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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

国宝・曜変天目を見る

2015年09月11日 23時53分14秒 | アート
 ここしばらく強い雨が続いていた。台風と秋雨前線のためで、茨城県常総市で鬼怒川が決壊するなど、ちょっと考えがたい被害が起こっている。自分の家のあたりは雨の災害にあったことはまずないけれど、使っている電車が栃木県や茨城県に通じているので、ダイヤが大きく乱れてしまった。よく行く日光なんかも、電車が不通になっている。鬼怒川温泉でも大被害。確かに、特に水曜日(9日)などものすごい雨が終日降り続いていた。(ちなみに「常総市」と言われても、どこだという感じだが、水海道(みつかいどう)市が石下町を編入して2006年に出来た市名である。)

 書きたいことがまたたまるので、今日は頑張って二つ書きたいと思っているが、新聞切り抜きをしているうちに遅くなってしまった。時事問題系はもう一つに回して、まずは今日見た「藤田美術館の至宝展」の話。六本木のミッドタウンにあるサントリー美術館で、9月27日まで。昨日までは映画を見るつもりだったのけど、疲れていたので突然こっちに行こうかなと思って、仕事帰りに久しぶりにサントリー美術館へ。前売り券を買ってあるので、早く行ってしまいたい。藤田美術館というのは、大阪にある美術館で藤田組を作った明治の実業家・藤田傳三郎(1841~1912)とその長男、次男のコレクションを収める。藤田組というのは明治時代にはよく聞くけど、今はどうなっているのかと調べてみたら、同和鉱業を経て、今はDOWAホールディングスという。そこから別れたのが藤田観光で、椿山荘、箱根小涌園、ワシントンホテルなどを展開している。
 
 藤田美術館というのは、年中公開している美術館ではなく、なかなか行きにくいようだ。その前にまず大阪に行ったことが数回しかない。「維新国の首都」だから、しばらく足を踏み入れる予定もない。こうなると予想して、数年前に(まだ橋下知事だった時代に)、リバティ大阪(大阪人権博物館)やピース大阪(大阪国際平和センター)はたっぷりと見学して記憶に焼き付けてきた。ということで、今回は大変貴重な機会。国宝、重文がいくつもあるすごい展覧会である。例えば、奈良時代8世紀に作られた「大般若経」。あるいは「紫式部日記絵詞」。さらに「玄奘三蔵絵」。まあ、大般若経はよく判らないから、字を見るだけだけど、絵は素晴らしい。いずれも国宝。快慶作の「地蔵菩薩立像」も素晴らしかった。

 入り口は3階なんだけど、まず4階から展示が始まり、「第1章 傳三郎と廃仏毀釈」が出てくる。この宗教美術がもしかしたら一番いいかもしれない。続いて「国風文化へのまなざし」「傳三郎と数寄文化」となる。曜変天目はどこだという気持ちで見てしまうので、つい急ぐのが残念。3階に下りてきて、「茶道具収集への情熱」「天下の趣味人」となる。「曜変天目」と書かせるけど、普通は「窯変」である。要するに焼いた時の予期しない変化だけど、特に星の輝きのような模様になった物を日本で「曜変」と呼ぶ。中国の福建省建陽市で作られたというけど、こういうことは今調べたこと。世界で3つしかない。いずれも日本にあり、国宝指定。(もう一つ、重文指定のものがあるが、曜変ではないという説もあるという話。)一つが、今回の藤田美術館だが、もう一つが世田谷の静嘉堂美術館。三菱系の美術館だけど、今は改修中。両方の写真を並べてみる。最初が今回見たもの。
 
 これが案外小さくて、ちょっと「へえ」という感じがあった。もう一つがあるだろうということになるが、それは京都にある「龍光院」所蔵。大徳寺の塔頭だけど、一切公開しないという。国宝4つの他、建築も含めて多くの重文もあるが、特別公開もしないという。ということで、見られないから写真も載せない。「曜変天目茶碗」を見ると、確かに美しいのである。だけど、同時にそれは一種の「破格」の美でもある。デザインにシンメトリーが全くなく、偶然にできたものだからである。しかし、それを「破格」と見てしまうのなら、日本で作られた志野などの方がしっくりくるという部分はないだろうか。僕がどうしても感じてしまったのは、志野の破格の懐かしさだったとも言える。茶に素養も経験もない自分には茶道具のことは判らない。いっぱい並んだ茶道具を見て、これは判らないなと思った。自分は要するに、彫刻や工芸の一種として陶芸を見るしかない。

 日本で国宝に指定されている茶碗は数少ない。他に中国・朝鮮のものでは、大阪市東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗や孤篷庵に伝わる「井戸茶碗」などがある。しかし、日本の物では国宝は二つ。三井記念美術館の「志野茶碗 銘卯花墻」とサンリツ服部美術館(長野県諏訪市)にある光悦の「楽焼白片身変茶碗」である。この二つはどっちも見ている。驚くほど素晴らしいと思う。僕には評する言葉が出ない。やっぱり「曜変天目」より好きなのではないかと思う。写真を見つけて載せておく。前者が志野、後者が楽焼。それはとにかく、この展覧会は本来、最初の方をじっくり見るべきなのではないか。見応えのある日本美術の集成であり、昔の実業家はすごかったと改めて思う。
 
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エリック・サティ展

2015年08月20日 23時00分35秒 | アート
 昨日のことになるが、渋谷のBunnkamuraでエリック・サティ展を見て、ユーロスペースで「野火」を見た。映画の話は時間がかかりそうだから明日にして、まずは「エリック・サティとその時代展」。
 
