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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

いじめ防止対策法はできたけど…

2013年12月28日 00時21分41秒 | 教育 (教育問題一般)
 いじめ問題に関する本として、尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」(岩波新書)が11月に出た。「いじめ」に関しては、2012年に「大津事件」が問題化し、2013年6月に「いじめ防止対策推進法」が成立した。過去30年ほどの間に「いじめ」をめぐって何度か重大な悲劇が起こり、その度にマスコミ等でも大きく取り上げられた。今回は初めて対策法が出来たわけで、画期的な出来事と言ってよい。尾木さんは、大津事件の第三者委員会に遺族側推薦で参加した。また当時の民主党政権下での「対策法」作成にも関わった。だから、今この問題を語るべきもっとも適任の人によるタイムリーなまとめの本。教師、教育行政関係者、あるいは子供を持つ親の必読本。

 対策法が成立した時に記事を書こうと思ったけど、まあやめておこうと思った。こういう法律は「ないよりはいい」「あれば役に立つ」という部分が当然ある。でも、それは使いようで、尾木さんは「(問題も課題もあるが)歴史的な意義は大きい」という考え。この法律は、自民党の政権復帰に伴い「復古的色彩」が強くなった。「保護者は子どもの規範意識の指導や学校の取り組みへの協力に務める」「学校は道徳教育や体験学習の充実を図る」「いじめた子には懲戒や出席停止措置をする」など。ここだけ見ると、何じゃ、これという感じだ。現場の意見を無視しているとして、共産党と社民党は反対した。

 法律では、教育行政にいじめ防止の研修や人材確保を義務付けた。また、いじめが発生したときに、学校に事実確認や被害者支援、加害者指導・助言を義務付けた。それらが法的根拠を持ったことが大事という考え方は当然あるだろう。だけど、尾木氏自身が書くように、「学校の多忙化」を解消しない限り、この法律自体が多忙化を促進し、法の形骸化を招く恐れも強い。この法で「いじめ防止組織」を各学校に作ると決められている。「複数の教職員、心理、福祉等の専門家その他の関係者」で組織される。僕はこの組織が形骸化し、多忙を促進し、やがてやっかい者扱いされ、書類上開いたことにするようになるのは間違いないと思う。そして、何か問題が起こった時に、「法で決められているのに形骸化させている学校の責任は大きい」と現場を責める道具に使われる。そうなることは目に見えていると思う。

 いじめ(に限らないが)を防止する学校の組織とは何か、それは学年団所属の教員で構成される「学年会」であり、校内で生活指導を担当する「生活指導部会」ではないのか。複数クラスがあれば必ず学年会がある。生活指導部は名前は学校により違うと思うが、どの学校にも必ずある。「学年会」「生活指導部会」が機能していない学校で、その他に「いじめ防止組織」を作っても、校内で機能するはずがない。この問題はこれ以上書かないが、教師が一番身近に話し合える学年会で、生徒の変容がつかめるか。大津事件では、いじめ深刻化の前に「クラスの授業の荒れ」があったと同書にある。この段階で対処できるのは、学年会と生活指導部会しかないではないか。

 ところで、この法律では「いじめをどう定義しているのだろうか」。定義しなければ、法律を作れない。法律の最初の方に以下のように書いてある。「この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいうこととした。」

 「児童等が心神の苦痛を感じている」「ネットいじめを含む」という点が評価できると尾木氏は書いている。「いじめ定義」は文科省にいじめ発生数を報告するために決められているが、1994年に変更されている。あまりに細かい話になって行くので、ここでは触れない。

 それより同書には、アメリカの事例が紹介されている。マサチューセッツ州のものである。アメリカでは教育は州ごとに法を作る。50州中49州でいじめ対策法があるという。なんと、アメリカは自由放任かと思えば、きちんと対処しているのである。かなり長いが、引用しておきたい。僕はこの定義は非常に優れたものだと思う。特に「所有物にダメージ」「学校内での権利侵害」「教育課程または学校の秩序を妨害」をいじめと理解するのは、なるほどと納得させられる。日本でも、教員の意識をクリアーにするためには役に立つ定義ではないか。

いじめの法的定義
 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返して行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

「いじめ」と定義される具体的な行動
①相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える。
②相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる。
③相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す。
④相手生徒の学校内での権利を侵害する。
⑤実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する。

特徴
①いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す。
②教職員はいじめの予防と介入的方法に関する研修を毎年受けなければならない。
③いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む。
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いじめ「報告件数」が多すぎる

