実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

新しい暮らし  実戦教師塾通信四百三十八号

2015-04-17 12:31:01 | 福島からの報告
 新しい暮らし
     ~変化したものしないもの~


 1 「神様が昇って来んだよ」

            
 ついこの間までシートをかぶっていた建物は、春の光を浴びて堂々とそびえていた。建物のそばを国道6号線が走り、ここ久之浜から双葉方面に北上する車が流れていく。
 おばちゃんの部屋が4階だということだけは分かっていた。なんとかなると思って4階の廊下を歩くと、あったあった。入口のブザーで出てきたのは若い女の人だった。
 私が戸惑っていると、
「あれ? 来たの?」
おばちゃんは奥から、私を別な人の名前で呼んだ。
 安心した私は、どうぞの声も待たず上がり込んだ。二人の若い人はヘルパーさんで、部屋の掃除をしていた。私が近づくと、おばちゃんはようやく私のことが分かったようだ。あら、と両手を打って喜んでくれた。すぐにお茶を用意するおばちゃんの回りは仮設住宅の時と同じだった。道具とお茶請けとごみ箱が全部「上半身の動ける範囲」に納まっている。そうして、復興住宅にすでに引っ越した皆さんのように、
「広くなったけど、外は何も見えねえ」
と言うのだった。
「でもよ、朝は、山の向こうに神様が昇って来んだよ」
と、嬉しそうに言った。窓は東に向いていて、向こうの山のまた向こうの海から太陽が昇って来るのだ。
            
            4階からの眺め。山の向こうに海がある
「あんたらも呼ばれろ」
おばちゃんはヘルパーさんたちにそう言った。何度言ってもためらいがちな彼女たちに、おばちゃんはとうとう大声を出すのだった。みちの駅よつくらで私が買ってきた饅頭(まんじゅう)を食べながら、
「この人たちは私たちの恩人。震災のあと、ずっと味噌と醤油を持って来てくれてよ」
と、ヘルパーさんたちにしみじみ言う。おばちゃんの話を切り換えないといけない。
 せっかくの引っ越しの直前、具合を悪くした別なおばちゃんがいる。大好きなおばちゃんだ。そのおばちゃんは、娘さんのところに戻っていた。もうホントにいい年なので、私はもしかして、と縁起でもないことを案じていた。
「それが昨日いきなり電話でよ」
とおばちゃんは笑った。
「また元気な声でよ」
この建物に無事、引っ越してきたのである。嬉しかった。残念ながらこの日は、送り迎えつきの美容院にパーマをかけに行ったという。でも良かった。饅頭をひとつ、おばちゃんにとっといてね、私はそう言えるのが嬉しかった。
 おばちゃんに借りた毛筆で、私はパーマ外出中のおばちゃんに手紙をしたためた。
「いい字を書くんだね」
ほめられた。そしてパーマで留守中でも、開けっ放しの玄関から「投函(とうかん)」したのだった。

 2 中間貯蔵施設
 中間貯蔵施設に関して、特に首都圏ではあまり報道されない。地元紙でしかあり得ない記事を見てもらおう。もう一カ月も前だが、明らかになった中間貯蔵施設予定図(3月10日『福島民友』)である。
            
赤が10万ベクレルを超える廃棄物の容器で、オレンジが8000ベクレルを超える廃棄物の容器である。それぞれふたつあるのは、北の双葉町と南の大熊町で分担するようにしたのだろう。2400人に上ると言われる地権者は、土地の「売却」か「貸付」で別れている。売ってしまったら、それが「中間貯蔵」でなく「最終処分場」となってしまうという危惧から、多くの地権者は売却に踏み切らない。
 建設受けいれの前に廃棄物の搬入が始まっていることはここにも書いたし、ニュースでもご存じと思う。ここに地権者会長の発言を書いておくことは大事だ、と思った。

「地権者は蚊帳(かや)の外で、あっと言う間に建設・搬入が決まった。このままでは県外最終処分も危うい」(同上)

多分、この事実を福島の人たちでさえ、第一原発から30キロ圏外の人たちは、ほとんど知らない。

 3 セシウムが消える?
 何度か書いてきたが、避難指示を解除するのは国である。自治体/住民ではない。自治体/住民は、それを受けいれる。政府の避難解除が秒読みに入っている。楢葉町は「準備宿泊」の受け付けを始めたが、4月の登録は182世帯だったという。そして、楢葉町の松本町長が懸案としてきた5月の帰還宣言は、そのあとである。
 楢葉/富岡にある第二原発の廃炉を、反対する人たちは依然として多い。町の財政の半分が原発に依存してきたのである。住民が7000人の町に、800人のホールを持つコミュニティセンターを、酪農家の渡部さんは苦笑いして思い出すのだった。私は恐る恐る聞いた見た。

「廃炉にして大丈夫なんですか?」

渡部さんが困ったようにするのをあまり見たことがない。でも、言葉をつまらせた。
「廃炉までの30~40年の間、その見通しをたてるしかねえな」
その間は電源三法案により、また「使用済み核燃料税」もあって補助金が出る。
「あとは、先端企業が落とす税金かなぁ」
楢葉の竜田駅付近に、原子力関連の企業も含めて、大規模な工場の誘致が始まっている。
 しかし、そのあとの渡部さんの話に、私は考えてしまった。原発が農業をダメにしたわけではない。農業がダメになるような歴史を自分たちが作ってきた、という話だったと思えた。難しくてよく分からなかったが、楢葉町の「農協」は、統合されてだんだん広域になっている。農協が大きくなる過程は、小規模の農業経営が出来なくなる過程だった。私の貧弱な想像だが、大規模な農業の進出とは、もともと「割に合わない」農家の収入が、小規模/零細な農家の農業離れをさせた結果と思えた。農地から離れた人たちは、別なものを必要とした。原発にいたる道は、やはり日本の近代化が築いてきたと思えた。

 牧場に育つ草を食べさせられなければ、酪農経営は成り立たない。渡部さんはそう言った。だから、乳牛はやめて肉牛にしようと思う、と渡部さんは続けた。私は何のことか分からず、え?と聞きかえす。

「牧場の草を食べさせるとよ」
「牛乳にセシウムは検出されるんだ」
「でもよ、肉には不検出なんだ」

また新たなマジックである。私はもう一度聞きかえす。牧場の草を牛が食べて「乳」にセシウムが出るが「肉」には出ない? なんてこった!
 渡部さんは静かに笑っている。


 ☆☆
福井地裁が「原発再稼働認めず」。またしても英断ですね。それに対し、規制委員会が「誤認の部分がある」と批判してますが、そっちよりも、規制委員会自身が言ってきた「安全とは言わない」を、もう一度繰り返して欲しかったですね。
読者の皆さんは知らないかも知れませんが、先月下旬「経産省前テント撤去の強制執行」を、東京高裁が「ダメだ」と言ったことも明るいニュースでした。ちょっとずつ、ちょっとずつですね。

      
           すぐ近くの歩道橋から。最後の桜ですね
 ☆☆
もう10年以上になると思います、遠ざかっていた古巣の道場に出向きました。東京の下町にある道場には、もう知っている人が数えるほどでした。でも私が顔を出すと、驚き喜んで手を差し出すのです。ああ懐かしい、あたたかいものが胸を流れました。
聞いてわざわざ駆け付けてくれた仲間は、もう中学生のお母さんとなっていました。そして、私の本を図書館で見つけたことを言うのでした。
「参考になりました」
とは、母親の言葉。ありがたいです。
      
    ホットモットで買った「タニタの弁当」です。けっこうボリュームありますよ

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