 エリック・サティ(1866~1925)という人は、20世紀初頭のフランスで「音楽界の異端児」と言われた作曲家だが、後の時代の芸術に大きな影響を与えた。日本では70年代半ばころから注目を集めるようになったが(雑誌ユリイカが特集を組んだのが74年5月号)、最初の頃は聞いていても違和感の方が大きかった。いつの間にかCMにも使われるようになったりして、僕も違和感どころか「癒し」を覚えるようになり、今も一番聞いている音楽と言っていい。

 今回は「キャバレーから前衛へ」とうたい、19世紀末のキャバレー音楽時代から始まる。当時のポスター(ロートレックなど)も展示されている。その後、次第に前衛的な芸術家との交流を深めていき、ディアギレフのバレエ・リュスのため「パラード」を作曲した。これはコクトー台本、ピカソ美術というすごい顔ぶれの作品である。その舞台の様子も展示されている。また、マン・レイが「目を持った唯一の音楽家」と呼んだということだが、マン・レイ作がサティをイメージした作品も展示されている。

 このような20世紀前半の前衛的な芸術運動に関わりを持った面が中心的な展示になっている。もちろん譜面などの展示もあるが、それらは僕は見てもよく判らないので、どうしても絵などを見て回ることになる。そうするとフランスを中心とする前衛芸術の流れを見ることになる。その意味で、誰にも興味があるという展覧会ではないと思うけど、エリック・サティという名前に惹かれる人には避けて通れない。

 僕のいとこが音大に通っていて、サティという名前をよく聞かされた。70年代半ばには、秋山邦晴・高橋アキ夫妻を中心にして、エリック・サティの連続演奏会が開かれていた。音楽評論家の秋山邦晴(1929~1996)は当時「キネマ旬報」に「日本の映画音楽史」を連載していて、名前を知っていたし影響も受けた。御茶ノ水の日仏会館があった時代、そこでルネ・クレールの「幕間」を上映した時に見に行った記憶がある。その短編映画の音楽がサティである。それ以上に思い出深いのが、渋谷のジァンジァンで行われた「ヴェクサシオン」の演奏会。これは同じフレーズを840回弾くと指定されたピアノ曲だが、それを一晩ががかりで何十人かが演奏したのである。有名な作曲家やピアニストが続々と登場して、豪華な顔ぶれだった。朝の渋谷をすぐ帰るのがもったいなくて原宿まで歩いて帰ったような記憶がある。もう何年のことだか覚えていなし、検索してもよく判らない。70年代後半のことである。

 昔、新宿の伊勢丹に美術館があったころ、エリック・サティ展が開かれたことがあり、その時に買った高橋アキさんの弾くCDをいつも聴いている。そんな思いでがあるからでもないけれど、何人も持っているサティのCDだが、高橋アキの弾くサティが僕には一番しっくりするように思うのである。Bunnkamuraザ・ミュージアムで30日まで。
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ブリジストン美術館の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展

2015年03月07日 23時55分08秒 | アート
 東京・京橋にあるブリジストン美術館が本社ビル建て替えに伴い長期休館するということで、その前に「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展を開催している。3月31日からは展示替えがあり、青木繁「海の幸」なども公開される。(5月17日まで。)3月17日から31日は、学生無料ウィークと銘打ち、大学生、高校生が何度でも無料で入れるとのことである。フランスや日本の近代美術を中心に、魅力的なコレクションを誇っていて、今までにも見た絵が多いんだけど、数年間休館するなら見ておこうかと思った。フィルムセンターの近くなので、最近ずっとアジア映画特集に通ってるので、その前に寄るのに好都合。
 
 まず、最初の部屋にブリジストン美術館の開館(1952年)以来の歩みが展示されている。その前には彫刻の数々。あまり触れられないのだが、ここにはブールデルやロダンなどの近代彫刻、さらにエジプトやギリシャなどの古代彫刻がかなり多い。絵を見てると疲れてしまって、彫刻は通り過ぎてしまったりするが、すごくもったいない。さて、絵の展示室に入ると、モネシスレーセザンヌ等の素晴らしい絵が並んでいて、さらに名を知る画家の作品が続々と出てくる。名前は誰かなと心で思い出しつつ見ていくと、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、アンリ・ルソー、ルオー、マティス、ピカソ、クレー、モンドリアン等々、僕らが何となく知ってる画家の特徴に合うような絵が並んでる。逆に石橋の選択が、日本人好みを選んでいて画家の印象を作ってきた側面もあるのかもしれない。

 先に載せた最初のチラシはピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》(1923)という作品で、ピカソの新古典主義時代の代表作だという。これは1980年の収蔵品だという。それより印象派やポスト印象派の作品群が強い印象を残す。特にセザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904~1906年頃)は、前にも何度か見てるけど非常に力強くて、またいかにもセザンヌ作品というイメージ。

 1987年に購入したルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(1876)が絵葉書の売り上げダントツ1位だという。35歳のルノワールが出版業者のシャルパンティエに頼まれて描いた。ジョルジェットは当時4歳。父親は当時ゾラやモーパッサンの小説を出していたという。確かに実に愛らしい。一体、この子は近衛の後、どのような人生を歩んだのだろうと夢想を誘われる。1876年の絵で4歳だから、1872年生まれ。1914年の第一次世界大戦時には、42歳ということになるわけだが。

 その後、日本近代絵画、特に藤島武二、安井曽太郎、藤田嗣治、岡鹿之助等の名品が続々と出てくる。最後に現代美術の部屋もあって、ついじっくり見なくなってしまうのだが、これももったいない。

