中公新書新刊の「民衆暴力」は重大な問題提起の本だ。著者の藤野裕子氏は1976年生まれで、東京女子大学現代教養学部准教授と出ている。2015年の「都市と暴動の民衆史」(有志舎)で藤田賞を受賞したというが僕は全然知らなかった。そもそも藤田賞が判らないので調べてみたら、「後藤・安田記念東京都市研究所」(旧・東京市政調査会)が地方自治や都市問題のすぐれた研究に出している賞だった。後藤は後藤新平、安田は安田善次郎である。

およそどの国の歴史でも「暴力」がなくて、ただ平和が続いたなんて国はない。「近代国家」は欧米では「市民革命」で成立したが、日本でも「革命」ではないかもしれないが「明治維新」と「戊辰戦争」で近代的な中央集権国家への道のりが始まった。(「明治維新」をどうとらえるか、長い論争があった。その性格をどう考えるかは別にして、暗殺や内乱が相次いだ時代だった。)歴史を考えるときに「戦争」や「革命」の意義を否定することはできない。
その中で幕末から大正期頃までの日本では、「民衆暴動」が相次いだ時代だった。それはどんな教科書にも出てくる出来事だけど、今までのとらえ方でいいのかと問題を投げかけているのである。僕も今までは、「秩父事件」や「米騒動」は「横暴な権力に抵抗する民衆運動」としてプラス方向に評価してきた。一方、明治初期の「解放令反対一揆」(身分制度撤廃に反対して被差別を襲撃した事件)や関東大震災の「朝鮮人虐殺事件」などは、「民衆の中に残る遅れた差別意識の表れ」とマイナス方向の出来事として別扱いしていたと思う。
藤野氏の著書はそれは事実だろうかと史料を問い直す。幕末の「打ち壊し」を序章にして、明治初期の「新政反対一揆」(解放令反対一揆を含めて)、自由民権期の「秩父事件」、日露戦争後の「日比谷焼き討ち事件」、関東大震災時の「朝鮮人虐殺事件」を再検討している。その結果、必ずしも「抵抗運動」か「愚挙」かと二分できない民衆の心情を分析している。
江戸時代の「百姓一揆」は暴力を否定し、領主側も否定できない「仁政」を発動させようと試みる運動だった。しかし、明治新政府は「仁政」を認めず、秩父事件の指導者たちもそれを理解していて、蜂起すれば厳しい刑罰が下されると判っていた。それでも「暴力」を民衆が振るった時代があった。それらの実態を細かく見ていくと、権力に立ち向かう暴力と被差別者に向けた暴力は簡単には分けられない実態がある。明治初期の2事件は農村共同体で起きた事件だが、後半の2事件は「都市社会」の中で起きている。そこにどのような違いがあったのか。
僕は完全には判らない部分も多いのだが、日比谷焼き討ち事件では単に都市住民というのではなく、より下層の職人層で「飲む・打つ・買う」などを「男らしさ」と考える人々が多かった。彼らは農村で生きていけず、当時は社会的地位が低かった工場労働者になった。政府は農村では「通俗道徳」(二宮尊徳などを源流とする倹約で生活を向上させようとする道徳観)を奨励するが、近代都市社会の底辺層はそれでは未来が見えない。「生活改善」の名の下に民衆生活に介入する警察は彼らに嫌われていて、事あれば警察が襲撃されたのである。
僕が思ったのは、幕末以後の「博徒」の役割である。秩父事件のリーダーに迎えられた田代栄助は秩父の博徒だった。各地で博徒が自由民権運動に参加した事例は他にも見られる。幕末変革期には旧来の秩序が乱れて、今も名前が残る侠客が多く出た。清水次郎長や国定忠治などだが、次郎長ものでは悪役として出てくる甲斐の黒駒勝蔵は戊辰戦争時の「赤報隊」に参加した経緯が知られる。世界的にも変革期には伝説的な「悪党」が活躍する。日本でも同じだが、彼らは当時は民衆にも声望がある人もいて、反政府運動に担ぎ出されたりもする存在だった。
国家(軍隊、警察)が「暴力」を独占する近代になっても、非合法的に「暴力」を振るう「暴力集団」がどの国も存在する。昭和期以後になると、ヤクザ組織の「暴力」は「左翼革命の抑止力」として権力から裏で保護される場合も出てくる。民衆の中の「暴力」は、「在郷軍人会」などを通して国家が管理してゆくようになる。関東大震災においては、植民地支配への抵抗を続ける朝鮮人への「仮想敵」意識もあって、軍や警察が率先して虐殺を行った。「自警団」の中には「天下晴れての人殺し」と国家公認を信じて虐殺を行い、その後に軍・警察は不問となるが自警団だけ裁かれた。国家は裏切るのである。
著者は「歴史修正主義」に対抗する意味で書いたという。しかし、今までの民衆観では足りない面があるということだろう。僕が思い出したのは、先に読んだ「インドネシア大虐殺」である。「天下晴れての人殺し」と今もインドネシアでは公認されている。「民衆」をどう理解するか、一筋縄ではいかない。民衆の中にある「正義感」をどう引き寄せるか、日々の闘いが行われているのだろう。現代の「ヘイトスピーチ」などを考える意味でも示唆に富んだ重い課題を突きつける。

