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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教科書のリアルな役割ー中学歴史教科書問題②

2020年08月30日 22時39分26秒 | 教育 (教育問題一般)
 教科書は何のためにあるのだろうか。授業に当たっては「教科用図書」を使用しなければいけないと学校教育法で決められている。もともとは学校ごとに決めていたものが、教科書無償制度(1963年から学年進行で実施)の実施とともに「採択地区ごとの採択」に変えられた。

 ちなみにユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1965年)には「教員は、生徒に最も適した教具及び教授法を判断する資格を特に有しているので、教材の選択及び使用、教科書の選択並びに教育方法の適用にあたって、承認された計画のわく内で、かつ、教育当局の援助を得て、主要な役割が与えられるものとする」と書かれている。専門職である教員の意向を聞かずに教育行政が教科書を決めるシステムには問題があるわけである。

 それはそれとして、実際の教科書にはどんな意味があるのか。あるいは中学校の勉強は何のためにするのか。タテマエではいろいろ言えるけれど、現実の中学教員なら「高校受験」を無視できない。もちろん受験のために勉強があるんじゃないとは言うけれど、ほとんど全員に関係する高校受験を無視して中学教育を語れない。

 中学の社会科は1・2年で地理と歴史、3年で公民をやるので、受験勉強時には歴史の授業はない。私立希望なら3教科でいいが、公立高は大体5教科だ。公立希望者は歴史の基礎知識を復習しないといけない。学習塾に行けない生徒もいるわけだから、教科書や教科書準拠の問題集の役割は大きい。だから現場的には「高校受験に役立つ教科書」がいい。

 小中の教科書は基本的に基礎自治体(市町村)ごとに設置された教育委員会が行う。(小中学校は基礎自治体が設置するものなので。)しかし、公立高校はほとんどは都道府県立である。「高校受験に役立つ」と言われても、どの教科書も基本は学習指導要領に規定されるので大きな違いはないはずだ。だが「不利にならない」教科書ならあり得る。それは「近隣市町村と同じ教科書」にすることだ。そういう意識もあるのか、近年は東京書籍の寡占化が進んでいる。前回は歴史、公民ともに5割を超えていて、恐らく今回も圧倒的にトップのシェアになると思われる。
(東京書籍の歴史教科書)
 それが望ましいと思うわけではないのだが、そういう現実がある。しかし、教科書専門他社もそれぞれ工夫があるわけで、一定の採択(10%程度)は確保する。教科書は価格が統一されていて、中学歴史の場合は775円と決まっている。よく「教科書はつまらない」「もっとエピソードを多く記述して面白く読めるようにして欲しい」などという人がいるが、税金で支払う教科書代を大きく増やさない限り不可能である。それでも最近の教科書を見たことがある人は、カラーグラビアがいっぱいで驚くだろう。文庫本程度の値段で出来るもんじゃないと思う。僕は教科書の採算分岐点を知らないけれど、多分教科書だけで採算が取れる会社は東京書籍ぐらいじゃないか。

 じゃあ何で教科書会社が存在できるのか。それは「指導書」や「問題集」があるからだし、教育雑誌などもあるからだと思う。つまり教科書じゃなくて、問題集などがメインの商品なのである。中学教師の多くは副教材として、教科書準拠の問題集を買うことが多い。休暇もあれば出張もあるし、「ハッピーマンデー」のせいで各クラスの授業時数に差が出来る。生徒にやらせておける問題集は必須のものだろう。そういう副教材の充実度は、長く教科書作成に携わってきたの方が圧倒的に高い。僕は全然知らないけれど、扶桑社や育鵬社、自由社はどれほど教科書以外のサポート態勢が出来ていたのだろうか。

 また社会科は新知見が多い。政治経済はもちろん、地理や歴史も新しいニュースがよく報道される。そういう新教材も教科書会社がまとめて送ってきたりする。東京書籍などはやはり充実していて、使ってない学校にも配布してくれる。地理では圧倒的にシェアが大きい帝国書院の世界各国の情報なども授業に役だった。「どこの教科書でも同じ」と様々な意味で主張する人もいるが、学校現場からすればそうではない。もちろんイデオロギー的な問題もあるけれど、各教員へのフォローアップ態勢が実際は大きな意味を持っている。

 今回は「コロナ禍」の中の採択となった。育鵬社の採択が減ったのは教育委員の顔ぶれが変わったと言った要因もあるだろうが、それだけでもないと推測している。要するにオンライン授業などでの使い勝手の悪さがあったのではないだろうか。教科書専門会社は学校ごとに細かく回っていたものだが、コロナ禍でそれはできない。しかし、デジタル教材などの案内が育鵬社より明らかに充実していると(ホームページを見る限り)思う。多分それだけでなく、いろんな新工夫を提供しているのではないか。そういう意味もあって、また学校閉鎖、オンライン授業になっても使いやすい教科書、という選択もあったのではないだろうか。
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中学歴史教科書問題とは何だったか①

2020年08月29日 23時18分09秒 | 教育 (教育問題一般)
 中学教科書の新採択年ということで、今年の夏に各地で採択が行われた。21世紀になってから、ずっと中学社会科教科書の採択をめぐって問題が起きてきた。しかし、今まで右派系教科書を採択してきた東京都教委や横浜市、大阪市などが今年は他社に変更した。横浜、大阪は行政規模が大きく、前回は両市だけで4万冊以上になった。今年もいくつかの採択地区で育鵬社が採択され、私立中学でも採択されるだろうが、前回のシェア約6%を大きく割り込むことは間違いないだろう。一体、この「中学歴史教科書問題」とは一体何だったのだろうか。

 中学の歴史教科書問題を振り返ってみる。2001年に「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)執筆による扶桑社の「新しい歴史教科書」が登場した。その時は大々的に市販して、大きな話題となったものだ。その後、公民教科書も作られたが、2005年の採択が終わった後で「つくる会」が分裂した。その後は「教科書改善の会」系の「育鵬社」(扶桑社の100%子会社)と「つくる会」系の自由社と2つの右派系教科書が存在している。しかし、自由社は今までもほとんど採択がなく、今年は歴史が検定で不認可となった。
(2001年の扶桑社歴史教科書)
 今まで何回も保守政治家による教科書攻撃が起こってきた。その問題は別に考えるが、「新しい歴史教科書をつくる会」は教科書を攻撃するだけでなく、保守派にとって望ましい教科書を自ら執筆しようという新方針を打ち出した。その事がどういう意味を持つか、政治的な意味は検討しただろうが、教育的な意味はほとんど考えられていないと思う。教科書は自由に出版できる商品ではない。文部科学省の検定を受けて合格しなければ出せない。さらに小中は採択地区ごとに教育委員会による採択が行われる。出版物でありながら本屋で自由に買えない。

 「採択」は8月末までに行われる。それは学校ごとに選べる高校でも同じである。どの教科書を選んだかは文部科学省に報告される。その集計を受けて、各出版社が必要部数を印刷するわけである。転校で学期途中に必要になる場合もあるが、教科書はほとんど学期初めに買うものだ。小中は無償だから、買うのは教育委員会であって各校に配布される。各社が自由につくる商品でありながら、価格は共通に設定されている。普通の意味での自由競争が働かない商品なのである。そういう特別な商品であるという自覚が執筆者側にどれだけあっただろうか。

 教育的側面は次回に詳しく書く予定で、今回は政治運動としての側面を振り返りたい。そもそもの発端は東大教授だった藤岡信勝氏の「自由主義史観研究会」にある。1991年の湾岸戦争では「自衛隊の貢献」議論が行われ、冷戦終結以後の新しい世界認識を問われた。その後に「転向」した人はかなりいるが、藤岡氏もその一人でそれまでは共産党系の教育学者だったということだ。そして「大東亜戦争肯定史観」とも「東京裁判史観」とも違う「いずれにも与しない史観」を「自由主義史観」と名付けた。四半世紀前は「左翼」と「リベラル」は反対概念だった。
(藤岡信勝氏)
 しかし、これは歴史学に疎い外部からのトンチンカンな論難だろう。「東京裁判史観」なんてものはないし、もしあえて言うならばサンフランシスコ平和条約(東京裁判の結果を受諾する条項がある)に基づく戦後政治をつくってきた「日本政府」の歴史観ということになる。しかし、日本の右派政治家は常に戦前を美化し、軍隊を持てない戦後日本を非難してきた。そして「日本国憲法」を敵視し、大日本帝国の戦争責任を追求した東京裁判を非難してきた。

 そして1990年代半ばに日本社会も大きく変わった。アジア諸国の経済成長に伴い、日本内部でも近隣諸国との戦争認識の違いが問題になった。そして1993年の「河野官房長官談話」、1995年の「村山首相談話」が出される。1993年に自民党内閣に代わって、日本新党などの連立による細川護熙内閣が成立した。細川首相は戦没者追悼式典で日本の「侵略」を初めて認めた。以後、2012年末に復活した安倍晋三内閣まで、基本的に首相は日本の戦争責任を認めて謝罪するようになったのである。