 ブリジストンというのは、もちろん世界的タイヤメーカーを作り上げた初代・石橋正二郎のコレクションに始まる美術館である。石橋は福岡県久留米の出身で、青木繁、坂本繁二郎と同郷である。若くして亡くなった青木作品の散逸を恐れる坂本のすすめで、青木作品を集め始めたのが始まりという。青木繁の絵は久留米の石橋美術館に収蔵されていたが、2016年9月をもって石橋財団から離れて収蔵品は東京に移るとされている。地方の名だたる美術館の役割をめぐって議論されているが、その是非はともかく、一度は見ておきたい絵ばっかりの展覧会。(チラシに割引券が付いてるが、ホームページにも100円引き券がある。)
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海老原喜之助展を見にいく

2015年02月11日 21時37分45秒 | アート
 横須賀美術館で4月5日まで開かれている海老原喜之助(えびはら・きのすけ 1904~1970)の展覧会を見に行ってきた。遠いので、車で行ったんだけど、話は逆で車で行きたい場所に行ってきたのである。(その話は最後に。)横須賀美術館というのは初めて行ったけど、横須賀も先端の方、観音崎に近い当たりで観音崎京急ホテルの真ん前あたりにあった。ここは昔泊まったことがある。その時は、翌日に浦賀のペリー碑などを見て回った。幕末の土地勘を得るために、一度は行きたい場所。
 
 海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。

 その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。

 戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
  
 さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。

 小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。
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須賀敦子展と石川文洋展

2014年11月18日 23時28分12秒 | アート
 神奈川近代文学館で、11月24日まで須賀敦子展ををやっている。そのことは知っていたけど、会期末が迫ってきて、これは逃してはいけないということで、今日横浜まで行ってきた。
 
 須賀敦子(1929~1998)が亡くなって、もう15年以上過ぎてしまった。イタリア文学の優れた翻訳者として知っていた須賀敦子という人が、「ミラノ 霧の風景」で突然読書界にデビューしたのは、1990年、すでに61歳になっていた。評判になり、一読、並々ならぬ力量に感嘆するとともに、その背景にあるだろう世界の奥深さに恐れを抱いたものである。続いて書かれた「コルシア書店の仲間たち」(1992)では、ミラノにあったカトリック左派の書店を舞台に、後に夫となるペッピーノ(ジュゼッペ・リッカ)との出会い、その家族との深いつながりを描いた。僕はこの作品に深く心を打たれ、何度も何度も読み返した。まるで映画「鉄道員」のような貧しい鉄道員一家に生まれた夫、60年代の熱狂と社会変革への熱い思いを共有しながら、やがて立ち行かなくなるコルシア書店。そしてわずか6年間の結婚生活を残して、あっという間に先だった夫。一度読んだら永遠に忘れられない世界。間違いなく、現代に書かれたもっともすぐれた文章表現だと思う。

 こうして20世紀の最後の10年を須賀敦子を読むことを心の支えにして生きていったわけだが、生前に遺した著作はわずか5作、1998年に69歳で亡くなってしまうとは思いもよらないことだった。「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」を書き、様々な翻訳、特にナタリア・ギンズブルグやアントニオ・タブッキ、そしてウンベルト・サバなどの素晴らしい詩の数々を遺し、あっという間に逝ってしまった。没後にも多くの著作が出ているが、生前の5作の印象が強い。僕は単行本で読み、文庫で読み、さらに全集で読んでいる。今は河出文庫に全集が入っているが、さすがにそこまでは買っていない。でも文庫版全集が出ているくらいだから、須賀敦子を心の糧にしている人は思いの他多いのではないか。今日もかなりの人が来ていたようだったし。

 没後に出た追悼本の中で、夫のペッピーノの姿などには接していたが、今回の展覧会では幼年時の芦屋や夙川(しゅくがわ)の住まいの写真、コルシア書店のあった場所に今もある書店(中のようすはほぼ同じだという)、聖心女子大の卒論、ローマ留学時代の写真、須賀敦子がイタリア語に訳した日本文学の数々(「春琴抄」「陰翳礼讃」「山の音」「砂の女」「夕べの雲」など多数にわたる。)、そして多くの書簡や本などなど、様々な展示物に目を奪われる。まあ、須賀敦子を読んでない人には何の意味もないし、説明のしようもないんだけど。

 神奈川近代文学館は、「港の見える丘公園」を元町・中華街駅からずっと歩いて行く。寒い北風の吹く日だったけど、空は晴れて気持ちがいい。まあ今は「高速道路がよく見える丘公園」だと思うけど。このあたりは東京の学校だと遠足でよく行くところで、僕も何回か行っている。自宅からはちょっと遠いので、あまり個人的によく行くところではなく、近代文学館も堀田義衛展しか行ってないような気がする。手前に大佛次郎文学館があり、前に一度行った。今回は他のところはすべてパス。その横に陸橋があり、「霧笛橋」という。大佛(おさらぎ)の作品名から付けた名前。その先に近代文学館。
    
 丘を下りて、ずっと歩いて地下鉄の日本大通り駅まで。けっこう歩きがいがある。最近、天地真理主演の「虹をわたって」という映画を神保町シアターで見たら、元町あたりに水上生活者がいっぱいいて、そこに家出した天地真理が転がり込むという設定だった。いやあ、70年代初期までそんな生活が残っていたのだろうか。(この映画は初見なんだけど、天地真理は結構ファンだったので楽しく見られた。)元町から中華街入り口を経て、県庁のところまで。県庁前のイチョウが黄葉の初めできれいだった。その角に「新聞博物館」で石川文洋写真展をやっている。石川さんは確か2004年に、都立中高一貫校の教科書問題で集会を開いた時に講演をお願いした。中高一貫化でなくなってしまった都立両国高校定時制の出身である。石川さんのベトナム戦争の写真は、何度も見ているけれど、同時代の沖縄の写真も展示されている。12月21日まで。この新聞博物館は一度は行っておきたい場所で、なかなか勉強になる。横浜に行ったら是非。
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素晴らしきクーデルカ展