およそどの国の歴史でも「暴力」がなくて、ただ平和が続いたなんて国はない。「近代国家」は欧米では「市民革命」で成立したが、日本でも「革命」ではないかもしれないが「明治維新」と「戊辰戦争」で近代的な中央集権国家への道のりが始まった。(「明治維新」をどうとらえるか、長い論争があった。その性格をどう考えるかは別にして、暗殺や内乱が相次いだ時代だった。)歴史を考えるときに「戦争」や「革命」の意義を否定することはできない。
その中で幕末から大正期頃までの日本では、「民衆暴動」が相次いだ時代だった。それはどんな教科書にも出てくる出来事だけど、今までのとらえ方でいいのかと問題を投げかけているのである。僕も今までは、「秩父事件」や「米騒動」は「横暴な権力に抵抗する民衆運動」としてプラス方向に評価してきた。一方、明治初期の「解放令反対一揆」(身分制度撤廃に反対して被差別を襲撃した事件)や関東大震災の「朝鮮人虐殺事件」などは、「民衆の中に残る遅れた差別意識の表れ」とマイナス方向の出来事として別扱いしていたと思う。
藤野氏の著書はそれは事実だろうかと史料を問い直す。幕末の「打ち壊し」を序章にして、明治初期の「新政反対一揆」(解放令反対一揆を含めて)、自由民権期の「秩父事件」、日露戦争後の「日比谷焼き討ち事件」、関東大震災時の「朝鮮人虐殺事件」を再検討している。その結果、必ずしも「抵抗運動」か「愚挙」かと二分できない民衆の心情を分析している。
江戸時代の「百姓一揆」は暴力を否定し、領主側も否定できない「仁政」を発動させようと試みる運動だった。しかし、明治新政府は「仁政」を認めず、秩父事件の指導者たちもそれを理解していて、蜂起すれば厳しい刑罰が下されると判っていた。それでも「暴力」を民衆が振るった時代があった。それらの実態を細かく見ていくと、権力に立ち向かう暴力と被差別者に向けた暴力は簡単には分けられない実態がある。明治初期の2事件は農村共同体で起きた事件だが、後半の2事件は「都市社会」の中で起きている。そこにどのような違いがあったのか。
僕は完全には判らない部分も多いのだが、日比谷焼き討ち事件では単に都市住民というのではなく、より下層の職人層で「飲む・打つ・買う」などを「男らしさ」と考える人々が多かった。彼らは農村で生きていけず、当時は社会的地位が低かった工場労働者になった。政府は農村では「通俗道徳」(二宮尊徳などを源流とする倹約で生活を向上させようとする道徳観)を奨励するが、近代都市社会の底辺層はそれでは未来が見えない。「生活改善」の名の下に民衆生活に介入する警察は彼らに嫌われていて、事あれば警察が襲撃されたのである。
僕が思ったのは、幕末以後の「博徒」の役割である。秩父事件のリーダーに迎えられた田代栄助は秩父の博徒だった。各地で博徒が自由民権運動に参加した事例は他にも見られる。幕末変革期には旧来の秩序が乱れて、今も名前が残る侠客が多く出た。清水次郎長や国定忠治などだが、次郎長ものでは悪役として出てくる甲斐の黒駒勝蔵は戊辰戦争時の「赤報隊」に参加した経緯が知られる。世界的にも変革期には伝説的な「悪党」が活躍する。日本でも同じだが、彼らは当時は民衆にも声望がある人もいて、反政府運動に担ぎ出されたりもする存在だった。
国家(軍隊、警察)が「暴力」を独占する近代になっても、非合法的に「暴力」を振るう「暴力集団」がどの国も存在する。昭和期以後になると、ヤクザ組織の「暴力」は「左翼革命の抑止力」として権力から裏で保護される場合も出てくる。民衆の中の「暴力」は、「在郷軍人会」などを通して国家が管理してゆくようになる。関東大震災においては、植民地支配への抵抗を続ける朝鮮人への「仮想敵」意識もあって、軍や警察が率先して虐殺を行った。「自警団」の中には「天下晴れての人殺し」と国家公認を信じて虐殺を行い、その後に軍・警察は不問となるが自警団だけ裁かれた。国家は裏切るのである。
著者は「歴史修正主義」に対抗する意味で書いたという。しかし、今までの民衆観では足りない面があるということだろう。僕が思い出したのは、先に読んだ「インドネシア大虐殺」である。「天下晴れての人殺し」と今もインドネシアでは公認されている。「民衆」をどう理解するか、一筋縄ではいかない。民衆の中にある「正義感」をどう引き寄せるか、日々の闘いが行われているのだろう。現代の「ヘイトスピーチ」などを考える意味でも示唆に富んだ重い課題を突きつける。