 左右に与しないはずの藤岡氏も、「東京裁判史観」などと言ってるうちに、どんどん右傾化していった。1996年12月に藤岡氏と西尾幹二氏が中心となり「新しい歴史教科書をつくる会」が作られ、産経新聞の「正論」に執筆している右派系論客が数多く参加した。そして産経新聞の子会社である「扶桑社」が教科書発行を引き受けた。つまり、「教科書」は一つの象徴のようなもので、本質は「歴史修正主義運動」の連合体と考えた方がいい。教科書「改善」と並んで、彼らの目標は「教育基本法改正」だった。その先には「憲法改正」があるのはもちろんである。

 「教育基本法改正」は言うまでもなく2007年の第一次安倍政権で実現したので、右派系の教育運動はずいぶん前に「成果」を挙げていたわけである。そして第二次安倍内閣で「道徳の教科化」も実現した。社会科教科書への右派系の熱が落ちていた一因はそこにもあるだろう。また当初「つくる会」系の人々は、中学歴史教科書に「慰安婦問題」の記述が入ったことに特に「危機感」を表明していた。歴史認識と同じぐらい「性教育」を敵視していたのも、家父長制的性感覚が背景にあるのだろう。つまり、「教科書問題」とは言うものの、本質は歴史修正主義運動だった。採択反対運動も政治化せざるを得ないが、「向こうが始めた」という思いで「教育に政治を持ち込まないで欲しい」と思っていた。その意味については次回に回したい。
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消費税15%が必要な「9月入学」

2020年05月25日 22時15分12秒 | 教育 (教育問題一般)
 「9月入学」について、今まで2回書いた。「9月入学への4つの疑問」(2020.4.28)と「『9月入学』は『コロナレガシー』なのか?」(2020.4.30)である。それから一ヶ月経って、文科省は検討対象を「2つの案」に絞った。また民間から様々な財政負担の推計も出てきている。大事な論点は最初の記事で示してあるが、自分では気付かなかった論点もたくさんある。ここでもう一回論じておきたい。
(文科省提示の2案)
 恐らく最初に「9月入学」を言い出した人たちは、「今の学年をそのまま9月に移行する」ことを想定していたと思う。特に大学や大学受験を意識した進学高校関係者には、そのような発想が多い。しかし、義務教育じゃない大学は本来二次的な問題である。義務教育である(国家が責任を持つ)小学校中学校の教育のあり方をどうするかという議論が一番重要だ。そして、「そのまま学年を移行する」案はなくなった。当然だろう。それでは義務教育開始年齢が7歳5ヶ月になり、他国に比べて異常に遅れてしまう。世界ではむしろ「義務教育開始を早める」国が多い。

 はっきりしたのは、「9月段階で6歳を迎えた児童」(翌年8月末までに全員が7歳となる)を小学生にするということである。ただし、一度に受け入れる第1案では小学1年生が「1.4倍」ぐらいに膨らむ。教員も教室も不足するし、その学年は年齢差が大きくなる。後々受験も大変になる。だから、一年ごとに「4月生まれ」「5月生まれ」…と受け入れ対象を広げていき、5年掛けて移行するのが第2案である。その場合、一年ごとの財政負担は少ないけれど、結局同じ額を5年間に分割するだけだ。その間、待たされる子どもたちはどうなるのか。そこで小学校に「仮入学」させて「ゼロ年生」を作る案も出てきた。
(ゼロ年生案)
 しかし、ゼロ年生を作ったら、教室や教員(必ずしも「教員」じゃなくてもいいだろうけど)を増やす必要があることに変わりない。要するに、どのような方策を取ろうが、「9月入学」実現には莫大な財政支出が必要になるのである。それは一体、どのぐらいだろうか。日本教育学会が22日に示した提言によると、財政・家計の新たな負担額は6・5兆円にも上るという。以下で触れるように、他にも社会の負担は大きいと思われる。今はまず、新型コロナウイルスで巨額の財政支出が必要である。来年度は法人税の落ち込みも予想される。どこからこの巨額の支出をひねり出してくるんだろうか。

 6.5兆円と言っても、家計負担分が2.5兆円になるらしい。そうすると財政の新負担は4兆円になる。そのうち私立学校への補助金増が2兆円になる。私学は出願料・入学金・授業料の入金が5ヶ月遅れるが、それは国策による負担だから国が補助する必要がある。他に教員増員分教室整備分などがあるが、他に予想以上に待機児童が増える試算がある。また後で書く税収減を埋め合わせないといけない。大まかに言って「5兆円」を何とかしないといけない。それを消費税でまかなうとすれば、消費税1%がおよそ1兆円になるので、消費税を15%に上げないと捻出できない金額だ。

 もっともこの言い方は「レトリック」である。政府も消費増税はしないだろう。消費税の目的(と政府が言ってきたこと)から言ってもそれはない。そもそも義務教育段階の支出は、地方自治体の負担が大きい。それでは住民税をアップするのか。地方交付税を大幅にアップするのか。それにしても児童数が多い都市部の財政が破綻の危機に陥るのは間違いない。小泉内閣で「義務教育費国庫負担金」の2分の1から3分の1へ減額を強行されたが、それを再び2分の1に戻すとか、「ふるさと納税」を廃止するとか、抜本的な対策を取っても「焼け石に水」ではないか。

 教育であれ何であれ、「ただのもの」はない。しかし、「4月入学」なら教育費の財政負担は例年と同じである。ここで言っている膨大な負担というのは、いつもの年に上乗せして必要になる金額なのである。各マスコミの世論調査でも、9月入学の是非を聞いているが、この巨額の財政負担に触れずに、ただ一般国民の意見を聞いても仕方ない。「4月入学なら新しい負担は生じない」「9月入学にすると、消費税5%分程度の増税が必要になる」と説明をしてから、「どちらに賛成ですか?」と聞かないと正しい世論を測ることが出来ない。

 2018年には全国で高校生が322万人いた。一年間に生まれる子どもの数はだんだん減っているが、まあこの何十年の間、100万人前後になっている。定時制、通信制など高校もいろいろあるが、全部で300万超、一学年は100万前後と考えればいい。そのうち、2019年の大学進学率は55%ほどだった。「留学に便利」と言っても、45%の高校生には関係ない。むしろ、4月から就職していれば得られた給料分が、家計から失われる。大学生でも同様のことがある。その間の家計負担が2兆円に上る。それだけでなく、その給料から所得税や社会保険料が支払われているわけで、その減収分が相当額に上ることが予想される。それは僕は当初は気付かなかった。

 9月入学に伴い、第1案の場合、教員は2万8千人不足するという。(刈谷剛彦氏推計、朝日新聞5月17日)この不足人員を一挙に採用しようとすると、多くの地方で小学校の教員採用試験が1倍を割るという。教員の定年を延長するなどしても、充足は無理だろう。新規採用教員には研修も必要だし、現場が大混乱になるのは必至。では第2案で、一ヶ月ごと受け入れ児童を増やせばいいのか。確かにその場合、一度に教員を採用増する必要はなくなるが、結局5年間かけて、同じように増やすので財政負担総額は変わらない。

 さらに、この案の最大の問題は幼稚園などで形成されていた人間関係をバラバラにすることだ。4月生まれだけをピックアップして上級学年に繰り入れてしまうわけである。翌年は5月生まれだけ分断される。第2案は財政面、教員採用面では第1案よりいいけれど、肝心の児童にとっては残酷な案になってしまう。こういう風に、最初に「4つの疑問」と書いた他にも、家計への影響待機児童増教員採用の問題国の税収減など多くの問題があることが判った。もう「9月入学」議論は打ち切った方がいい。今の財政状況で出来るはずがない。それが「大人の責任」だろう。

 最後に一応書いておくが、最初から言っているように、大学が「秋入学」を実施するのは、大賛成である。というか、もうそういう仕組みはある。その分を増やしていけば良い。学生も「春入学」「秋入学」「春卒業」「秋卒業」を自分で選べばいい。企業も「通年採用」もしくは、「春秋採用」にすればいい。小中高は、会計年度に合っている方が便利だと思うが、絶対に4月入学じゃないとダメということでもないと思う。しかし、財政上出来ないことは、「今は無理」とはっきり決着を付けることが大事だ。
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全国の高校を単位制にしてみたら!