2013年12月03日 23時23分17秒 | アート
 チェコ出身の写真家ジョセフ・クーデルカ(1938~)の全貌を見渡すジョセフ・クーデルカ展国立近代美術館で開催中。1月13日まで。今日見たんだけど、とても素晴らしいので紹介。この人は1968年にソ連が「プラハの春」をつぶしたチェコスロヴァキア侵攻事件の写真を撮った人である。東欧諸国の「ジプシー」を撮りに行っていて、侵攻前日に帰国していた。その写真は侵攻一年目の1969年に外国に持ち出され、大変大きな反響を呼んだ。その写真は2011年に東京都写真美術館で公開され、「クーデルカ展とセヴァンの地球のなおし方」の記事で紹介した。今回はその時の写真もあるが、その前、その後の写真が大部分を占める。報道写真家ではない、クーデルカの本当の偉大な業績が初めてまとまって公開された。
 
 全部で、7つのパートに分かれているが、圧倒的なのは「ジプシーズ」と「カオス」。最初と最後である。初期作品もあり、学生時代に中古カメラで撮った時から、彼は「作家」だったことが判る。実験的作品も撮りながら、彼は主に二つの領域で自分の写真を確立していった。一つは「劇場」写真で、演劇舞台のエッセンスを伝える写真群。60年代プラハで演じられたシェークスピア、チェーホフなどの舞台と俳優を永遠に伝えている。もう一つが「ジプシーズ」で、チェコスロヴァキア各地やルーマニアなどの「ジプシー」の人々を訪ね歩き、その生活のひだ、喜びと哀愁のドラマを写真に遺した。トニー・ガトリフやエミール・クストリッツァの映画で見た、東欧の「ジプシー」の生活とエネルギーを感じることができる。質量ともに圧倒的で、ドラマチックな写真の数々二はすっかり魅了された。(なお、原題は英語で「 Gypsies」。)

 そこで「侵攻」が入り、クーデルカは1070年に出国したまま帰らなかった。ヨーロッパ各国を渡り歩き、イギリスが長かったが、その後フランスにわたりフランス国籍を取得した。その間の各国で撮った写真が「エグザイルズ」としてまとまっている。うっかりするとここを見逃すが、会場に置いてあったカタログを見ていたら、こんな写真があったかなと思い、再び見直した。「ジプシーズ」に圧倒され、また最後の「カオス」が素晴らしいので、うっかり簡単に通り過ぎてしまうが、この「エグザイルズ」は一編一編が素晴らしい短編小説を書き始められるような写真である。見てると、スペインやイタリアやアイルランドで、どのような自然の中で人々の生活が営まれているか…。一つ一つの写真が深い。

 最後に「カオス」であるが、英仏海峡地帯を撮るときにパノラマカメラを使ったのをきっかけに、ヨーロッパの山奥都市の廃墟、イスラエル、レバノンなどの風景写真をパノラマで撮っていく。これは黙示録的な世界で、非常にダイナミックな写真である。「文明論的」と解説にあるが、文明論というか、昔流行った「終末論」的というか、人間以前または人間以後の世界というべき壮大な写真もある。しかし、イスラエルやレバノンでは再び戦車のある風景もパノラマで撮っている。このように実に様々な写真を撮ってきたけれど、いずれも見る者に鮮烈なイメージを喚起する写真。なお、同年生まれの日本の写真家、森山大道の「にっぽん劇場」を2階で展示している。もちろん常設展示も同時に見られるので、近代日本の名作を時間があるなら見ることができる。12月7日(土)には、飯沢耕太郎(写真批評)氏の「ジョセフ・クーデルカの写真世界」という講演も予定。時間:14:00-15:30(予約不要)。本人にも会った時のエピソードがあるという。
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チェコの映画ポスター展

2013年11月15日 22時52分43秒 | アート
 国立フィルムセンターで行われている「チェコの映画ポスター展」を12日に見た。非常に面白かったので、その日に紹介記事を書きたいと書いておいた。特定秘密保護法案の記事で遅くなったけど、12月1日までなので紹介しておきたい。
 
 僕が紹介するのは、この展覧会の面白さを多分多くの人がまだ知らないのではないかと思うからだ。8月28日からやってるけど、映画や美術、あるいはチェコ文化に関心がある人でも見てない人がほとんどだろう。その理由の一つは、場所が映画上映が中心のフィルムセンターの7階にある展示室だからだろう。そこは実質は「日本映画博物館」で、日本の映画の歴史、貴重な映画のビデオ上映、映写機材、脚本やポスターなど映画史の展示を行っている。とても面白い博物館で、映画ファンなら一度は行っておきたい場所だ。その展示室の最後に特別企画コーナーがあり、このポスター展をやっている。そこでは年間3回程度の企画展示を行い、前回はスチル写真展、次は「小津映画の図像学」である。

 入場料は200円だけど、上映がある日の映画半券を見せると100円になる。(大学生、シニアは70円のところが、40円。高校生、障害者無料。映画上映は3時と7時だが、展示室は6時で閉まるので、午後3時上映を見た場合しか意味がないが。)フィルムセンターの上映は、会場の改修で8月から10月いっぱいまで中止されていた。僕が12日に見たのは、その日の3時の回の上映を見たからなのである。常設展示は何度も見てるから、最近は大体いつも軽く通り過ぎる。チェコやチェコ映画に関心はかなりあるのだが、常設展示は見なくてもいいので、上映再開まで見に行かなかったわけである。