2013年12月25日 00時18分09秒 | 教育 (教育問題一般)
 ちょっと前の話になるが、文部科学省が12月10日に2012年度の「問題行動調査」のまとめ結果を発表した。文科省サイトの「平成24年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果について」で見ることができる。翌日の各紙朝刊は一斉にこれを報道し、「いじめ認知19万8千件」と大きく報じた。2011年度は7万件ほどなので、3倍近くに増えたことになるが、もちろんこれは「報告が増えた」ということである。大津事件を受けて、緊急アンケートなどを行い「軽微ないじめの認知が進んだ」と一応考えられる。

 「一応」と書いたのは、都道府県により報告数の違いが多すぎるからである。それは各紙とも指摘してるし、表を載せている新聞も多い。でも新聞を取っていても見出ししか読んでいない場合も多いし、新聞そのものを読んでいない人も多い。ましてや文科省サイトを見てみる人はほとんどいないだろう。そこで簡単に紹介しておきたいと思ったわけである。僕も文科省の統計そのものをじっくり検討はしていない。一緒に「問題行動」として統計が発表されたのは、暴力行為、いじめ、出席停止、小・中学校の不登校、高等学校の不登校、高等学校中途退学等、自殺(学校から報告のあったもの)、教育相談の全8項目にわたっている。本来はこれを総合的に考察し、また学力テストの結果、さらに県民所得など他の数値も含め総合的に考える必要があるだろう。

 報告数の違いを九州を例にとって見ておきたい。九州各県は多少の経済的、文化的な違いはあるけど、まあ例えば「北海道、秋田、東京、大阪、愛媛」などとアトランダムに取り上げるよりは、社会的に似ていると思う。だから多少の違いはあるのは当然だけど、以下のようにあまりに違い過ぎるのは本来おかしい。小中高特別支援すべて含めた「1000人当たりの件数」を見ることにする。
 福岡(2.5)、佐賀(2.0)、長崎(12.5)、熊本(29.1)、大分(28.9)、宮崎(13.0)、鹿児島(166.1)
 
 いくらなんでも、佐賀県と鹿児島県で80倍もいじめ数が違うとはだれも考えないだろう。鹿児島県の前年は「2.0」で、佐賀県と同じ。鹿児島県は一年で80倍に増えた。これはいじめが増えたのではなく、「報告が増えた」わけである。新聞によれば、鹿児島県は各校ごとのアンケートではなく、「統一アンケート」を実施したという。一方、佐賀県でも前年は「0.6件」で、3倍に増えている。佐賀県は各校で教員の責任で判断しているという。「調査委員会」を校内に設置するなどして芽の段階でいじめをなくそうと努めているらしい。

 和歌山県では「0.9件」が「21.2件」と20倍に増えたが、県教委の指導主事が全高校と全市町村教委に行き、教員が「ささいな冷やかし」と判断したものもいじめに加えたという。(朝日新聞)つまり、簡単に言えば、「19万8千件」には「ささいな冷やかし」も含まれているわけである。もっとも「ささいな冷やかし」ならいいのかと言えば、そうは言えない。言えないけれど、教師側から見て「ささい」と見えるものが、本当に児童・生徒の心には「ささい」なのか「重大」なのかは、本人にだってよく判らない場合もあるだろう。それを「報告すべきか」「報告しなくてもいいか」は判らない。それは報告すべきだろうと思うかもしれないが、小さな事例にも大人が全部対応するのがいいのだろうかという観点もあるからである。人間がたくさんいればトラブルもおこりうるが、それを全部「上から」解決するのがいいのかどうか。この辺の機微は、判断が難しい。

 問題はその「判断の難しさ」を教員が共有していることであって、何かあったらすべていじめ、何でも報告というなら、それは「学びの場」というより、「行政官庁」になってしまうのではないか。2013年度以後の統計も見て行かなければならないが、「多い方に合わせる」、他県はあんなに多い、いじめが多いのは本来よくないはずだが、報告数が多いということは、教員の「いじめ認知」が多い、つまり「教員が熱心に取り組んでいる」、よって「いじめ件数が多い方が熱心に見えて評価される」などという本末転倒が起こらないことを望む。しかし多分、そうなって行くのではないかと思うが。校内に報告すべきいじめ事件が起こらないと、教員が困ってしまうなどという「カフカ的世界」は日本の学校では起こりそうな話である。