2020年05月05日 22時59分04秒 | 教育 (教育問題一般)
 全国で学校休校が長引くことによって、「9月入学」という議論も起こっているわけだが、あまりにも巨額の費用がかかるから義務教育での実施は難しいだろう。仮に実施したとしても、それは「日本型教育システム」をそのまま5ヶ月後ろにずらすだけである。それを「欧米に合わせる」と称しているわけだが、合っているのは「入学・卒業時期」だけである。教育制度面で「欧米に合わせる」ことを真剣に考えるなら、「義務教育における落第」や「大学入学資格試験」(フランスのバカロレアのような)、高校における「単位制」制度の導入など、もっと先にに検討するべきことがいっぱいある。
(単位制高校のシステム)
 「単位制高校」といってもいろいろある。そもそも今でも全ての高校は単位制である。しかし、ほとんどの高校は「学年」をベースにして、ごく一部の選択授業を除いて決められた「学級」(クラス)単位で学習する。クラスのメンバーは学年ごとに「クラス替え」することが多いが、その決まったメンバーでずっと授業を受けることに変わりはない。学校ごとに細かい決まりは違うが、基本的にほぼ全ての授業で「単位」を「修得」(成績が2以上)しないと卒業、進級が認められない。それを「学年制」と呼ぶ。

 今は私立の通信制高校が幾つも出来ている。通信制高校はシステム上、一斉授業は出来ないわけだから、当然単位制である。学習指導要領に決められた「必履修科目」をすべて修得し、他の科目も決められた単位数を修得すれば卒業が認定される。だから、「単位制」高校とは「通信制」だと思っている人もいるようだ。しかし、毎日登校する高校でも「単位制」はいっぱいある。ほぼ学年制のような全日制単位制高校もあるし、全日制と定時制の併置校もある。午前・午後・夜間に分かれた三部制単位制高校もある。東京都には今では30以上の単位制高校が設置されている。
(全日制、定時制、通信制の仕組み)
 世の中には「全日制」(ぜんにちせい、朝から夕方まで)の「学年制」高校が一番多い。だからそれを「普通高校」と思い込んでいる人が時々いる。これは大間違い。時々教員にも間違っている人がいる。「普通高校」とは「普通科」高校のことで、その他に「農業科」「工業科」「商業科」「水産科」「家庭科」「福祉科」などの「専門高校」が存在する。他にそれらを合わせた「総合学科」もある。

 「全日制」は一年間朝から夕方まで学習するのに対し、「定時制」は定められた時間で学習する。だから「夜間高校」という意味ではない。午前だけでもいいし、昔は農業地域に農繁期だけ休校する「季節性定時制」もあったという。このような「専門」(学習内容)や「課程」(全定通の違い)と、ここで書きたい「単位制」とは意味が全く違う。大学は同じく単位制で、必修科目は決まっているものの、他の科目は自分の関心から時間割をよく見て決めていく。同じシステムを高校でやるわけである。

 知っている人には不要の説明で長くなってしまったが、「自ら学ぶ」「アクティブラーニング」「個性化」などと本気で言うんだったら、自分で時間割を作る「単位制」にする方がいい。それに「前期」「後期」で半期ごとに単位認定すれば、半期卒業が可能になる。もっと勉強したいならば3月で卒業せずに、もう半年勉強することも出来る。卒業式が7月じゃないので、欧米留学に直結は難しいが、今よりはズレが少ない。日本の大学も春秋双方に入学、卒業する制度をもっと充実させれば、高校を半期卒業する意味も出てくる。「単位制」制度を取り入れればずいぶん違うんじゃないか。
(日本初の単位制高校、新宿山吹高校)
 それとともに、僕が一番書きたいのは「単位制」的な発想を、今年は特例で学年制の高校にも適用可にすればどうかと思うのである。具体的には高校3年の「卒業認定」の問題である。学習指導要領では卒業に必要な単位は、夜間定時制のカリキュラムに合わせて「74単位」と決めている。一方、全日制の場合は一日6時間授業が可能だから、一学年で28単位か29単位程度の授業を置いているんじゃないだろうか。だから3年になった時点で、指導要領上の卒業要件には20単位も取れば大丈夫だろう。必履修科目では、体育が必ず残っているはずだが、他には地理歴史、公民などで少しあるかもしれないが、大体は終わっているはずである。

 もちろん教育委員会の指示で休校している期間のオンライン授業、プリント学習、自宅学習などは出席にカウントされる。学校の都合なんだから当然である。だから今後休校が延びても「欠時数」によって、未履修になる可能性は少ない。(もっとも思わぬ不登校生徒増があるかもしれないが。)しかし、授業内容の理解という面ではやはり学校の授業には及ばない。すぐ出来ないかも知れないが、理科の実験、英会話などは学校でやらないと意味がないだろう。だから、今までのカリキュラムを大胆に見直し、卒業認定に必要なものを中心に実施し、他は大学受験や就職試験、資格獲得などに必要なものに整理したらどうかと思う。それ以外の科目は「減単」するしかないと思う。

 書いているうちに、なんだか高校教員以外の一般の人には意味がないようなものになってきた。だからもう止めるけれど、「単位制」には問題もある。一人一人がバラバラで、クラス内の同調圧力は低いけれど、その代わり行事などはやりにくい。クラスもあるけれど、週一回のホームルームでは生徒の状況把握が難しい。だがアメリカの高校はみな単位制だ。映画で出てくるのを見ても、学年も違う生徒たちが自由に授業を行き交っている。「欧米に合わせる」なら、まず単位制だろうと思う。それと本当に日本の教育を変えたいなら、「日本版バカロレア試験」を作ることが一番だ。合格者は「自己推薦」で各大学に出願する。個々の大学の入試はなくなる。出願料がなくなる私学の抵抗で不可能だろうが。
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「9月入学」は「コロナ・レガシー」なのか?-「9月入学論」への疑問②

2020年04月30日 16時57分59秒 | 教育 (教育問題一般)
 「[『9月入学』論への4つの疑問」という記事を書いた。これは「実務的」的な困難さを指摘する意味で書いたんだけど、 世の中には「9月入学、それもいいのでは」みたいな感想がけっこうあるようだ。安倍首相も国会で「前広で議論していく」なんて答弁した。「前広」(まえびろ)って何だ? 聞いたことないけど、一発変換できるから元からあるのか。ある種の「永田町用語」なんだろう。

 全国の知事の中には「コロナ・レガシー」などという言葉を使って「9月入学」を推進する人までいる。今多くの大学生が「学費を払えない」「アルバイトが無くなった」「帰省もできない」という状況に追い込まれている。一部調査によると、退学せざるを得ないと考えている人も2割に上るとか。今緊急に対策を考えるべき教育問題は、そちらじゃないのか。図書館も閉まっていて勉強も出来ないのに、大学のある都市部から故郷に帰ってくるなとまで言われているのである。
(知事たちの主張を紹介するテレビ番組)
 何でも安倍首相は「緊急事態宣言」を大幅に延長する意向とか。思い起こしてみれば、3月には緊急事態宣言は不要といい、宣言に踏み切った時も7都府県に絞って、当初は休業要請は2週間様子を見てとか言っていた。それが最終的には全国に緊急事態を宣言せざるを得なくなり、今度はそれもまた大幅に伸びるという。初めから短距離走とは思ってないけど、それにしてもハーフマラソンかと思って走っていたら、突然フルマラソンに変更すると言われ、もしかしたら100キロマラソンになるのかも…となっては安倍内閣の対策が厳しく問われるべきところだ。

 ところが突然の「9月入学」論議。今はますます大変になる自営業などへの支援策に専念するべき時期なんじゃないだろうか。大体「コロナ・レガシー」って、それは本来オリンピックだったはずだ。「人類がウイルスとの戦いに勝った証」とか言ってたじゃないか。コロナウイルスが案外長引く、年末からまた広がるといった観測も多くなり、果たしてオリンピックは実施できるのかという意見も多くなってきたように思う。僕は今回の首相の「前広発言」はうすうす五輪中止を覚悟し始めた「証」なのではないかと思う。「北朝鮮のミサイル」みたいな、議論を他にそらす論点を必要とし始めたのである。

 それはともかく、ニュースなどで見ている限り、一番重要な「義務教育開始年齢を遅らせるのか」を指摘する声がない。遅らせないんだったら、4月から8月生まれの子どもを小学校に受け入れなければならない。それが「義務教育」の意味である。幼稚園はその年だけ、特別に早期卒園させるしかない。私立幼稚園の経営にも影響しそうだが、幼稚園は義務じゃないんだからやむを得ない。そうしない限り、義務教育の開始を5ヶ月遅らせることになる。「幼稚園の義務化」という議論もあるが、それでも初等教育の開始を遅らせることには変わりない。

 議論していけばポシャるに決まってる「9月入学」だと思ってるが、世の中には倒錯した議論が横行している。学年が会計年度をまたぐことになるから、「会計年度を変える必要がある」などという意見もあった。会計年度は教育のためにあるわけじゃない。国家の制度設計全てを変更することになるから、会計年度を変えるなんてすぐに出来るはずがない。準備期間は少なく見積もっても5年必要だろう。まだ実社会に出ていない高校生だったら、実務的論点に見落としがあっても仕方ないが、世の中のリーダーである首相や知事などがすぐに出来るはずもない議論をしたがるのは困ったもんだ。
 
 そもそも「欧米の入学時期に合わせる」という発想に問題がある。「世界標準」だとか「留学しやすい」とか言っても、要するに今の大学4年生(普通の4年生大学の場合)、高校3年生(全日制高校の場合)の「卒業を4ヶ月延ばす」(卒業式を3月から7月に変更するとして)ということである。その間の授業料や生活費は誰が負担するんだろう。大学生どころか、高校生にも退学せざるを得ない人が出てくるのは予想される。「留学に都合がいい」というのは「エリートの発想」であって、現実には「早く社会に出て働かないといけない」という大学生、高校生の方がずっと多いはずだ。

 与野党ともに政治家はほぼ大学卒であって、留学経験も豊富な人が多い。官僚やマスコミ関係者も同様だと思うが、それは国民の実態を反映していない。国民の半数は大学へ行かないし、大学へ行っても大部分は留学はしないだろう。もっと留学した方がいいという議論は出来るが、国費で全額面倒を見るならともかく、経済的に無理な人が多いだろう。多額の奨学金を背負って、アルバイトしながら学費を工面している学生には、留学の都合よりも早く卒業出来る方が優先するに決まってる。