 それはまた、展示内容に誤解があったのである。それは「チェコ映画のポスター」展と思い込んでいたのである。チェコ映画は僕は20本くらい見てるのではないかと思う。それでもチェコの映画だけかなと思うと、見なくてもいいような気がしてしまう。チェコは戦後長くソ連圏にあり、1968年の「プラハの春」の悲劇を経て、1989年の「ビロード革命」で民主化されるまで長く苦難の時代が続いた。今国立近代美術館でやってる写真家クーデルカ、東京五輪の女子体操金メダルのチャスラフスカなどの記事を以前に書いたことがある。

 映画では、後にハリウッドに行き「アマデウス」を監督するミロス・フォアマン、チェコに居続け困難な中で映画製作をつづけたイジー・メンツェルなどの監督を生んだ。しかし、それ以上に有名なのは、チェコアニメの素晴らしさで、カレル・ゼマンイジー・トルンカなどの巨匠がいる。今回の展示ではそれらのチェコの名匠の映画ポスターもある。それらはとても興味深い。しかし、チェコ映画より興味深いポスターがいっぱいあったのである。「チェコ」の「映画ポスター展」なのである。例えば次のポスターは何の映画だと思うだろうか。
 
 何と前者は黒澤明監督の「羅生門」である。後者は羽仁進監督の1965年公開「ブワナ・トシの歌」。東アフリカに研究で赴いた日本人をドキュメンタリー的に描いた作品で、主演は渥美清。渥美清の顔と牛が発想のもとにあるイメージかと思うと、実に面白い。「羅生門」も、日本人なら三船敏郎、黒澤明、芥川龍之介などの顔がすぐに浮かんでくるので、ここまでシンプルなポスターは作らないだろう。これは日本映画にインスパイアされた「現代美術」と呼んだ方がいい。では、次。
  
 最後は画像と字から判る人もいるだろう。「ターミネーター」である。でも、前の二つは難しい。前者はフェリーニの「甘い生活」、真ん中はゴダールの「女は女である」。実に面白いポスターだと思う。そもそもこの展覧会のポスターに使われている「髪の毛に覆われた女」、これは何の映画かと言えば、ロベール・ブレッソンの「やさしい女」という作品。ドストエフスキーの原作だけど、映画や原作を超えた素晴らしい幻想画だと思う。(もっとも映画は見ていないが。)

 このように、この展覧会はチェコ映画の展示ではなく、映画を発想のもとにした素晴らしい現代美術、ポスターの展覧会なのである。日本映画ももっとたくさんある。「ゴジラ」「切腹」「怪談」など、50年代、60年代の作品がほとんど。世界映画も「シェルブールの雨傘」「イージーライダー」などあっと思うような作品である。映画に詳しい人なら、ポスターを見て映画題名を当てる一人ゲームを楽しめる。日本の60年代には、ATGの映画や寺山修司、唐十郎などの演劇のポスターに、今見ても素晴らしい熱気を感じる作品が多い。同時代のチェコでも同じような熱気があふれ、多分それは「プラハの春」につながる地下水となったのではないか。これらのポスターを作っていた人の思いを深く感じる展覧会だと思う。是非、映画にもチェコにもあまり関心がない人にも、絵やイラストが好きな人には見逃せない企画。
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「石子順造的世界」ー絵を見に行く③

2012年01月08日 01時27分41秒 | アート
 さて、「ベン・シャーン展」を見た後、葉山から東京都府中市に足を伸ばし、府中市立美術館へ。東京の東北に住んでる僕からすると、東京の西の方で同じ方向に見えるけど、これが遠い。ここも車じゃないと行きにくい感じ。家から葉山までと、府中から家までに比べ、ずいぶんかかった。小島慶子「キラ☆キラ」を聴きながら。

 そこでやってるのは、「石子順造的世界 ―美術発・マンガ経由・キッチュ行」という展覧会。2月26日まで。


 石子順造?Who? と言う人がほとんどでしょう。1928年~1977年。もう早世して大分立ちます。僕は石子さんの「戦後マンガ史ノート」(紀伊國屋新書)を愛読しました。

 チラシにある説明を引用すると、「高度成長まっ盛り、テレビにマンガにビートルズ、学生運動アングラポップ、反芸術にハプニング、うねりにうねった喧噪の昭和40年代を一身に引き受けた評論家がありました。美術とあわせてマンガを論じ、そうかと思えばキッチュを語る。10年ほどの活躍を残しこの世を去った個性あふれるこの男、石子順造とは何者であったのか。」

 第1部、美術編。68年の「トリック・アンド・ビジョン展」を復元しながら、赤瀬川原平、高松次郎、横尾忠則らの作品を展示しています。次に、マンガ編。ここの目玉は、つげ義春「ねじ式」の原画公開です。最後が「キッチュ編」。「ゆ」ののれんをくぐって入ると、大漁旗やらモナリザのパロディ、招き猫、銭湯の背景画などなど、通俗的な雑貨物があふれています。ここだけ撮影可。

 「ぼくはキッチュといわれる諸現象の底に隠されているはずの、民衆の生活様式を発見したい。きっと、それはある。ないなら、歴史は、民衆にとってついに季節の交代でしかないだろうから。」

 ということで、面白いような、もうありふれているような。「ねじ式」は僕にとって、ゴダールの「気狂いピエロ」と同じくらい大きな影響を受けた作品です。でも基本的に、マンガは複製芸術なので、原画を見ても貴重だとは思うものの新しい発見がいっぱいあるわけではない。僕にとっては。まあ、数百年たてば国宝になるものかとは思いますが。

 キッチュ編も、今では「民衆芸術の宝庫」という問題意識は薄れてしまった感じがする。今では、商品として、あるいはマニアのコレクションとして存在することが許されてしまって、そこに既成の芸術観念を壊す起爆剤を見つけることができなくなってしまったというべきでしょうか。

