香取神宮
~「身は捨てても名利は捨てず」~
☆初めに☆
GWの福満寺訪問後、我慢できずに香取神社本宮となる「香取神宮」に馳(は)せ参じました。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の顛末(てんまつ)をうかがいたいと思って参ったわけですが、そこで待っていたのは、武術の祖・飯篠長威斎(いいざさちょういさい)でした。
自分の無知の反省も新たに、宮本武蔵そして柳生新陰流を改めて紐(ひも)解きました。
☆境内☆
「いやあ、普段の休日なら駐車場は30分待ちなんだよ」
と少ない人出を嘆くのは、大鳥居前のそば屋さんだ。普段は入れないという駐車場は、それでも一杯だった。
境内にお参りの人たちは、確かに多くない。いつもと比べれば、とてつもなく少ないのだろう。神職をつとめる人たちの姿は全くなく、お守りなどを扱う神楽殿が休日というのに閉まっている。巫女さんがひとり、御神籤(おみくじ)箱のお金を回収していた。廃仏毀釈どころではなかった。
☆飯篠長威斎☆
やがて案内標識に「飯篠長威斎の墓」を見いだし、驚いた。灯籠の右手に見えるのがお墓。
「常陸国鹿島・香取の社人ども、明神の教えとして流々を立てて」(『五輪書』「地の巻」)
「香取の社人」こそ飯篠長威斎である。忘れていたというか、頭になかった。この地で飯篠長威斎が、香取神道流を開いたのは南北朝時代。百年後の室町時代、近くの常陸(ひたち)鹿島で、塚原卜伝が鹿島神道流を開いた。
武蔵の背後からの攻撃を、卜伝が鍋蓋でハッシとさばく有名な話は、武蔵が誕生した時すでに卜伝はこの世になかった、というジョークまがいの話で誰も知るところだろう。
☆武蔵☆
鉄砲が伝来し性能も向上する。しかしこの武器は、日本ではついに成長を見ない。倒幕軍の銃火器が、幕府より圧倒的に優れていたのは事実だ。しかし鳥羽伏見の戦いにおいて、近藤勇は「薩摩軍の初太刀(しょだち)にくれぐれも心せよ」と言っている。これは薩摩示現流の袈裟懸(けさが)けのことで、一気に攻め込み斜に切り下ろす攻撃は油断がならん、と言っている。大砲/銃器の戦略はもちろん欠かせなかった。しかし生身(なまみ)の白兵戦の展開があったことを、この事実は示している。
これらの事実をヨーロッパでは日本人の不可解とされ、「なぜ日本人は銃を捨てたか」が研究されて来た。戦国時代、人馬が入り乱れた局面でも、馬を攻撃することは違反行為だったり、武器のない組み打ちは敵味方を問わず見守らないといけなかったとか、多分に「していいこと悪いこと」が散見される。文献からは鉄砲が「畜生相手に使用するもの、むやみなものではない」ことがうかがえる。
『五輪書』と時を同じくする箇条書きを思い出す。
「身は捨てても名利は捨てず」(武蔵『独行道』より)
命よりも武士としての矜持(きょうじ)が肝心だという。もうひとつ。
「兵具は格別、余の道具は嗜(たしな)まず」
勝手に要約してしまえば「刀(得意技)があればいい」ということだ。これを見て私は、伝説の宮大工・西岡常一(この方の登場を願うのは、これでもう三回目か)の、
「自分に合った刃物を見つければ、仕事は変わる。どんな難しい仕事でもできる」
を思い出す。さあ稽古(けいこ)をしましょう。
☆石舟斎(せっしゅうさい)☆
最後に『正伝・新陰流』より、柳生石舟斎の「兵法百首」からふたつ。
「兵法にふしぎ奇妙はおほき世を/我のみとおもふちえぞかなしき」
謙虚に修行なさい、ということだ。
「兵法はうかまぬ石の舟なれど/すきの道にはすてもおかれず」
自分の石舟斎の名にたとえて、終着点のない修行だが修練すれば精進する、という。さあ稽古をしましょう。
☆後記☆
繰り返しますが、油断がならないのはウィルスばかりではありません。ひとつは「コロナにマスクは役に立たない」「42万人が死ぬ」等と、かつて表明した専門家たちです。この発言の「言い訳」をする責任があるのです。もうひとつは、それに疑義をはさんだ専門家もいるというのに、「予防/安全のため」なのでしょう、かたよった情報を垂れ流し続けたメディアです。人の密になる場所をあさり、密になる時間を待ち、「自粛しない人たち」を報道した姿勢も看過してはいけません。「自粛警察」の始まりは、ここにありました。
☆ ☆
学校始まります。生徒手帳用の写真撮影があるからと、床屋に行った頭を見せる入学前の男の子。夜更かしが習慣になったけど、ラインは途中から「切っちゃう」という女の子。そして、修学旅行をさっさと中止にする学校、何とかしようと話し合いを続ける学校。そんな学校に「必要なものがあったら」という、柏市からの要望聴き取り書が届きました。議員さんも動いてくれたようで、良かった。
若葉のお庭。柏市のケーキ屋さんです。
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