 いつもは「日本スゴイ」「日本第一」みたいに言ってる政治家たちが、突然「欧米に合わせよ」などと言い始めたのも奇怪である。その欧米も学校は休校しているわけだが、欧米では入学時期を変えるのか。変えずにやっていけるんなら、そっちのやり方を「欧米に合わせる」でもいいはずだ。入学時期だけ「欧米に合わせる」んじゃなくて、「全ての高校を単位制にする」とか「義務教育でも落第制度を設ける」とか内容面、質的な面で合わせることを議論する方がずっと有益だ。
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「9月入学」論への4つの疑問

2020年04月28日 20時37分04秒 | 教育 (教育問題一般)
 全国のほとんどの学校が新型コロナウイルス休校を強いられている。最初に緊急事態宣言が出された7都府県の場合、入学式も出来ないままになっている学校が多い。そこでこの際「9月入学に移行してはどうか」という意見が出てきた。教育行政や国会議員だけでなく、教員や生徒の一部にも賛同する意見があるらしい。検討するのはいいけれど、僕はこれはなかなか難しいと考えている。

 ただし、完全に単位制である大学の場合はまた別で、前後期制の前期・後期を入れ替えれば可能だろう。欧米諸国に合わせれば留学の便がよくなるのは間違いないので、考えてもいいと思う。人によって単位取得状況によって秋卒業だけでなく、3年半または4年半かけて春卒業という選択肢も出来る。しかし、初中等教育の場合は、問題が山積していると考えている。
(「選択肢の一つ」と述べる萩生田文科相)
 9月入学が難しい理由は幾つもあるが、まずその第1は「議論が出来ない」という「形式的理由」。学校は単に学習の場というだけでなく、保護者就職先の経済界塾・予備校等の民間教育産業行事・部活等の関係業界など多くのステークホルダー(利害関係者)がある。国民全員が学校に通った経験があるから、情緒面も含めて議論百出になるだろう。本来それらの意見を丁寧に聞いて判断すべきだが、今は会議そのものが開けない。時間の関係で、中央教育審議会への諮問・答申も難しい。そんなことはどうでもいいのかも知れないが、政治主導で拙速に決めてしまっていいことなのか

 第2は「4月から8月生まれの子どもたちをどうするか」である。多分多くの人は「9月入学」と言われたら、4月入学の生徒たちがそのまま9月入学になると思うだろう。中学や高校の場合は当面そうなるわけだが、小学校の場合はどうするんだろう学校教育法には「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」(第17条)だから、4月から8月生まれの子どもたち(細かくいえば4月2日~9月1日生まれ)は、小学校に入学させなければならない。保護者には行かせる義務がある。
(9月入学を検討する国民民主党)
 今年は特例で4月入学予定の子どもだけ受け入れたとしても、来年からは「1学期生まれの子どもたち」を小学校に受け入れる必要がある。幼稚園は義務じゃないんだし、「同年代集団」(年度末には同じ年齢になる)を維持するためにはその方がいい。子どもたちの発達は日々進んでいくわけで、初等教育を始める年齢を遅らせるという政策は疑問だ。わざわざ法改正してまですることじゃない。

 だがそうなると、ある年の小学1年生の数が4割ぐらい増大することになる。それが学年進行で上の学年に移行していく。その分、一学年のクラス増、教員増が必要だが、その膨大な予算増加は可能なんだろうか。全国ほとんどの学校で1クラス、または2クラス増えるから、その担任分の教員増になるのである。また、その学年の生徒たちは、受験・就職が難しくなるだろう。それをわざわざ望む生徒・親はいないだろうが、じゃあ、法律を改正して、小学生の定義を「満六歳五ヶ月」と変更するべきなのか。

 第3は「学校予算が学年途中で途切れる」ことである。公立学校は地方自治体が設置しているが、地方自治体は4月から3月が「会計年度」である。そっちは変わらないわけだから、学年途中で会計年度が変わることになる。これでは計画的な学校経営は難しくなってしまう。予算は年間計画に基づき執行されるわけで、例えばオンライン授業を進めるICT機器整備などは、額が大きいから事前に計画されている。(景気対策特別事業とかいって、突然予算が下りてくることもあるが。)9月入学になれば、当然学校の人事異動も9月1日付になる。誰が翌年に残るか全然判らない段階で、学年開始直後に翌年(4月から次学年の3月まで)の予算請求を書くのはとても困難だ。

 第4は「私立学校への補助金増」である。世界的に感染者増で学校が閉鎖されている。学校で集団発生が発生したことは少ない(あることはある)が、学校は自営業者と違って補償を求められないから閉めやすいんだという。生徒も保護者も学校に単なる利潤目的で行くわけではない。「学校に在籍する」ことが意味を持つんだから、授業がないだけで政府に補償を求める不利益が生じたとは言いにくい。(完全に単位制で、学費も高額な大学は別。)公立学校の教員も公務員だから、身分は保証される。

 しかし、私立学校の場合はどうだろう。私立学校にも今では多くの公費が投じられている。私立高校の学費も多くの都道府県では(全部かどうかは知らない)公費で補助されている。(所得制限はある。)しかし、来年の9月にならないと次の新入生(新学生)が入ってこない。公費の補助は「学年ごと」だろうから、来年4月から9月までの私立学校(大学から小学校まですべて)は生徒の学費分が入ってこないことになる。それでも教員の人件費や施設運営費はかかる。それを特別に公費で補填しない限り、経営的に行き詰まる私立学校も出てくるんじゃないか。

 以上が主な理由だが、財政上の困難が大きい。お金の問題だからよほのメリットがあれば何とか工夫するべきだろうが、そこまでのメリットはあるだろうか。その他、多くの問題も起こってくる。例えば、公務員が60歳定年とすると(近年定年延長も検討されている)、教員の場合は学年途中ではなく「学年末で60歳」の人が定年退職になる。だから誕生日によっては、ほとんど61歳まで勤める。しかし、9月入学に変わると、4月から8月に誕生日が来る教員は今年8月で突然定年なんだろうか。今年は特例が認められるかもしれないが、やがて変更されるのか。人生設計に大きく影響する。

 今年の学校生活はコロナウイルスにより大きな影響をうけてしまった。学習面もだが、今後夏休みも短縮され、出来なくなる学校行事も多いだろう。春の選抜野球や夏のインターハイも中止になってしまった。今後もいろんな行事が中止になるだろう。あまりにも可哀想だと誰もが思っている。9月入学に変更することで、もっと余裕を持った学校生活が可能になる。小学校入学が5ヶ月遅れたとしても、大学生にもなれば浪人、留年、社会人入学などは珍しくもないから何とかなるとも言える。

 しかし、学校の本質は単に教科学習にだけあるのではない。行事を精選しながらも、充実した共同体験を積み重ねることで、今年の学校生活も有意義なものに出来ると思う。実際に1学期が全部休校にでもなれば別だが、今のところ残された期間をいかに有意義なもののするかを考えた方がいいと思う。もちろん、入学試験、就職試験などは大胆な配慮が必要だ。(それにしても「大学入試への英語民間試験導入」を潰しておいて本当に良かった。)
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卒業式を奪ってはならないーコロナウイルス問題

2020年02月29日 23時47分01秒 | 教育 (教育問題一般)
 2月29日に安倍首相が記者会見を行い、「新型コロナウイルスの感染拡大防止のための小中学校などの臨時休校要請について「大変な負担をかける」と述べつつも、「集団感染のような事態を起こしてならない」と理解を求めた。保護者の休職に伴う所得減少に対応する新たな助成金制度なども表明した。」この会見はリアルタイムで少し聞いてたが、今になってこんなことを言うのではなく、せめて26日に、あるいは27日にでも言うべきだった。果たして現実に使える助成金制度が作れるのだろうか。

 会見を見て思ったのは「感染症予防における学校閉鎖の意義」を全然判ってない。それはまた別に考えたいが、今は3つのことを書きたい。まず「給食」の問題。休校で消えてしまう給食は9千万食にのぼるという。給食は地域の業者の納入が多いので、地域経済への影響も心配だ。給食は生徒のためのものなので、休校期間中には給食は作られない。しかし教職員は休暇じゃないから学校にいる。昼食をどうすればいいんだろう。給食費はもう3月分を納めているはずだから、返金の事務手続きも大変だ。むしろ「学校で子ども食堂を開いて欲しい」と思う。

 次に「学年評価」の問題。高校では卒業予定者の成績は付け終わっていると思う。(一部の三部制高校では卒業生も3月の学年末考査が終わってから成績を付けて、卒業判定を行う。そのような例外もある。)しかし、多くの生徒はこれから学年末考査があったはずだ。地域によって時期が違うようだが、都教委は「3月2日以降の学年末考査は実施せず、2学期までの評定等を総合的に評価」という方針を出した。それはそれで理解出来るのだが、最後のテストにかけて頑張っていた生徒はどうなるんだ。その後の行事に向けて頑張っていた生徒はどうなるんだ。

 いや頑張っている生徒ばかりじゃないし、感染リスクを心配する生徒もいるだろう。しかし、未だに一人の感染者もいない県であっても、全小中高特別支援学校がすべて一斉に休校しないといけないのか。それでも休校すると言うのなら、頑張る生徒への評価アップ手段を検討するべきだ。いろいろと出来るはず。課題図書やプリントを学校ホームページに示して、小論文をメールで提出するとか。まあ郵送でもいいし、一回ぐらい提出に来てもいいんじゃないか。