 そういう意味では、一番面白いのが「美術編」だったけど、それも美術の意味を壊す「反芸術」が刺激的なのではなく、「あの反抗の季節」が懐かしいというような感じ。ほんと皆一生懸命「面白いこと」を考えて、時代のイメージを広げていました。アングラ演劇、アングラ映画が、この真横にあった。ちなみに、アングラとは、「アンダーグラウンド」の略ですね。

 僕は赤瀬川原平さんがすごく好きで、昔(旅の途中でもあったので)名古屋で開かれた大回顧展にも行っています。本も大体読んでいて、20年くらい前だけど「課内クラブ」なんてものが学校にあった頃に「路上観察クラブ」を作った年があるほど。赤瀬川さんは、お札のパロディで刑事裁判になったりした。でも年をとっていろいろと変わっていった。その変わり具合に関心があります。石子順造さんは70年代に亡くなってしまったけど、その後80年代以後の30年以上がありました。そこがすっぱりと抜け落ちて、突然60年代、70年代にタイムスリップしたような展覧会で、若い人が見て感想を聞かせて欲しいなあ。
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ベン・シャーン展ー絵を見に行く②

2012年01月06日 22時10分38秒 | アート
 神奈川県立美術館葉山館で開かれている、「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト―写真、絵画、グラフィック・アート―」展に行って来ました。遠い。初めて。車で行く方が早い。首都高から横浜横須賀道路を逗子で降り、逗葉新道を通って御用邸のそば。こんなところだったのか。海から相模湾の向こうに富士山が良く見える。(写真では良く撮れないけど。)
 (入口近くにある李禹煥の作品)

 ベン・シャーンって誰だ?という人も多いと思います。 1月号の「芸術新潮」がベン・シャーンを特集していて、昨日は買わなかったんだけど気になって今日買ってしまいました。素晴らしい特集ですが、そこでもグラフページの最初に「ベン・シャーンを知っていますか?」とあります。僕にはすごく大切な画家で、何しろ1970年に国立近代美術館で開かれた、日本で最初の本格的なベン・シャーン展を見に行っているのです。僕が自分のお金で見に行った初めての本格的な美術展。その頃映画も見始めて、「イージーライダー」「明日に向って撃て!」などをロードショーで見てるんですが、そういう時期にとても大きな影響を受けました。その時のカタログを引っ張り出して来たら、チケットと絵はがきが一緒になっていました。今回も出ている絵画の代表作「スイミング・プール」の絵はがき。


 そのチケットに「アメリカの詩と哀感」とあります。僕も当時はそんな感じで見ていたと思います。ホッパーやワイエスなんかもそうだけど、世界で一番経済的に発展した、移民で作られた国の中にある、孤独と憂愁。リースマンの「孤独な群衆」とかテネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーの演劇、シャーウッド・アンダーソンやスタインベックの小説なんかの、絵での表現。いや、中学生だったから、そんな難しいことは判らなかったけど、小説や映画にひかれ始めていた自我の目覚めの時期の自分の気分にあっていました。

 と同時に、むしろベン・シャーンは社会的な画家と思われていて、冤罪事件のサッコとヴァンゼッティ事件を描いたり、大恐慌下の農民、労働組合や反ナチスのためのポスターなどが出ていました。歴史が大好きで、文学や映画と同時に社会問題への意識が芽生え始めていた自分の中で、ベン・シャーンのように芸術を通して社会的メッセージを伝えるのはとても魅力的に見えました。こういう、左翼でありながら左翼勢力とぶつかる、具象でありながら抽象的なグラフィックに近づく、絵だけでなく写真、ポスター、版画、絵本などいろいろ手がけるという姿が、僕はとても好き。

 ということで、「ずっと好きだったんだぜ」(©斉藤和義)というベン・シャーン。だから見に行くわけだけど、その行為は「僕の中のベン・シャーン像」を再確認するということになってしまいます。そういう意味では、僕にはあまり発見がないわけ。これは他の有名な画家の場合も大体同じようなもんで、よほど好きな画家でない限り見なくてもいいかなということになります。今回の発見は、写真がいっぱい出てること。そして写真を絵に再構成した作品が、両方展示されていること。特に恐慌中に政府の仕事で各地の様子を写真に撮っていて、それを絵にしています。両者の構図や人物イメージが少し違う。絵の方が哀愁というか、人物の奥行きが深い感じ。

 もう一つ、レコード・ジャケットが出ています。(これに関しては、「芸術新潮」を参照。)シュバイツァー(あの「アフリカの聖者」でノーベル平和賞受賞者です)の弾くバッハ、ベートーヴェンの第九、ジャズやクルト・ワイルの「三文オペラ」などなど。これが素晴らしい。また、これは70年のカタログに載ってるけど全く忘れていたのが、リルケ「マルテの手記」の版画集(リトグラフ)。これが素晴らしいんで、リルケを読み直したくなりました。20世紀前半のドイツの詩人ですね。リルケなんて、今も出てるのか?今日、本屋で探したら、新潮文庫で「リルケ詩集」「マルテの手記」「神さまの話」、岩波文庫で「リルケ詩集」「ドゥイノの悲歌」「マルテの手記」がちゃんと生き延びていました。(読み直したいと思います。)

 ところで、この版画集「マルテの手記」、「芸術新潮」の「ベン・シャーンからのメッセージ 3・11後の福島で考える」という荒木康子さん(福島県立美術館)の文章を読むと、震災を経て再開した福島県立美術館の常設展示に選ばれました。テーマは「ふるさと・祈り・再生」。「人々、草花、動物、星、海、街、出会い、別れ、再生、生、死、様々な物事の先に一篇の詩が生まれる。」「この版画集は、観る者に、これまでのいろいろの出来事を思い起こすこと、そしてこれから先に思いを馳せることを同時に促す。」