 なお、本当は校種別に考えるべきだけど、校種別の報告数はあるけど、「1000人ごと件数」が統一のものしか発表されていない。学校基本調査を参照して自分で計算すればいいわけだが、それは面倒すぎる。ここでは小中高特別支援すべて合わせて計算した数字で見ておくしかない。最後の報告件数が多い県、少ない県を少し挙げておきたい。(なお、いじめの問題は続けて書くことにする。)
多い県
 鹿児島(166.1)、奈良(47.8)、宮城(42.0)、山梨(35.9)、京都(33.9)、千葉(32.2)、熊本(29.1)
少ない県
 佐賀(2.0)、福岡(2.5)、香川(3.3)、福島(3.4)、山形・埼玉(4.5)、広島(4.6)
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「教室内(スクール)カースト」という本

2013年01月08日 00時26分00秒 | 教育 (教育問題一般)

 光文社新書の12月新刊、鈴木翔教室内(スクール)カースト」という本の紹介。この本は年末年始に読んでいて、データも多いしすぐ読み終わると思って読み始めたら、いろんなことを考えてしまい、案外時間がかかってしまった。「スクールカースト」という言葉は、最近よく聞かれるようになったが、その問題に関して生徒や教員の証言も含めて分析された本である。「教育社会学」という分類になると思うけど、今の子供社会の内情を探るために是非読んでおいていい本だと思う。著者は東大大学院の教育学研究科博士課程在学で、帯で推薦文を書いてる古市憲寿氏に続いて、光文社新書が送る東大院生の新書本。

 ただし、この本を読んでみて、僕は「スクールカーストは実在するか」という問題から検証していかなくてはいけないのではないかと思った。もちろん、初中等教育の学校では、生徒がグループで行動し、グループ間に「優劣のようなもの」が生じていることは、どこの学校でも同じだろう。アメリカの小説や映画なんかを見ても、アメリカンフットボールやバスケットボールの学校チームの一員と、モテない落ちこぼれ青年の差は限りなく大きいように思う。学習成績以上に、スポーツ能力「モテ度」コミュニケーション能力「押しの強さ」などで、発言力の大きいグループと従属的なグループが存在するのは間違いない。

 それが「スクールカースト」だと言われれば、そういうものは実在することになるが、単に生徒間に優劣があるということだけでは「カースト」とは言えない。「カースト」という以上、「ある種の身分制度」に近いイメージがある。簡単に出入りできたり、カーストの上昇や下降がひんぱんだったら、それは「カースト」というより「生徒番付」とでもいう方がふさわしいだろう。(なお、インドの「カースト制度」と言われてきたものは、地理や世界史の教科書では、今では「ヴァルナ」などと呼び換えられる傾向にある。カーストという言葉自体が、これからの生徒には理解不能な言葉になる可能性も高いので、別の用語が必要なのではないか。)

 僕が読んで感じた疑問をいくつか書いておきたい。データなどは貴重なので、本で読んで欲しい。どういう部活動が「上」で、どういう部活動が「下」に属すると思われているかなどというデータもあるが、書くには及ばないだろう。日本の学校を経験していれば、大体予測できる話である。で、僕が一番感じたのは、教室内のすべての行為を全部「上下」で理解してしまっていいのかということである。例えば、宿泊行事でバスに乗るとき、「上位カースト」が後部座席を取ってしまい、バス内レクなんかで盛り上がる。「中低位カースト」のグループは、前の方の席でおとなしくレクの指示に従っているというような例があがっている。

 でも、ではすべてのグループが後部席を望んでいるのか。おとなしめのグループでは、人前で歌うのも苦手の人も多いし、乗り物酔いしやすくてバスではそれが心配でおとなしくしている生徒も多い。バスは後ろから詰めて、前を空けて救護席にしたり、同行する看護師や添乗員が乗るスペースにする。担任も連絡事項があるから前に座る。前の方が安心できるという生徒がいても不思議ではない。単に「すみわけ」してるだけなのではないか。本書の記述だと、教室が「弱肉強食」の世界に見えてくるのだが、そういう要素もあるかもしれないが、僕は今西錦司的な意味で「すみわけ」している要素も大きいと思ってきた。