 そして最後に「卒業式をどうするか」。28日に登校したら、その日に突然卒業式になってしまった学校もあるという。保護者にも事前に伝えられないままでは、あんまりだ。生徒の方も心の余裕もないまま、急にもう終わりというのでは「卒業式を奪われた」という感じになってしまうのではないか。僕は生徒や保護者から「卒業式を奪わないで欲しい」と強く思う。卒業式なんかどうでもいいと言えば、どうでもいいとは思う。あらゆる儀式全部が僕はあまり好きではない。出ないでいいもの(成人式など)は行ってない。しかし、世のほとんどの生徒には卒業式が必要だと思う。
(突然の卒業式になった愛知県の大口中)
 安倍首相は親を受け継いで山口県下関市周辺の選挙区から出ているが、本人はずっと東京在住で小学校から大学まで同じ私立学校に通学した。地域の中学校を卒業する意味地元の高校を卒業する意味が、本当の意味では判らないのではないか。今は中等教育の一貫校も多いが、ほとんどの子どもは地元の中学校に通って、卒業で地域を離れて電車やバスで通学する。中にはむしろ高校の方が家から近いケースもあるだろうが、そういう人は数少ない。それでも高校は自宅から通うだろう。しかし、高校を卒業すれば、進学または就職で家を離れて地元を離れる生徒も多い
(突然卒業式になった松本市清水中)
 親にとっても中学卒業、高校卒業が一つの節目だし、是非参列したい人が多いはず。子どもの卒業式に休暇を取れない会社はないだろう。もちろんコロナウイルスへの心配もあるだろうし、教員や生徒から感染者が出ていたら中止でもやむを得ないと思う。しかし、ほとんどの学校ではそんなことはないはずだ。「卒業式」は形はいろいろと考えていいと思うが、いわゆる「冠婚葬祭」は人間社会に有用だ。「子ども」から「大人」になる「イニシエーション」は現代社会においては、進路活動卒業式が担っている。それなりの卒業式を実施することは大人の義務とも言えるのではないだろうか。

 しかし年にもよるが、卒業式は寒い。卒業式に感染リスクがあるとすれば、長い時間寒い中でガマンさせられるということだと思う。これも地域差があるかもしれないが、東京では高校は3月初旬、中学は3月20日前後、小学校は次の週辺りが多いと思う。学校の体育館は冷暖房がなく、どうしても寒いのである。だから新型コロナウイルスやインフルエンザを別にしても、健康不安を抱える生徒には不安である。暖房器具を総動員したりするが、広いからそれほど効かないと思う。では、どうするか。卒業式を最短にするにはどうすればいいのか。今考えるべきはその事だと思う。

 ①式辞は最小限にする。(校長式辞も放送でクラスで聞かせればいいと思う。)
 ②歌も最小限にする。(文科省は国歌斉唱は不要と通知するべきだ。)
 ③学校規模によるが、卒業生全員に校長が授与する必要はない。代表授与にする。
 ④面倒くさい礼儀指導はやめる。

 どうしても必要なのは、「卒業生呼名」と「送辞」「答辞」だ。「校歌斉唱」も二度と歌わないんだから、あってもいいと思うけど歌をどうするかは学校判断に任せればいい。生徒の希望もあるだろうし。歌いたくない生徒、感染が心配な生徒はマスク着用を容認すればいい。仲間同士で連絡してファミレスに集まるなんて今じゃすぐ出来る。連れだって学校に遊びに来ることも出来る。でもクラスメイト全員で集まることは二度とない。一生会わない人もいる。いつも迷惑をかけていた生徒が号泣して先生に感謝する姿。おとなしめの生徒が大きな声で呼名に返事をする姿。そういう意外な人間像に接するのが卒業式であって、その教育的意義は大きい。

 昔2012年に卒業式に関して、何回か記事を書いたことがある。以下を参照。
卒業証書の作り方ー卒業式①」(2012.3.18)
『謝恩』の日-卒業式②」(2012.3.19)
卒業式の時期と大阪のある卒業式ー卒業式③」(2012.3.19)
卒業生を出すということー卒業式④」(2012.3.22)
記念品は岩波文庫だったー卒業式⑤」(2012.3.25)
卒業式と歌ー卒業式⑥」(2012.3.26)
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日本語の「4技能検定」はいらないの?ー「国語」教育考③

2019年11月15日 22時25分09秒 | 教育 (教育問題一般)
 「国語」教育について、いつまで書いても仕方ないからこれで最後。実は僕が今まで不思議に思っていることがある。
 次の文章は、現行の「学習指導要領」の一部だけど、何の教科(科目)か判るだろうか。 
「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」の指導を通して,次の事項について指導する。

 「話すこと・聞くこと」を最初に持ってきて、いかにも重視している感じだから、きっとこれは英語(外国語)じゃないかと思うと違う。これは「国語」の必履修科目の「国語総合」の一部である。(一部って言うのは、このように具体的に一文の中に「4技能」が出てくるところを見つけて引用したもの。)
(現行の学習指導要領「国語」)
 外国語(英語)の必履修科目「コミュニケーション英語基礎」の学習指導要領は以下の通り。
 「英語を通じて,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどの基礎的な能力を養う。」

 「学習指導要領」は文部科学大臣の「告示」に過ぎず、国会で議決されたものではない。しかし最高裁判決で「法的性格」を持つとされた。そのことが多くの問題を生んできたし、ずいぶん前の最高裁判決そのものを問い直す必要もあると思う。でも今はそのことは置いといて、高校では必ず英語の「4技能」を養わないといけないわけである。法的性格の文書にそう書いてあるんだから。

 だから、大学入試でも「4技能」を問う必要がある。しかし、大量の人数を扱う入試で「話す力」を測るのは難しいから、民間試験の検定等を受けなければいけないということにした。それが「英語民間試験問題」の構図である。それだったら、なんで「国語の4技能検定」は要らないのだろうか。だって、同じく必修の「国語総合」に4技能を養うと明記されているんだから、大学入試で国語の4技能を測らなくていいのか。なんで英語だけ検定を受けないといけないの?

 僕は別に「日本語4技能検定」をやれって言ってるわけじゃない。英語ばっかり言われているけど、学習指導要領だけを見る限り「国語」も4技能を養うとされていることと整合性があるのかと言いたいだけ。英語も国語もやらなくていいと思う。ただ不思議なことがある。「国語」でもいくつかも「検定」がある。一番有名なのが「漢字検定」だろう。そのほかにもいろいろあって、「日本語検定」というのもある。この二つは「漢検」「語検」と呼ばれている。他にも山のようにあるけれど、話す力を見る「日本語能力検定」は外国人向けで日本語母語者を対象にしていない。

 日本語の「話す力」は最近あまり重視されてないんじゃないか。昔は実際会って話をし、その後は電話で話すようになり、それからパソコン等でメールを送る。今は身近な間柄では「Eメール」さえ使わず、各種SNSで連絡し合うのが普通だろう。学校でも「弁論大会」なんて行事もあまり行われていないんじゃないだろうか。そういうことを考えると、検定で測定するのは難しいだろうけど、「新聞の社説を読んで内容をまとめて発表する」ぐらいは学校でやらないとまずいかもしれない。テレビで国会中継を見ていても、内容以前に「かみ合わない応答」が多すぎる。本当は選挙立候補に際して、漢字検定、日本語検定などを義務づけてみたい気もしてくる。
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「国語」から「日本語」へー「国語」教育考②

2019年11月14日 22時54分27秒 | 教育 (教育問題一般)
 高校国語の新指導要領について書いたから、ついでに今まで「国語」に関して思っていたことを書いておきたい。サブタイトルに「国語」とカッコを付けている。「国語」って何だろうか? 国語、数学、英語をよく「主要3教科」などと呼び、「国数英」(あるいは英数国)と略している。「」は理解出来る。確かに「数の勉強」だ。でも「」というのは何だ。「国」の勉強なのだろうか。もちろん違う。「国語」の「」の方の勉強なのである。そして、その「語」とは「日本語」に他ならない。

 じゃあ、なぜ「国」を付けるのだろうか。自分たちが所属している国だけが国家ではない。世界には200近く国家が存在する。その中には「国家」と「言語」が違っている国も多い。(スイスには4つの公用語があるし、ベルギーはオランダ語圏とフランス語圏に分かれている。一方、ドイツオーストリアは同じくドイツ語を公用語としている、など。)日本では「国家の成員」がほぼ「日本語」を話すからといって、それを「国語」と言ってしまっていのだろうか。それは「国家の言葉」という「正しい言語」を上から押しつけるということにつながらないだろうか。そして、そのことを私たちはどの程度自覚しているだろうか。

 「国語」という言葉がいつから教育で使われているのか、僕はよく知らない。「国語」という言葉は明治になって出来た言葉だが、学校の「教科」に使われたのはいつからだろう。1941年に「国民学校令」が出され、小学校が「国民学校」に改称された。その時の初等科(小学校)の教科は4つだった。「国民科」「理数科」「体練科」「芸能科」である。そして「国民科」の中に、科目として「修身」「国語」「国史」「地理」があった。このように「国語」というのは、「修身」や「国史」と並ぶような言葉だったのである。