 そして、ベン・シャーンは良く知られているように、「ラッキー・ドラゴン」シリーズを描いた人です。ラッキー・ドラゴン、なんだか判りますか?「第五福竜丸」です。それでも知らない人もいるかな。1954年3月1日、世界最初の水爆実験で、アメリカの設定した禁止海域外で被害を受けた焼津の漁船です。久保山愛吉さんが亡くなることになります。原水爆禁止運動が始まるきっかけになりました。第五福竜丸の船体は、保存運動がおこり東京都の「夢の島公園」に展示館ができました。「無言歌」でも書いたように、自国の間違いを直視する勇気と誠実を学びたい。

 ベン・シャーンと言う人は、実はアメリカ生まれではなく、1898年にロシア帝国(現リトアニア)に生まれたユダヤ人で、父親はシベリアに流刑となり、一家はバラバラにアメリカを目指し、1906年にアメリカに移住しました。貧しい移民で画家を目指すことはできず、石版画製作所で徒弟修業をしながら夜間高校をへて大学に通ったという経歴の人です。そうした、繁栄するアメリカではなく、底辺の労働者階級から出てきた画家なのです。東欧出身のユダヤ人的な文化背景が、都会の中の孤独を描く画風にも表れ、また「マルテの手記」にもにじみ出ているように感じました。1969年に死去。

 今、「3・11後の日本」でベン・シャーンを見ることの意味を考える展覧会でした。
 葉山館は、1月29日まで。その後、名古屋市美術館(2.11~3.25)、岡山県立美術館(4.8~5.20)、福島県立美術館(6.3~7.16)と巡回します。福島で再見しようかな。
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「ぬぐ絵画」展ー絵を見に行く①

2012年01月05日 21時42分49秒 | アート
 国立近代美術館の「ぬぐ絵画展」を見た。15日(日)まで。これは素晴らしく刺激的な展覧会だった。明治初期から戦前までの、日本で描かれたヌード美術をまとめて展示して、「日本の近代とは何だったのか」を考えてみようという企画。今まで見た展覧会の大部分は、誰か一人の画家の生涯を追って回顧するというようなスタイルだったわけだが、このようにあるテーマに沿って絵を集めた(彫刻や写真もあるが)展覧会を見るのは珍しい。

 そもそも「ヌード」とは何か?古代ギリシアでは、「ミロのヴィーナス」のように女性のヌードをモデルにしたことが明らかな彫刻が作られていた。当時のオリンピックは男だけが裸で競っていたわけだが、その男がスポーツする姿の彫刻も多く作られていた。これは「現実の人間の欲望を描く」のではなく、「理想化された人間の素晴らしさ」を再現しているわけである。そのような「肉体賛美」は、キリスト教の「勝利」で抑圧された。人間ではなく神の世界を描くことが美術の役割とされた。それがルネサンスをきっかけにして、再び「人間復興」の動きが始まる。ミケランジェロの「ダヴィデ像」などが典型。だから、「ヌード」とは「人間の本性(肉体)を理想化して美を主張するヒューマニズム」だった。

 でも日本では、そうした思想的葛藤はなかったから、裸を描く美術と言われたら、日本の伝統の中にある「浮世絵の春画」しか思い浮かばないわけで、「卑猥で社会秩序を脅かす」「風俗壊乱」としか思われなかった。そんな日本の現実の中に、ヨーロッパに留学した日本人画学生が、ヌード女性モデルのデッサンが絵の基本と言うことで、ヨーロッパの主題である「ヌード」を持ち帰った。この頃のごく初期のヌードはとても興味深い。「近代との格闘」というのが明らかに読み取れるので、まるで「もう一つの坂の上の雲」とでもいうような深い感慨を覚えた。「ヌード」だから欲情するというような絵ではなく、理想化された近代を描いているんだという気概を感じる時代。

 明治期に一番活躍したのが、黒田清輝。黒田清輝は偉大だったなあと改めて感じる。警察を巻き込んで論争となった作品も展示されている。「知・感・情」(重要文化財)という三枚の超大作は特に興味深い。解説によれば、日本人モデルを使っているが、実際の姿より身長を高くして、当時の日本女性には見られないような「7.5頭身」に描いているという。「ヌード」というものが、理想化された近代ヨーロッパを描くものだということがよく判る。現実の日本人女性の「貧相な肉体」をリアリズムで描くことではないのである。男も身長が低く、日本兵は精悍だけど背が低くて欧米諸国と並ぶと見劣りがした時代である。

 ところが黒田の弟子たちの時代になると、もう「はだかを壊す」時代となる。次の時代が始まったのである。萬鉄五郎のように、おかしなポーズ、ロボットのような造形。さらに熊谷守一、古賀春江の描いたヌードが展示され、日本女性の様々なフォルムが示される。もう明らかに、ヌードを通してヨーロッパを見るのではなく、ヌードは自分のヴィジョンを描くテーマの一つになっていく。そして、昭和になると、「もう一度、はだかを作る」と題される展示が示される。そこでは安井曽太郎梅原龍三郎らの絵が展示される。そこにあるのはもちろんヌードだが、見る側も梅原独自の世界を味わうことだけを目的として絵を見ることになる。ヌードは桜島や紫禁城と同じような梅原芸術のジャンルの一つになる。見る我々はヌードではなく、梅原を見るという意識で絵を見るのである。そこが黒田清輝の時代と違う。安井、梅原の近代洋画史上の偉大さを改めて認識させられた。(しかし、その「近代洋画」の「近代」は、北京風景を梅原が描くことに象徴されるように「帝国の近代」であった。ということを常設の戦争画展示で確認することができる。)