 単純に動物生態学の考えを流用するのは好ましくないかもしれないが、宿泊行事の班分けや部屋割りにも同じことが言える。この本では、上の生徒からグループで班を作ってしまい、グループ人数が偶数で、部屋割りで奇数の場合、カーストの上から順に決まっていくとされている。しかし、低位グループでも仲間どうしで先に組んでしまって、上位グループが引き抜くことはできないだろう。「カースト」間には「生きる力」の差があるかのように語られているが、「低位」生徒の班や部屋でも行事では班長や部屋長が必要であり、選ばれたリーダーは大体立派に役割を果たす。教室内には一見上下があるように見えても、下には下なりのリーダーシップがあって、学校内の秩序が保たれているように思う。

 また「カーストと進路活動」という分析がなされていない。学校に行くのは、進学や就職に有利であるという事情が大きい。高校では、大学への指定校推薦や就職への学校推薦がある場合がある。もし希望者が複数いた場合はどうなるだろう。「カースト」が上位の生徒から推薦されるのだろうか。もしそうだったら、「上位カースト」に在籍することは学校生活で一番重大な意味をもっていることになる。でも、そんな学校はどこにもないだろう。「モテ度」なんかは考慮外で、おとなしくてもマジメに休まず登校しているかなどが重視される。もちろん一番は成績そのものである。成績が上の生徒が優先されるのであって、「カースト」に関係しない。従って生活場面では「カースト」に意味があっても、実際の進路活動には影響しない。高校入試でも同じ。

 「そうじ」の場面。教員のインタビューで「強い生徒」がほうきを取ってしまい、「弱い生徒」が雑巾などに回ることが多いというのである。僕はこの理解が判るようで判らない。ほうきをさっと取るのが「強い」と言えば言えるが、要するに「楽をしたい」のである。雑巾の生徒は「弱い」のかもしれないが、誰かが雑巾に回る必要があるし、担当場所をきれいにしたいから自分で納得して雑巾で拭いているのではないか。このような雑巾を担当する生徒こそ「クラスの宝」であり、三者面談なんかの機会にほめてあげるし、逆に「楽をしたい」生徒の親には「家でもお手伝いなどをさせてほしい」と伝える。それが担任の仕事だし、僕はそう思って面談してきた。雑巾生徒と一緒に担任も雑巾がけをして仲良く話を聞けば、いろいろ真面目に考えている声が聞こえてくると思う。

 それでも「何の声もあげない」「コミュニケーション能力不足」の生徒も確かにいる。が、その場合は「考えを述べない」のではなくて、「考えをまとめられない」「きちんと伝えられない」というケースを考えた方がいい。それは「発達障害」である。「スクールカーストと発達障害」という考察が欠けていることは大きな欠点であると僕は思う。

 この本で取り上げられている生徒や教員はかなり偏りがある。タイに修学旅行に行って半数が腹を壊しカースト崩壊という話が出てくるが、どこにそんな高校があるのか。9年間同じ顔ぶれとか、そういう「固定度」が高いケースが多いように思う。確かにどこでも生徒グループ間の優劣があると思うけど、公立中学、公立高校ではもう少し別の様相もあるのではないかと思う。ただし、学校である以上、「学校行事」などの重要性は存在する。ダンスコンクールが大行事で、学年を超えて創作ダンスをつくるという学校の例が出ている。ダンスが得意で、リーダー性もある生徒が仕切って、身体を動かすのが苦手な生徒が命令されて怒られるという話だけど、それが「順位のつく学校行事」であれば当然そうなるだろう。

 クラス対抗球技大会でバレーボールをすれば、バレー部が仕切って、サーブも入らないヘタな生徒は休みたいだろう。それを「カースト」というかどうか。どうも僕にはよく判らない。ただ、「カースト」の下の生徒が「生きる力」も低いというのは、どうも理解できない。これからの議論のベースになる問題作だと思うので、多くの若い人や教師に読んでみることを勧める。学校での嫌な思い出を思い出してしまう人も多いだろうから注意も必要。なお、この本の教師の語りは、何とかして欲しかった。こういう風に話したんだろうけど、本にする段階で直して欲しかった。また若い教師自体が、高い倍率の中を選ばれただけあってか、「カースト上位」生徒だった人が多いのではないか。それは仕方ないけど、小説、映画、マンガなどを自覚的に読んでいく必要も大きいと思う。

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「セクシャル・マイノリティ」の授業

2011年06月08日 23時39分35秒 | 教育 (教育問題一般)
 布川事件の無罪確定。判ってたけど、良かった。来週火曜日、14日夕方18時~20時半に、東京霞が関の弁護士会館2階講堂で、日弁連主催の布川事件シンポジウムがあります。