 「国史」とは、まあ「日本史」だが「日本国の歴史」=「天皇家の歴史」であり、歴代天皇の名前を暗記するのが重要だった。戦後の高校の学習指導要領を調べてみると、当初は「国史」とされていたが、1951年には「日本史」と名前が変わった。歴史教育においては、「国史」という言葉への問題意識があったわけだ。それに対して「国語」の方はあまり意識されずに今まで続いている。

 東京大学文学部の学科名を調べてみる。1890年に京都大学が出来るまで日本に大学は一つだから、ただの「帝国大学」と言っていた。1887年段階の学科として「和文学科」や「史学科」があった。1897年に「東京帝国大学文科大学」と名前が変わり、1910年に「3学科19専修学科」となり、その専修の中に「国史学」「国文学」という表現が出てくる。1919年に東京大学文学部となった時点で、正式に「国史学科」「国文学科」が誕生した。戦後になって1949年に新制大学に代わった時も、引き続き「国史学」「国文学」となっていた。この言葉は東大紛争を超えて生き残り、1994年になってようやく「国史学」を「日本史学」に、「国語学、国文学」を「日本語・日本文学」に変更されたのである。(東大HPより。)

 2004年になって、「国語学会」が「日本語学会」に改称された。教育界だけが取り残されている。「日本語 教育」の検索では、「日本語教育とは日本語を話せない外国人向け」といった説明も出てくる。一方「国語」とは「日本語が母語であることを前提にした日本語教育」なんだという。しかしこれは詭弁だろう。「国語」という以上、「国家」を前提にしている。世界の多くの言語の中の一つを深く学ぶという視角がなくなってしまう。まあ「日本語」と変えても「日本を超えられない」とか言う人もいるかもしれない。それでも「国家」をまず意識するのが先決だろう。

 日本語が母語である人は、難しい四字熟語なんかは知らなくても、日常会話なんかは苦労せずに出来ると思い込んでいる。そのため「会話のスキル」を意識することもなくなる。世界の言語の中で、日本語がどのような特徴があり、他言語とどう違っているのか。そういうことをほとんど教えないまま、「英語が出来ないのは英語教育がおかしい」とか言っている。「国語」という教科名を疑うところから、「外国語教育のあり方」を考えていくべきじゃないだろうか。
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文学は教育に必要か-「国語」教育考①

2019年11月13日 22時48分50秒 | 教育 (教育問題一般)
 自分の教科(社会科、あるいは地理歴史)でもないのに、英語について何回か書いたことがある。それは「英語教育問題」が「教育改革(改悪)」の象徴のように扱われてきたからだ。本来、他教科に口を出す能力もないし、その気もない。しかし、今度は「国語教育」について書きたいと思う。2018年に発表された高校の新学習指導要領が「文学軽視」と大きな問題になっている。この新指導要領は2022年から実施予定だが、地理歴史・公民科にも相当大きな問題があるように思う。

 あまり細かいことを書いても仕方ないけど、一応簡単に説明。現行要領では「国語総合」(4単位)が必履修で、他に「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」(4)、「古典A」(2)、「古典B」(4)がある。

 新要領では「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必履修で、他に「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」(各4単位)が置かれる。このうち「現代の国語」は「実社会で必要な議論や討議、説明資料をまとめる活動」で、「言語文化」は「上代から近現代に受け継がれた日本の言語文化」を学ぶ。今まで国語では文学作品の読解が多かった印象があるが、新要領になると高校生が文学作品を深く触れる機会がなくなってしまうと危惧されているわけだ。

 最近は単位制高校も増えて、必履修科目がほとんど2単位ものである。「数学Ⅰ」と「英語コミュニケーションⅠ」は3単位(2単位まで減可)とされているだけだ。3年間(または定時制4年間)で国語が必修4単位だけということはない。だが、残りが皆4単位ものとなると、進路活動への効果も考えて「論理国語」や「国語表現」を置く学校が多いだろうと思う。確かに「文学」に触れる機会が少なくなるのは間違いない。それで良いという考えもあるだろう。「イマドキの高校生」には大人ともきちんと「話が通じる」基本的スキルを養うのが第一だというのも判らないでもない。

 そもそも何でこのような指導要領になるんだろう。それは「公民」科で「現代社会」をなくして「公共」という新科目を作る。英語では「話す力」を重視する。そういうのと通底する流れを感じる。要するに財界からの要望で「使える人材」を作れということだ。もう一つ「言語文化」が必履修なのは、「日本の伝統文化」偏重という視点で理解出来ると思う。近年の(特に安倍内閣における)教育政策は、新自由主義(経済界)と国家主義(右派勢力)の双方を混ぜ合わせたものと考えれば判ることが多い。

 結論から書くと、僕はやはり若い世代に「文学の読み方」を伝えるのは非常に大事なことだと思う。もちろん「契約」など実社会の「論理的文章」も使いこなせないといけない。それは前提である。「論理的文章」が今の子どもたちには通じないと嘆く人も多いだろう。スマホニュースならまだしもいい方で、電車の吊り広告で見ただけの週刊誌の見出しで「世界を理解したつもり」の人だって多いと思う。実は老若を問わず、読み書きで困る人も多いのが実情だ。運転免許の試験で苦労したり、福祉や年金の書類が理解出来ない人もいると思う。高校生なんだから、最低限新聞ぐらいちゃんと読めないと。

 もちろん「論理言語」は大事なんだけど、「実社会」ではそれでいいかもしれないが、実は我々の言語活動はむしろ「非論理的言語」によっていることが多い。家族間のコミュニケーションは大体そっちだ。地球温暖化や憲法改正問題を議論する家庭はほとんどないだろうし、子どもの進路問題だってきちんと話そうと思いつつ、多忙を理由にちゃんと向き合っていないことも多いはず。家庭では人間は言語だけではない、「顔色」や「しぐさ」などでコミュニケーションを取っている。仕事は出来る人間なのに、家庭内ではコミュニケーションが取れない人もいる。

 子どもや老人が発する「非言語的コミュニケーション」を理解することの大切さ。これは今後ますます我々に必要になってくる。それは「文学」の領域だ。文学では「言外の意味」「余韻」を生かすことが大切だからである。言語だけでなく、本当は演劇レッスン映像作品製作なども役に立つ。それが「国語」科で扱うべきかは判らないけど。(むしろ新教科を考えるべきなのかもしれない。)

 ここで最近読んだ本を挙げて終わりにしたい。直木賞受賞作の荻原浩「海の見える理髪店」と芥川賞受賞作の滝口悠生「死んでいない者」である。「大衆文学」と「純文学」の違いもよく判るだろう。どっちも「家族」をテーマにしている。書かれていないことをどう理解するか、それが文学では問われる。
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英語は「実技教科」なんだろうか

2019年04月25日 23時00分28秒 | 教育 (教育問題一般)
 英語は大事だし、英会話も大切だと思うけど、これほど「4技能重視」って言われると、英語って実技教科なんだろうかと思ってしまう。大学入試では他教科の場合、知識の正確さや思考力を問われる。英語では何が問われているんだろうか。日常的に英語を使う環境にある人は日本では数少ない。だから「読む」「書く」だけでなく、「聞く」「話す」場合でも、記憶力や思考力を働かせないといけない。でも、それは体育や芸術なんかでも同様だろう。「話す」力を測るとなると、必ず発声をしないと評価できない。やっぱり実技教科性が英語にはあるということか。

 「実技教科」って言うのは、主に中学の教科で使う。つまり「音楽」「美術」「保健体育」「技術・家庭」のことである。(順番は学習指導要領の通り。)高校の入試ではこれらの教科は試験がない(ことが多い)。(東京都では大昔に9教科のテストをやった時代があったという話だが。)試験がある国語、社会、数学、理科、外国語は「主要5教科」なんて言われる。そうなると「実技教科」は手を抜いてしまいかねない。そこで調査書点では試験をしない教科に加点したりする。

 高校や大学の入試で、英語の試験は何のためにするんだろうか。高校でも大学でも英語は重要だから、学力を確かめるのは当然かもしれない。大学で何を学ぶにしても、確かに英語は必要だ。特に英語の先生になりたいとか、英米文学を研究したいなんて学生を選ぶなら、それは英語の学力測定も必須だろう。でも多くの学問分野では、専門的な研究者を目指す場合は別として、「英語が普通に出来る」レベルで十分なんじゃないだろうか。留学を考えるような段階になって、集中的に勉強する方が効果が上がるように思う。

 大学で学ぶには、そもそも「体力」が必要だし、あるいは「常識」がもっと必要だ。だけど「体力テスト」をやることは(体育系学部を除き)ないだろう。「常識テスト」こそ本当は一番必要な気もするけど、大学入試でやってる大学もないだろうと思う。それなら、どうして英語だけ「実技」を課すのか。そのために外部テストを受けるとか、全国学力テストでパソコンで全員のテストをするとか、社会的な負担感が大きすぎるんじゃないだろうか。

 ぼくはそもそも大学入試全廃論を唱えているんだから、英語のテストも要らないと思ってる。試験を経ない推薦入試のような仕組みをいっぱい作っている時代に、どうして「大学入試改革」にこれほど時間を掛けて議論をしているのか、僕には全然判らない。それでも受験生の英語力を知りたい高校や中学の成績だけでは信用できない、というのもホンネとしてあるだろう。そこで「基準として英検を使う」というあたりならいいんじゃないかと思う。

