人公である。そして老年を迎えたケペシュがキューバ系の24歳の美女、コンスエラ・カスティリョと秘密の関係を持つ。そのことだけをめぐって、えんえんと語りつくされる。この語りが読みやすくて、実に面白い。なんと不道徳なと怒りだす人には不向きだけど、まあ、源氏だって谷崎だって、同じではないかと思えれば、これほど面白い本もない。特にアメリカの60年代、セックス革命の時代を語り論じているのが、興味深いのである。題名はイエーツの詩から。「死にゆく獣」の物語。
55頁にジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスを語っている場面がある。「あの時代」の女子学生の「文化的叛乱」ぶりを語るところである。やはりジャニスとジミ・ヘンなのだ。ジャニスは「白い顔をした彼女たちのベッシー・スミス、彼女たちのシャウター、ホンキートンク、ラリったジュディ・ガーランド」である。ジミ・ヘンは「彼女らのギター版チャーリー・パーカー」というのである。いや、よく判る傑作な表現ではないか。
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