 さて、今日は六本木高校の「人権」の授業へ出かけました。4年間講演をお願いして、今年で5年目。今年も最初は僕が連絡したので、行かないわけにはいかない。テーマは「性的マイノリティの人権」。講師は、平良愛香さん。相模原の教会の牧師だけど、同性愛をカミングアウトして、性的マイノリティのための人権啓発の活動をしてます。毎年思うけど、人生編と理論編の結びつきが素晴らしく、生徒が納得し、共感して聞いてます。そのうちに背景にある理論的な問題、他の少数者の人権問題、世界の性的マイノリティなどに、自然と目が開かれ、「勉強する」ことの面白さ、大切さも考えさせてくれます。

 性的マイノリティの問題は、とても深く、大切な問題だと思います。是非、多くの学校でも平良さんをお呼びしてはいかがでしょうか。六本木高校、あるいはその前の夜間定時制時代に性同一性障害の生徒を何人か知りました。きっとそれまでの学校にもいたかもしれないけど、気づかれないように隠れていたのかもしれないと思います。今日はしばらくぶりに会えた卒業生もいたし、とても良かった。

 平良さんの授業風景と、そのあと演劇部(元?)の生徒と食べたケーキ。
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学校と会社の仕事はどこが違うか

2011年03月31日 21時41分13秒 | 教育 (教育問題一般)
 ちょっと難しい話を続けていますが、今日で一時おしまい。もう少し。
 「金八先生」に関して学校は組織で働くと言い、一方昨日は生徒と教師の関係は組織では動かないと書きました。

 どういうことでしょうか。それは学校の「平時」、普段の授業や部活が毎日続いているときは学校の組織性は隠れていて、教師や生徒の様々な人間関係の方が目につくのです。一方、平時ではない「特別な時間」になると、学校の組織性が表に出てきます。たとえば、生徒が大きな事件を起こしたとか、絶対にミスがあってはならない入学者選抜の時とか…です。

 現在は年度代わりの春休みです。教師の転勤等があり、新しい先生を迎えて、新しい時間割が作られ、新しい部活顧問が決まります。こういう時は学校の組織性が全面に出ている時期ですね。
 誰かが時間割の案を作り、誰かが部活顧問の案をつくる。だから、生徒が始業式、入学式を迎えたあとに、スムーズに学校の日常が開始されていくのです。

 要するに学校も社会の一部である以上、先生たちは分業で仕事をするわけで、会社で営業や経理や総務など分業しているのと同じです。そこだけだったら、「学校も会社と同じ」。だから、人事管理や昇給も会社と同じでいいわけです。

 しかし、学校ではそれは「裏の仕事」であって、授業や行事や部活動などの生徒との関わりという「表の仕事」があります。

 この「表の仕事」に関しては、初中等教育では生徒が教師を選べないので、教師の指導力が重要なのはもちろんです。しかし、ただ「指導力」だけを取り出して育成強化しようとすると、「自分は頑張っている」という教師の側の努力についていけない生徒が挫折する「指導力過剰教員」問題がおきます。

 教師をバラバラにして、昇給などで競わせれば学校はよくなる、というような発想がうまく行かない原因はそこが認識できない点にあります。民間企業と同じような人事管理をしていったあげくに、全然効果が上がらず、書類仕事が激増した分、生徒と教員の関係性が壊れかけています。それが、現在の日本の教育界ではないでしょうか。

 ではどうすればいいか?そんなに簡単に答えがあるはずがありませんが、たぶん多くの現場教員が望んでいるに違いないことが二つあります。

 一つは、現場裁量を大きくすること。生徒のことを考えて先生たちが工夫した行事の案が、管理職からストップさせられる、というようなことがあれば、誰もマジメに意見をいう気がなくなります。実は現在の学校ではこういうことが多すぎて、話し合いが成立しなくなっているところも多いと思います。
 
 もう一つが、自主的な研修の拡充です。「指導力」は目に見えるものばかりでなく、氷山の下の「見えない指導力」があるのです。それを支えるのが、旅行や文化、スポーツ体験、読書、ボランティア活動、家族や友人との関係などだと思います。今は夏休みの自主的な研修がほとんどなくなり、教師の「見えない指導力」が減少している恐れを感じます。

 さて、長くなりました。この指導力の問題や学校という職場の現状は今後も折に触れ書いて行きたいと思っています。今日はここまで。

 ところで、この数日間、学校の片付けで手一杯。何とか最終日に片付け終了。今度は家に持ち帰った分を「断捨離」しなくては。ということで、明日、また。 
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学校は「リゾーム」(地下茎)である

