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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

2014年4月の訃報

2014年05月04日 00時25分38秒 | 追悼
 4月30日に、僕にとっては感慨深い二人の訃報があった。一人は、昨日の新聞で報じられた「寺山修司元夫人」である九條今日子(4.30没、78歳)。去年寺山の没後30年ということで、九條の「回想・寺山修司」という本が角川文庫に入った。ちょうど去年の今ごろ、その本を読んでいた記憶がある。よりによって憲法記念日に「九條今日子」という名の人について書くのも、不思議な因縁である。

 九條今日子は昨年行われた寺山連続上映で、何回かトークをしていた。僕も篠田正浩とのトークを聞いたけれど、よく知られているように松竹の若手監督だった篠田が二人の縁結びの神だった。去年話を聞いた時は健康の不調を思わせる感じはしなかったのだが。ところで、九條はもともと映子の名前でSKDのダンサーだった。SKDといっても若い人は知らないだろうけど、浅草の国際劇場(現在の浅草ビューホテル)に本拠地を置く松竹歌劇団の略称である。宝塚と同じく、松竹はじめ各映画社の女優を輩出することになる。戦後だけでも淡路恵子、芦川いづみ、野添ひとみ、倍賞千恵子、美津子姉妹などの名があがる。九條もそのような一人で、松竹の若手女優としてデビューした。大島渚に「明日の太陽」という宣伝短編映画がある。松竹の若手俳優を紹介する映画だが、そこでも九條が取り上げられている。期待の若手の一人だったのである。

 篠田は前々から母校早稲田にいた若手歌人の鬼才として寺山に関心を持っていて、第2作の「乾いた湖」の脚本を依頼している。その時に九條のファンだということを知って、引き合わせたわけである。その後の寺山との交際、結婚に関しては前記の本に詳しいが、寺山が劇団を作り、夢のような驚きの日々が始まるが、同時に「寺山の母」という不可思議な存在の翻弄されることになる。離婚以後も寺山姓を名乗り、やがて寺山の母の養女ともなり、著作権管理者となる。寺山と付き合ったことにより、女優はやめることになるが、一生を「寺山修司」という物語のプロデュ―サーとして生きたような人生になった。

 もう一人が葛井欣士郎(くずい・きんしろう、4月30日没、88歳)である。60年代、70年代の映画、演劇を語る際には落とせない人で、映画・演劇プロデューサーという肩書で報じられているが、それよりも新宿にあった映画館、新宿文化の支配人である。ここがアートシアター(ATG)の常設館で、1962年にポーランドの「尼僧ヨアンナ」公開以来、世界の芸術映画を続々と上映した。そのうち日本映画も上映するようになり、さらに自分で製作も始めて「ATG1000万円映画」というものを生み出した。この金額は当時としても低額で、その分監督の熱意とアイディアのつまった傑作、問題作が続々と作られた。やがて、上映館支配人だった葛井も、自分でプロデュ―サーに名を連ねるようになる。大島渚の傑作「儀式」、篠田正浩の「沈黙」以後の70年代の映画にはほとんど関わっている。だから当時の映画ファンは、ベストテンに入ったような映画を何本か見れば、自然と葛井欣士郎という名前を覚えてしまったのである。

 と同時に、葛井は新宿文化を映画だけでなく、演劇公演の場にも解放、映画上映後のレイトショーとして清水邦夫作、蜷川幸雄演出の問題作を続々と上演し、熱狂的な評価を獲得した。そのことは僕も新聞で知っていたけれど、高校生の頃だからさすがに見ていない。というか、新宿文化そのものに行ったことがない。ATG映画は見ていたけれど、日劇(今の有楽町マリオン)の地下にあった「日劇文化」が最寄駅から直通で行けるので、新宿には行かなかったのである。でも新宿文化の地下に作られた「蠍座」(さそりざ)二は何回か行っている。ここは演劇の他、美輪明宏や浅川マキなどの歌、あまり他ではやらない映画の上映などをしていたところである。葛井には「遺書 アートシアター新宿文化のすべて」(河出)という大部の本があり、非常に面白い。読んだけど、今どこにあるのか出てこないのが残念。新宿文化でやった全部の映画、演劇の詳細な情報が載っている。

 僕が子供の頃は、誰か有名人が死ぬと、テレビで「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と言う中村草田男の句が紹介されていたものである。その後、90年代頃からは、「戦争を知る人がまた一人いなくなった」と言われるようになった。ところで、最近の訃報を聞くにつれ、60年代、70年代を知る人がいなくなりつつあるのである。60年安保から半世紀以上たっている。今年は東京五輪から50年。直接関わった人が少なくなっていくのは当然だ。しかし、「高度成長」の光と影60年代末の世界的な「若者の反乱」と「文化革命」。それらを知ることなく、現代を理解することはできない。そう言う意味でも、九條、葛井両氏の訃報は、とても心に響く出来事だった。

 映画関係では、鈴木晄(すずき・あきら、4月17日没、85歳)の訃報があった。日活の名編集者だった人である。編集という工程はあまり意識されないけど、映画のリズムを作る非常に重要な作業だろう。「関東無宿」「執炎」などの僕の好きな作品を担当しているが、「嵐を呼ぶ男」とか「南極物語」、「セーラー服と機関銃」「太陽を盗んだ男」などもこの人。「お葬式」「マルサの女」などの伊丹十三映画もこの人の編集だった。日本映画アカデミー賞を6回獲った技術を誇る。

 海外ではアメリカの俳優ミッキー・ルーニー(4.6没、93歳)、イギリスの俳優ボブ・ホスキンス(4.29没、71歳)などの他、俳優ではないが映画「ザ・ハリケーン」のモデル、ルビン・カーター(4.20没、76歳)の訃報もあった。無実のプロボクサーとして、19年間獄中生活を送り無罪となった。ほとんど袴田事件と同じような構図で、袴田さんの支援もした。

 元日本銀行理事の緒形四十郎(4.14没、86歳)という名前にそんなに印象はなかったけれど、この人が緒形貞子さんの夫だった人。1985年の有名な「プラザ合意」に立ち会ったのだという。吉田内閣の副総理だった緒方竹虎の三男だった。

 4月はガルシア=マルケスを除き、大きく報道された訃報がない月だった。寒い冬が終わったということだろうか。僕が名前を知っていた人では、中華料理の周富徳(4.8没、71歳)氏がいるが、よく知っているわけではない。あまり知られていない人だろうが、篠塚良雄さん(4.20没、90歳)の訃報を最後に書いておきたい。この人は、千葉県に生まれ、同郷の石井四郎の作った関東軍第731部隊の少年隊員となったのである。その仕事ななんと細菌兵器を作るという仕事だった。少年時代の残虐な出来事を忘れられず、731部隊の出来事の証言活動を続けてきた。僕は「731部隊展」に関わった時に篠塚さんの話は何回か聞いている。誠実な人柄を偲ばせる証言だったと思う。アメリカでも証言しようとしたのだが、米国は戦争犯罪に関わったとして、入国ビザを出さなかった。自国の戦争犯罪隠ぺいを暴かれるのが怖かったのだろうか。日本の細菌戦は戦犯裁判で裁かれず、情報はアメリカ軍が独占し、朝鮮戦争では実戦にも使われたという疑惑がささやかれている。
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