 「本大学を受験するには英検準2級以上合格を必要とする」といった感じである。レベルが高い大学は2級を要求し、あまり高いことをいうと集まらない大学では3級に下げるところもあるかもしれない。「英検」と言ったのは、2級までなら学校で一次試験を準会場として行うことが出来るから、比較的受けやすいと思うからだ。他にもいろいろあるし、インターネットで受験できる英語テストもあるのかもしれない。離島なんかの場合はそういうものがいいだろう。英検だって、2次試験は必ず本会場に行かないといけないから。それにしても、一点刻みで英語力を測って、それを他教科と合計して合否を決定することにどんな意味があるのか疑問だ。
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小学校英語教科化で始まる「学校の危機」

2019年04月24日 22時51分41秒 | 教育 (教育問題一般)
 英語教育に関してまとめて書いておきたいと思う。英語そのもの、あるいは言語教育表現教育についてきちんと考えるべきなんだけれど、まずは小学校での英語の教科化に関して。今までも小学校では「外国語活動」が5・6年生で行われていた。それが新学習指導要領では「外国語活動」は3・4年生で行うこととなり、5年生、6年生は教科「外国語」になる。教科「外国語」は週に2時間の配当になっている。初めての教科書検定も終わって、夏には採択する教科書が決まる。
 (初めての小学校英語教科書)
 文科省では、小学校では5・6年生で「教科担任制」を導入する意向を示している。そうなったら英語は恐らく大体「英語専科」の教員が担当するのではないか。小学校は小規模校が多いだろうから、一校だけでは英語教員の授業が少ないことも多いだろう。講師で対応するのか、複数校を受け持つ専任教員にするのか(そういう意向も文科省にはあるらしい)。それも重要だけど、それなら「63制」を再構築するべきという議論も出るだろう。小学校高学年を中学に移行するとか、全校を「小中一貫化」するという方向だ。少子化で教室確保は可能じゃないかと思うから、そんな議論も起こってくると思う。

 まあそれはともかく、小学校英語の「教科」化は大きな問題を引き起こすと思う。この問題を考えるときに、「早くから始めた方が良いに決まってる」「アメリカでは小学生も英語をしゃべってる」的な俗論が横行して、まともな議論になりにくい。大学受験英語の「4技能重視」「外部テスト導入」もあって、英語の早期教育は疑う余地なしの雰囲気になっているんじゃないか。しかし、小学校教員の大部分は、まさか英語を授業するとは思ってなかっただろう。いくら研修を積み、やる気で臨んでも、週に2時間の授業で、英語がどれだけ出来るようになるだろうか

 もちろん外部の塾などにも通い、あるいは外国生活の体験があり、英語が出来る小学生も増えるだろう。ニュースには都会にある落ち着いた小学校が取り上げられ、「良いことが始まった」的な報道がなされる。国や地方の官僚だけでなく、新聞やテレビの記者も有名大学卒の「出来る生徒」だった人が大部分だろう。「もっと英語を勉強していれば良かった」と思ってる人も多いから、小学校英語を批判するのは難しい。「勉強が出来た人」には、小学校英語を歓迎する人が多いんじゃないか。自分の時にも小学校から英語があれば、自分は勉強が好きだから一生懸命英語をやって、今になって英語で苦労しないですんだかもしれない…。そんな風に思いやすい。

 しかし、大きく見れば「出来る子が半分」「出来ない子が半分」である。今は大学全入とか言われるが、実際の大学進学率は5割強である。短大を入れれば、58%ぐらいになるが、4年制大学で言えば男子が53%ほど、女子が50%ほどになっている。(2018年度、過年度生を含む数値。)大学入試改革が大きく取り上げられているが、短大や専門学校への進学、あるいは就職時には「英語4技能テスト」なんてまさかやらないだろう。だから、高校生の半分には大学入試英語の議論は関係ない。

 小学校で英語を始めれば、小学校卒業段階で「英語が嫌いな子ども」が大量に生まれる。もちろん「英語が得意で大好きな子ども」も多くいるだろう。そっちの方が多いかもしれない。でも今までなら、中学になって英語が始まるから、頑張ろうという生徒がいた。中学になって、制服になり、部活動も本格化し、算数が数学に、図画工作が美術になり、そして英語も始まる。気を引き締めて頑張ろうという生徒がいた。しかし、今後はもう英語が嫌いだという生徒を抱えて中学英語がスタートする。そして中学からは、英語の授業は英語でやるという。本当にやれるのかと思うが、そういうことになっている。

 「英語が嫌いな生徒」の大部分は、それでも少しずつ頑張る気だろうし、判らなくてもおとなしくしているだろう。でも、何人かの生徒は「難しくなった英語」(あるいは数学)について行けなくなり、気持ちが学校から離れる。どうせ大学まで経済的にいけない(と自分の家を見て思う)生徒は、英語ばかり重視する学校教育に見切りをつける。今までだって同じようなことはあったわけだが、「小学校英語教科化」「英語4技能重視」はそういう生徒を増やすとしか思えない。

 いや、そうならないように小学校の教員も、中学校の教員も努力するんだというかもしれないが、言葉で言うのは簡単だが必ず「英語嫌い」が増えると僕は思う。「英語得意」も増えるかもしれない。そっちを見れば「大成功」になり、そういう研究授業が行われ論文が書かれる。報道されて、英語教育はうまくいってると思わされる。その反面で、いじめ事件や暴力事件が頻発し、不登校生徒が増える。学校の関心が「英語教科化」に向かって研修等も増え、児童への目配りもその分減ると思われる。僕は小学校英語がこれからの学校崩壊の弾きがねにならなければいいがと心配している。
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「学校の夏休みは何のため」-チコちゃんに一言②

2018年12月16日 22時10分02秒 | 教育 (教育問題一般)
 「チコちゃんに叱られる!」の第2回は、8月31日放送の「学校の夏休みは何のためにある?」である。この答えが「先生が勉強するため」って言うんだから驚いてしまった。これは明白な誤りで、原因と結果、目的と手段の取り違えだ。夏休みは単純に暑いからあるのであって、それが証拠に寒冷地は夏休みが短く、冬休みが長くなっている。寒冷地の先生は勉強をしなくていいのか。
 (夏休みを画像検索すると、ヒマワリの写真ばっかり)
 義務教育始まって以来、夏休みがある。漱石の「坊っちゃん」を読んでも、先生が夏に集まって勉強したりしてない。たまたま最近になって、教員の研修だの教員免許更新講習だのが夏休みに詰め込まれるようになった。いい迷惑である。夏休みが一番時間が取れるからと、夏にやらされるだけのことだ。40度近い猛暑の中を学校や研修センターなどに行って、どれほどの効果があるのか。暑すぎて帰宅途中にほとんど忘れてしまうだろう。先生の勉強のために夏休みがあるんだったら、効果がもっと上がるように、気候がいい「秋休み」でも作るべきだ。

 番組では小学校の教員が英語の授業について研修をしている場面が出てきた。皆口々に「授業でうまくできるように」など殊勝なことを言って、番組は「このように夏休みでも先生たちは勉強しているのです」などと締めていた。しかし、そこでは一番肝心の、「そもそも小学校で英語授業を導入するべきか」が問われない。導入するとしても、大学等で全然英語の授業法を勉強してないのに、普通の小学校教員が急に研修して英語の授業をするってことでいいのか。まあ決まったことだから、一生懸命研修している人が多いのかもしれないが、ホンネを言えば反対だろう。嫌々やってる人のコメントはカットされてるんだと思う。

 2018年の夏は本当に暑かった。本当なら高原の別荘にでも行きたいところだ。まあ教師の給料じゃいくら働いても別荘なんか持てない。(持ってる人を一人も知らない。)全員がバカンスを取ってしまうと、バカンスに行くための列車も止まってしまうし、デパートも映画館も休館になる。それじゃ他の人が休む意味がないから、大人の中には夏も働く人が必要だ。大人は交代で夏休みを取るわけである。しかし子どもはそうじゃない。

 もともと小学校しか義務教育じゃなかった。10歳前後の児童を暑い時に学校に来させても意味がない。そこで基本的に「授業なし」期間を作った。指導要領上、もともと一年間で「35週」の授業をする計画になっている。祝日、行事、長期休業で17週ぐらいは授業をしないのである。それでいいのであって、夏冬もなく授業を続けても学力差が大きくなりすぎて弊害が大きい。児童生徒にとって、長期休業はとても大事なのは、誰もが経験したことだろう。

 昔は銀行振込なんて仕組みがなかったから、教師の給料を払う日だけ「全校登校日」になっていた。(教師の給料日は15日だから、8月15日となる。)ついでに「平和の大切さ」なんかもやってたかもしれないが、あくまでも給料支払いのためだった。(その日に現金を全学校に配って回っていたのである。今となれば考えられないが。)教師は前からある程度は校内研修などがあったと思うけど、昔は自主研修にもずいぶん行けた。民間教育団体の大会などである。その方がずっと直接的に授業に役立つ勉強ができた。教員は「研修」が義務であり権利である。その意味では常に勉強している。だけど、児童生徒には暑すぎるから夏休みがある。そういう理解でいいんじゃないか。(なお、かつて「夏休みの教員には『休息』こそ」という記事を書いている。)
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校長先生の話は長いのかーチコちゃんに一言①  