2011年03月30日 21時33分19秒 | 教育 (教育問題一般)
 昨日は、指導力不足教員より、むしろ「指導力過剰教員」が問題なんでは、と書きました。
 その通りだと思っているのですが、これだけでは実は不十分です。なぜなら、指導の対象である生徒を抜きにして、「指導力」だけを取り出して、指導力があるとかないとか言うことは実はできないのです

 つまり、ある先生はある科目の時には分りやすい授業をするけど、ほかの科目の時は不得意そうで、クラス担任になったら頼りになる先生だったけど、部活顧問としては「イマイチ」だった、とか。「指導力」は学校の様々な場面で様々な発露をしていくもので、生徒との「関係性」の中でしか発揮されません。

 だから教師の側の「指導力」だけを強化しようとして、学校外で研修したり、面倒くさい書類作りをいっぱいさせるのは逆効果になります。研修や講習に時間が取られる分だけ、生徒理解の時間が減って、教師と生徒との関係性は弱体化していくわけです。

 学校というところは不思議なところです。金八先生の話で、学校は組織で動くと書きましたが、教員の仕事はそうなんですが、生徒と教師、生徒と生徒の関係性は組織的には動きません。
 いや、やはり生徒のことは学級担任(学校の組織の役割)が一番理解していることが多いと思いますが、それでも他の教科の教員に話に行ったり、部活の顧問に悩みを相談したり、保健室なら登校できたり、図書室の司書が一番よく話を聞いていたり…というようなことは、実によくあります。さらに、事務、用務、警備員(今はいないけど)、給食調理などの人と関わりがある場合だってけっこうあります。

 生徒に関する思わぬ情報は、生徒本人から相談があるというより、むしろそういう様々な接点を持ついろんな教職員から入ってくることが多いと思います。
 見回り中にタバコで捕まえたとか、部活でトラブルがあったとか、保健室に話に行ってクラスでの悩みを打ち明けてるとか…。それ以外でも、いろいろな生徒との雑談の中で、学校の教職員は様々な人間関係の微調整をやり続けています

 妙に耳聡い、目聡い教師が学校に一人くらいはいるもので、生徒の誰と誰が付き合ってたけど最近別れたらしいなんて情報をたくさん持ってます。生徒が最近元気なかったりすると、職員室で雑談してるときに、「振られたばかりなんだよね」なんてズバリと言う先生がいたりします。

 学校は、そこに通う生徒と、そこで働く教職員が絡み合う人間関係の網です
 インターネットをワールドワイドウェブ(世界規模の蜘蛛の巣)と表現するなら、学校は「スクールワイドウェブ」(©尾形)と言ってもいいでしょう。

 哲学用語を引用して考えるなら、まさに「学校はリゾームである」と言えます。
 リゾームというのは、ドゥルーズ、ガタリによって唱えられた、ヨーロッパ近代思想史を塗り替える概念ですね。ドゥルーズもガタリもすでに10年以上前に他界して「ポスト構造主義」さえ古びた感もありますが、実際の学校や生徒の行動を理解するときに「リゾーム」(地下茎)や「ノマド」(遊牧民)という概念は有効なのです。

 生徒間の絶えざるグループ編成と崩壊と再編成…及びその際の不思議な人脈関係はまさに「ノマド」というしかないです。
 そして、様々な人間関係が絡み合い、中心を持つようで持たない、いろいろなところでつながっている関係は、地下茎という比喩が一番ピッタリくるんじゃないでしょうか。

 で、今日は学校論でおしまい。しかし、今日の文章だけでも学校をピラミッド型社会にする試みや、教師の研修を強化したり、教員免許を更新制にするのが、ただ間違っているというに止まらず、むしろ学校の教育力を損なうことになるのかが分ってもらえるのではないかと思います。

 毎日、字ばっかりです。長いし。長い文章書くの大好きですから。
 4月になったら、画像も載せると思うので、もう少しお待ちください。
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学校は組織で動くー「金八先生」を見て思ったこと

2011年03月28日 22時41分34秒 | 教育 (教育問題一般)
 「金八先生」がラストということで、昨日4時間スペシャルをやってました。全部見てるわけにもいかないけど、ブログ書きながらもなんとなく見てました。

 基本的な感想は「最後までちょっと困ったドラマだったなあ」というものです。
 大体ドラマの中の学校というのは、とても現実の学校とは思えないようなことが多いんですが。