 ところで、日本の現実の中には、女性が立って活躍すること自体があまりなかった。野良仕事と台所仕事位である。「ヌードの農婦」では「絵にならない」。上中流夫人(モナリザもマハも上中流女性で、労働階級の女性ではない。)が日本で絵になるとすれば、お茶やお花などだろうが「花を活ける裸婦」という絵は現実味がなさすぎる。第一、座った姿勢ではデッサンも難しく、あえて人間を裸で描く意義が薄い。日本の現実を生き生きと描くには、小津安二郎の映画のような「ロー・アングル」で「畳の視点」で描くしかないのか。小出楢重は、ヌード女性を机にもたれて立たせると、日本では「女権拡張を演説する女性」みたいになってしまうというようなことを言ったそうだ。女性があえて立ってモデルになるということ自体が、「ある主張」めいてしまうという現実があった。

 一方、女性が裸であったり、労働することが不自然ではない場が日本には二つあった。それは「浴場」と「海女」である。だから日本画の主題としては、「湯浴みする女」とか「髪結いの女」とか「海女」とかが結構あるのである。それは常設展示の中で示される。そこでは、肉体の力感を再現する洋画と違い、ヌードの中に「ほのかなエロチシズム」が許されていた。そういう近代洋画と日本画の思想的な「立ち位置」の違いも興味深い。

 女性キュレーター(展覧会企画担当の学芸員みたいな職を指すらしいけど、よく判らないけどね、自分で書いてても)の企画した素晴らしい着想の展覧会で、特に芸術や社会問題(女性問題を含む)に関心が深い女性におすすめ。何だかヌードばかりなんて見たくないかもと敬遠するともったいない。実は自分も、ちょっとそう思って見ないでいたが、見逃さないで良かった。15日までである。850円。常設と工芸館も入れます。ちなみに高校生は「ぬぐ絵画」も含めてすべて無料。(他の国立美術館も無料)東京メトロ東西線竹橋下車ですね。
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梶芽衣子トーク&ライブ

2011年11月23日 00時05分21秒 | アート
 昨夜は日比谷図書文化館で、梶芽衣子のトーク&ライブ。これ、最高でしたね。ここ数年で一番面白いトークショー。もっとも昔の梶芽衣子の映画をみていないと面白くないと思うけど。梶芽衣子、本名太田雅子は神田の生まれで、日比谷公園でアイスクリームを食べながら散歩中にスカウトされたという。当時は日活本社が日比谷にあり、上部は日活ホテルになっていた。今のペニンシュラ・ホテルのところで、裕次郎・北原三枝の結婚式をやったとか、いろんな日活映画のロケに使われたとか、映画の本によく出てくる。ということで、梶芽衣子は日比谷に縁があり、都立日比谷図書館が千代田区立日比谷図書文化館にリニューアルされた記念の公演である。

 まあ、還暦をとうに過ぎたというのに、かくも元気ではつらつとしてビックリ。数日前に階段から落ちて怪我したということだったけど。だから目元を保護するサングラス、黒づくめの服装に真紅のハンカチが胸元にあり、素晴らしい。あの「さそり」シリーズの衣装も自分で考えたそうだが、衣装も演技の一環というライフスタイルを貫いている。お酒は全く受け付けない体質だそうだが、トークはざっくばらんでとても面白く、さそりの無言スタイルの印象とは全然違う。タランティーノの「キル・ビル」で梶芽衣子の歌が流れるが、タランティーノの来日時の契約には「梶芽衣子に会わせる」が入っていたそうで、帝国ホテルにいったら、30分間握手した手を離されなかったとか。70年の「反逆のメロディ」で原田芳雄と共演するが、それは沢田監督が日活以外の俳優を探していて、梶芽衣子がテレビで見た原田を推薦したのだという。

 梶芽衣子の特集がこの夏に銀座シネパトスというところであって、全部は見てないけれど数本を見た。さそりシリーズも何本か見直したし、「無宿」(やどなし)とか「修羅雪姫」も見たが、代表作の「曽根崎心中」も33年ぶりに見た。増村保造監督のATG作品だが、これで主演女優賞を総なめした宇崎竜童が黒メガネを取って時代劇に挑み、二人の破局的な恋の道行が圧倒的な情感で描かれる。近松はいつまでも新しいと思ったが、この原作さがしの苦労は大変だったという。増村監督と梶芽衣子で撮ることだけ決まっていて、松本清張や黒岩重吾やいろいろ読みふけり、ようやく決まったが、完全主義の監督に冬の撮影に辛さ。モントリオール映画祭で受賞した後、ニューヨークで上映したら、宇崎竜童のロック調の音楽が「どうして音楽だけ、われわれのものを使うのか」と質問されたとか。当時見た実感では、大ヒット中のダウンタウン・ブギウギ・バンドの宇崎が素顔で熱演して、さらに現代調音楽をつけたことがとても新鮮で成功していた。今年31年ぶりに歌を吹き込みCDを出したが、それは宇崎竜童の曲ばかり。ではこの間親密だったかというと、撮影最終日以後全く会うこともなく、今回突然電話したのだとか。

 梶芽衣子の芸名になる前に、本名で「夜霧よ今夜もありがとう」などに出ていた。今見ると、太田雅子時代から僕は好きで、日活ニューアクションの「野良猫ロック」シリーズなど本当に大好き。ただ同時代的に見たのは「さそり」シリーズから。あの冷たく鋭い目つきの黒づくめの造形が、連合赤軍事件以後の「内ゲバ」に明け暮れた「鉛の時代」の心象を形作っている。最後の歌が「怨み節」。愉快なトークと「怨み節」が聞けて幸せな一夜でした。
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