2018年12月15日 23時12分44秒 | 教育 (教育問題一般)
 2018年の流行語大賞が発表されたが、今年は比較的知ってる言葉が多かった。その中に「ボーっと生きてんじゃねえよ!」がトップ10に選ばれている。NHKのクイズバラエティ番組「チコちゃんに叱られる!」の決めゼリフである。設定年齢5歳のチコちゃんがトンチンカンな答えをする回答者に「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱るという番組だ。毎回見てるわけじゃないけど、知らなかったなあという答えの中に、ちょっとこれはと思う答えも混ざっている。
 (叱るチコちゃん)
 そんな中でも、教育関係の質問だけ2回ほど書いてみたい。まずは10月26日に放送された「校長先生の話はなぜ長いのか」である。これ何となく多くの人が納得しそうな問題だけど、そもそも「本当に校長先生の話は長いのか」が検証されていない。「ガッテン!」ならまず最初に各学校で計測してみるんじゃないだろうか。皆の感想を聞いても「そういえば長かったような」といった感じだ。「校長先生の話はなぜ長く感じられたのか」の方が正しい問いじゃないだろうか。

 番組の答えは「ネタ本があるから」だった。しかしこれは答えになっていない。校長先生の話が長かったらまずいのか。それなら「ネタ本」に「1分で生徒の心をつかむ校長訓話」がいっぱい載っているはずだ。「ネタ本」的な本があるのは確かだが、本当に使っているのかも疑問。実はその手の「ネタ本」は担任向けにもいっぱい出ている。僕も買ったことはあるけど、全然読まなかった。教師向け以外でも、管理職向け、営業職向け、販売員向け…様々な「ネタ本」は世の中にいっぱいある。「校長向けネタ本」というと驚く人がいるかもしれないけど、別に不思議でも何でもない。

 僕も生徒の時には長いと思ってた気がするが、学校に勤務してからはあまり感じなかった。終業式などでは、式後に大掃除、ホームルーム(学活)になるけど、校長先生の話が長いから大掃除開始の時間が延びたといった経験はほとんどない。(部活の表彰が多すぎて延びたことはある。)要するに「予定時間通り」なのだ。「あの程度の長さ」が学校では必要とされているのである。

 もっとも昔は「忍耐力を付ける」などと言って、夏休み前の暑い時期にも「立ったまま聞かせる」という学校はあった。そうなると何人かが倒れて保健室に運ばれる。これはまずいだろう。今じゃ校庭じゃ座れないから、体育館で式をやって座らせて聞くというのが通例じゃないかと思う。立ってた時は確かに「長いな」と思ったこともあるが、なかなか言えなかった。

 僕が思うに、「校長先生の話」は「長いと感じる要素満載」だと思う。まず校長の話が出てくるのは、始業式終業式となるだろう。小中学校では「朝礼」をやっていたものだが、今はどれほどやってるんだろう。後は「卒業式」「入学式」などの式典である。入学式は大体1年しか聞かない。朝礼は別にして、後は大体暑いか寒いかである。もともと集中力が失せる時期だ。

 それに終業式なんかは「通知表」を受け取るのが生徒の目的である。貰ったら(部活などもあるが)、とりあえず長期休業に入る。終業式や大掃除には身が入らないのが人間心理だ。早く終われと思って、ちゃんと聞いてないのだから、当然長いなあと思うわけである。聞く気がない生徒に対して「長く感じるな」といっても仕方ない。しかしながら一番の問題は「内容のつまらなさ」だろう。

 そう、長く感じるのは「つまらないから」ということに尽きると思う。もちろん中にはジョークで笑わせる校長もいる。それにしても「一般論」や「世間の話題」である。校長は担任もないし、教科も教えない。(元は教えてたわけだが、生徒はなんの教科か知らないことが多い。)部活も委員会も担当してない。だから話は一般論になるけど、それでいいのである。特定の部活やクラスのことばかり取り上げたら、それが誉める言葉だったとしても問題を残すだろう。誉めるならまだしも、生活面の問題点をいちいち校長が指摘するもんじゃない。

 具体的な問題点はその後で「生活指導主任の話」に任せるものだし、クラス内の問題はクラス担任が話す。校長の話はその時に使えるような「一般論」を話すものなのである。つまり「校長先生は努力の大切さを話したけど、ちゃんと聞いてた?」と問いかけ、じゃあ「夏休みには何を努力するか決まってるかな」と続ける。あるいは「校長先生は読書の大切さを話したけど、皆も休み中にいろいろと読んで欲しい」と続ける。そういう風に使う一般論だから、校長の話は生徒には長く感じられる。そういうことじゃないかと思った次第。(ちなみに元の同僚が出てきて驚いた。)
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歴史用語削減問題をどう考えるか-歴史教育を考える⑤

2018年06月05日 22時43分19秒 | 教育 (教育問題一般)
 「高大連携歴史教育研究会」という団体が、歴史教科書の用語削減に関するインターネット上のアンケートを取った。その話が2017年12月13日の朝日新聞に載っていた。そしてアンケート結果が6月4日に掲載されていた。歴史教育に関して何回か書いたが、もともとはこの話を取り上げるつもりだった。ついでにいろいろ書いてしまって、予想外に長くなってしまったけど。

 最初の記事では「龍馬、信玄、桶狭間…教科書から消える?」と見出しにあるように、「国民的になじみ深い」用語を削減対象にしていることで話題になった。これは「日本史B」「世界史B」を主に問題にしている。今は3400~3800にまで用語数が膨らんでいるという。近現代史の用語がどんどん増えるし、大学受験で差が付くようにするために増えて行ってしまうのである。
   (教科書からなくなる?龍馬、信玄、謙信)
 今後、新学習指導要領が「平成34年」から実施される。これじゃいつだか判らない。2022年度からということだ。そうすると20年近く実施された、地歴系科目のABという区分はなくなり、「地理総合」「歴史総合」の必履修科目の上には、「地理探求」「日本史探求」「世界史探求」という3単位科目が新設される。しかも内容的は「アクティブラーニング」的な取り組みが求められている。3単位なんだから、常識的に考えて今までの4単位科目の用語は大幅削減するしかないだろう。

 だから問題は「削減用語」をどうするかということになる。今は2018年なんだから、2000年生まれの人が18歳。高校3年生になってる人が一番多いだろう。2000年は「20世紀最後の年」だから、来年度からは小中高で教育を受けている人のほとんどが「21世紀産まれ」となる。(夜間中学や定時制高校では高齢生徒も多いから、全員にはならない。)そうなると、2001年に起こった「同時多発テロ」や2003年のイラク戦争を知ってるはずがない。2005年の小泉内閣による「郵政解散」も知らない。もう21世紀の話を歴史教科書に載せる時代なのだ。

 「概念用語」は外せない。「荘園制度」とか「幕藩体制」とか。世界史では「市民革命」とか「産業革命」とか。これがまた生徒はすごく苦手だ。歴史の面白さは、個々別々の歴史的出来事を総合して「概念用語」を使って理解することで、歴史がくっきりと見えてくることだ。しかし、僕の経験ではそういうパターン化抽象化が多くの生徒にはすごく苦手らしい。それが「学力」というもので、学力が低い生徒が苦手なのも当然か。それにしても「市民革命」を何度も強調したのに全然できてないのを見ると、やっぱり革命なき国民性なのかと思ったりもする。

 歴史が好きということを個別的なトリビアルな出来事に詳しいことだと思っている生徒がかなりいる。最近だと「歴女」みたいなのがいて、「御館の乱」をどう思いますかなどと聞いてくる。なんだっけ、それ? 「おたての乱」は上杉謙信没後に養子(甥)の景勝と養子の景虎(北条氏康の子)の間で起こった家督争いである。まあ越後、関東情勢には大事件だけど、全員が知る必要もないだろう。全然知らないと教員の権威に関わるかもしれないけど。歴史を学ぶとは、個別の出来事を記憶することではないということは何度も言っておかないといけない。

 それと別に、僕には大きな心配がある。「歴史総合」という名前で日本史、世界史を統合してしまうと、どうしても「国際関係史」や「比較史」になりがちなんじゃないか。その時に教員の力量が不足していると、「アジアの中で唯一近代化に成功した日本」という史観になるケースも多いんじゃないか。あるいは、近代化、工業化に成功した東アジア圏、後れを取っているイスラム圏といった比較。日本史、世界史を総合した授業を構想すると、ともすればそんな理解で説明してしまう可能性。そのように簡単に世界各地の歩みを比べて、日本優位を説く。そんな心配があるのである。

 それに比べれば、個別の人名をどうするかはそれほど問題ではない。武田信玄上杉謙信は字を書かせる意味で、僕も取り上げていたと思うが、試験にはあまり出さない。信長、秀吉、家康ばかり取り上げるのも「中央史観」のような気もするけど、時間がない中ではやむを得ない。幕末は時間が近いだけ、人々の思い入れも大きいと思うけど、坂本龍馬も昔より重要性が減っている感じがする。よく考えてみれば、山内容堂や後藤象二郎ではなく、龍馬だけ大きく扱うのもおかしい。幕末政局のリアルを求めていくと、脱藩浪人が日本を「せんたく」してしまったかの大ロマンも少し色あせた感じがする。それはともかく、人物に関しては、余りしぼり過ぎると上の世代の常識が通じなくなって、「今の若いもんは…」という二次被害を呼ぶ恐れが強い。そっちも心配。
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