 もっとも僕はほとんど見たことがないので(テレビドラマはほとんど見ないし、始まった当時は学生で金八にはほとんど家にいなかった)、あまり本格的に批判する資格はありません。また、脚本家の小山内さんは基本的に善意で書いてるのは間違いないし、特に性同一障害について社会に知らせた意味は大きいと思います。そのシリーズに協力したことで知られる虎井まさ衛さんを「人権」の授業にお呼びしたこともあるし、その時はTSUTAYAで金八先生のDVDを借りてきて授業で見ました。

 昨日見ていて思ったことは、この学校は組織で動かないのかなということです。こんな学校は日本中どこにもないでしょう。学校というところは、法律で設立された長い歴史を持つ組織で、公立学校もお役所の一つです。(いいとか悪いとかの問題ではなく。)

 従って、大事なことは「ルール」「会議」「先例」などで決まっていきます。昨日のドラマでは、「問題生徒」を受け入れるべきかどうかが、職員室での金八先生の演説で決まっていきます。あれって、何?
 もちろん、反対している先生もいたけど、あれほど重大な問題を会議室で話し合わない学校はないでしょう。

 ドラマの中の問題は生活指導上のことだから、担任の金八先生が指導原案を出すのもおかしい。生活指導部でまず事情聴取して指導案を作るはずです。担任がやると、まさに金八先生がそうであるように、実力のある先生のクラスはいいですけど、そうじゃないクラスもある。あらゆる問題で完全に同一歩調の指導をすることは不可能だし、またそれほど大きい問題でなければ先生ごとの多少の指導の違いもあっていいと思います。
 しかし、いじめ、暴力、飲酒喫煙などの問題は、学校として同一の指導が必要だから、どの学校でも生活指導部が中心となって決めていくはずです。生徒への申し渡しは大体生活指導主任が行います。

 今度のドラマの場合だったら、対教師暴力なので、事件内容の把握をしっかりするとともに、暴力は何があってもいけないというのが学校のスタンスですから、謝罪プログラム抜きの教室復帰はありえません。高校と違って中学では退学処分はないけれど、校長室登校などから始まるのではないでしょうか。
 担任の「思い」で指導案ができてしまうのは問題で、校長の責任です。

 また、3年B組という以上、A組があるはずで、あと何組まであるかは知らないけど、副担任を含め、3年生なんだから数人の学年団があるはずです。学年会はしないのか。当然、学年の問題は担任個々で対応するのではなく、学年会でよく話し合って学年で統一してすすめるはずです。

 こういうドラマを見ていると、教員個々が頑張れば学校が変わるような描かれ方をしています。だから、学校に不満を持った時に、教員個々が頑張っていないからだという批判をするような人が出てきます。また、個人で頑張っちゃう先生が出てきたりする。

 これは困ったことだよなあ、と思うわけです。
 しかし、生徒を自宅に引き取っちゃうなどという、絶対あってはならない指導が平気で行われている以上、あまり目くじらたてずにファンタジーと思っていればいいのかもしれませんね。

 また、最後に今までの卒業生を呼名する場面、確かに感動的なんですが、なぜ金八先生だけ同じ学校にずっといられたんだよ、と思ってしまいました。ちょうど金八先生が始まったころから強制的に異動させるルールが徹底されてきて、長く夜間中学や日本語学級で働いてきた先生が強制的に他校に転勤させられたりしてきました。
 足立区の広報に金八スペシャルの特集がありましたが、確かにあそこの学校は東京都のはず。いやあ、現行の異動要綱に対する小山内さんの批判かもしれませんね。しかし、都教委の人が見れば、同じ学校に長くいると金八先生みたいに昔の話を持ち出して校長より力を持っちゃう先生が出てくる。やっぱりどんどん先生を転勤させちゃう都の異動方針は正しいんだ、と思ったことでしょう。

 「組織で動く」などというと、決まりきったことをやってるだけのようなイメージがあるかもしれませんが、そんなことはありません。学年会がきちんと機能していれば、みんなの意見でどんどん盛り上がり、新しいこともどんどんできるはずです。
 自分が今まで経験した学校では、大体自由闊達な意見交換を行い、楽しく仕事をしました。組織でやるというのは、どんな行事も生徒指導も皆で力を合わせないと成功しないのだから当たり前です。

 生徒を卒業させてからも、学年の先生たちで集まったりする学校ばかりでした。
 僕は生徒と同じくらい同僚の先生に恵まれて仕事をしてきたと思っています。

 僕は、これから現実の学校の姿を発信していきたいと思っています。そうでないと、教育に関する間違った政策(教員免許更新制度のような)ばかりが、出てくるからです。東京都のように。 
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現場を責めないということ

2011年03月21日 20時01分32秒 | 教育 (教育問題一般)
 震災報道を見ていて、少しずつ「責める論調」が多くなってきたように思います。
 特に、福島原発関連の報道では、今まさに危険をかえりみず危機に対応する人々がいるときに、責任者出てこい!的な論調もあるように感じます。

 しかし、現場の人々は懸命な努力をしているはずです。まだ東北の多くの地区で、停電、断水等が続いているようですが、復旧に向けた作業が継続中のはずです。「はずです」で、具体的には知らないけれど、今までの災害時の対応から、そう信じられるのです。

 救援が遅いという人もいるけど、まだガレキの中に多くの遺体が残され、行方不明者が膨大な数にのぼるという想像を絶する災害規模でした。普段でも行きにくいところで、道路が寸断された中、従来の支援活動にない多くの避難所があります。それでも一週間もたたずに、仙台港、釜石港、宮古港が復旧しました。恐らく関係者の不眠不休の尽力があったのだろうと思います。

 地震発生日の朝日新聞朝刊は、菅首相に「外国籍の人からの献金があった」と報道しました。特別永住資格のある在日韓国・朝鮮人を、一般的な外国人扱いして非難してよいのかと思いますが、その問題はちょっとおいて。前原前外相が辞任した直後です。まさに菅内閣は追い詰められていました。

 だから、今まで反民主党の論陣を張っていた立場の人は、つい内閣を批判したくなるのもわかります。でも僕は、今は首相も官房長官も「現場の人」だと思うから、批判はしません。
 原発の検証はやがてするべきですが、今は東京電力の個々の対応を批判しません。

 「現場を責める」ということの弊害は、大きく二つあります。一つは、冷静な論議を封じ込めることで、将来の検証の場を閉ざすこと。日本では、時間がたってからの検証がほとんどありません。国政の最高機関である国会こそ、しっかり検証すべきだと思いますが、「阪神淡路大震災」も「オウム」も検証されませんでした。諸外国で行われている「イラク戦争」の検証もまだ行われていません。(まだというのは、岡田元外相は、検証の必要性は認めていたので。)

 検証すべき時には、次の責める対象を見つけて大騒ぎしているからだと思います。
 こういうことをしていると、「その場しのぎ」の発想ばかりになり、(政府や企業の幹部ばかりでなく、全部の)人間は歴史の中で裁かれるのだということを忘れてしまうでしょう。

 もう一つの弊害は、何かあったときに、現場が責められないようにということだけを行動の基準とし、平時のルールを墨守し、臨機応変の対応ができなくなるということです。
 そして、そうやって責められない対応だけうまくなった人物が、マイナス点が少ないという点で、リーダーシップもないのに出世していくということが起こります。

 こうして、日本ではどこの世界でも「小人」が跋扈(ばっこ)する社会になっていったのです。

 これは政治の世界の話をしているのではありません。

 学校に問題が起こるたびに、学校現場を責める声がマスコミで発せられ、それに対応して教育行政や管理職が守りの対応だけ強めていく…ということをずっと見てきました。
 教育に関しては、全国民が一家言あるでしょう。何かあるたびに、昔の学校は、昔の先生は…と言ってくる人がいるのでしょう、きっと。一般市民ならともかく、それが地方議会の議員だったりすれば、行政も対応せざるを得ません。で、くだらない通達や調査ばかり増えていくわけです。

 学校には、それはいろんな先生や生徒がいるでしょう。でも、大体は普通にきちんと仕事してるんじゃないでしょうか。信じて任せて、手を携ええて一緒に学校作りをしていくべきです。

 同じように、自衛官や警官や消防士にもいろんな人がいるでしょう。東電社員にもいろんな人がいるでしょう。被災した地方の役場にもいろんな人がいるだろうし、避難所にもいろんな人がいるでしょう。
 でも、大方は家庭にいれば「フツーにいい人」で、今は危機にあたって懸命に活動している人だろうと思います。

 僕は直接今できることはない。だから、信じて任せて応援するしかありません

 むろん、そのことと、たとえば福島原発で最悪事態を想定することとは矛盾しません。最悪の事態を想定する冷徹な頭を持ちつつ、信じて応援していくということです。
コメント (1)
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