実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百六十九号

2012-05-26 11:31:02 | 子ども/学校
 <子ども>の現在 番外

         ~炎上~


 <確かな現実>を喪って


 前回の☆コーナーでネットのことを「少しばかり分かった」と書いたが、またしてもネット上で興味深いことが起こった。というか、分かりやすい事件だ。私は初めネットニュースで知ったが、詳しくは昨日のニュース(新聞)でだった。皆さんもご存知と思うが、
「中学生3人、いじめ画像投稿」(25日・読売)
というやつだ。相手は男子児童、小学生だ。その子に泣き出すまでつきまとって動画サイトに投稿したが、ネットの掲示板で騒ぎになり、3人は「びっくりした。もう二度としません」と反省している、というのだ。久しぶりに「炎上」という熟語を見た。
 経緯を検証してみよう。まず、ランドセルを背負った子にぶつかって「ぶつかっだだろ、謝れよ」と集団で絡む、という時点でこいつらがごく普通の臆病な連中ということが分かる。それから携帯で撮影してサイトに投稿する。「非常識だ」「これはひどい」という批判や中傷が集中したという。ほんとにひどいのか。
 私もひどいとは思う。しかし、この「ひどい」と騒いでいる連中の騒ぎ方が気持ち悪いし、うざったいとは思わないか。当事者でもない連中のこの事件に対する正しい対処があるとすれば、それは「そっとしておく」こと、それだけだ。物事というものは本当は当事者同士しか解決出来ないということをこの連中は分かってない。いや、もしかしたらサイトで世界中に拡散したんだぞ、とかいう反論があるのかな。しかし、騒ぎ立てることではない、騒ぐのは良くないことだ、被害者の傷は深まるばかりだ、という自制した気分が世間(世界)を支配する時、事件の「お騒がせ」は終わっている。また「お騒がせ」な事件はそういう終焉の仕方しかできない。昔も今もだ。事件の当事者同士の解決とは別なのだ。そして、この事件の当事者同士の解決をこの「お騒がせ」な連中は妨害している。そのことに、このマヌケな連中は無自覚だ、という点でまったく現代的だ。そして実は、この児童に絡んだ3人のアホな連中の頭のなかとおんなじだ。
 携帯のボタン、あるいはスマホ的に「タッチ」の向こう側に広大な領野が控えていることをこの連中(ネットで騒いだ「正義漢」や3人のバカ)も知っている。それが「未知で不可解」な部分であり「魅力」と感じるからできることだ。ネットの「未知で不可解」なものは「怖い」ものだと、そんなことくらい学校はとっくに「指導」してるよ。でも、もしかしたら「殺されるかも知れない」場所に、やっぱり男も女も、そして若い子が侵入していく理由を、まだみんな知らない。それぞれ具体的な、あるいは切実な理由があってみんなその場所に行くのだが、そのことに対して私たちは打つ手を知らず、出来ることと言えば事例や事件を示して「危険だ」と訴えることだけだ。「自殺」を、あるいは「監禁」を望むのはそれぞれの個人だが、その具体的な個別の事由・理由が、抽象的な広い場所にさらされている。これがいいことであるはずがない。人の生き死さえも弄ばれようとする「抽象的な現実」に抗することは出来るのだろうか。
 ニュースは「この3人を特定する情報」も投稿され、またそのことでこの生徒たちの「自宅周辺を警備する」事態になっている、と結んでいる。すべては雲の上のような出来事なのに、突然、隕石が降り注ぐかのようなリアリティを作り出している。私たちは雲の上の出来事を地上に引きずりおろさないといけない。「特定する情報」を提供した奴が本当はしないといけなかったことは、3人のバカ共のところに行って「謝れよ」「さっさと動画消せよ」と言うことだった。それをしないでこの3人のバカ共と同じくネットで告発したのだ。言ってみれば3人の反省の機会を奪った。こんなことを続ければ、今度は3人の「反省」のほとぼりが冷めた頃、「あれチクッったの誰だよ」という逆恨みへと続くことは間違いない。「特定した」奴を「特定する」責任は、そしてそのチャンスはもう当事者周辺しか持っていない。子ども・生徒を分かっている、見ている大人(親・先生)だったらその領域に踏み込めているはずだ。なのに、それを抽象的に例えば全校集会かなんかで「人間として許されない」などというおしゃべり(こういうのを「おためごかし」と昔の人はうまいことを言った)をするのがまた学校だ。どうかひとりぐらい「オマエじゃないのか、こんなことするなよ」と生徒をあたり、当事者同士の解決をはかっている教師がいることを、と願うばかりだ。
 生徒自宅の「警備」なんか必要ない。顔の見えないところでしか「活躍」出来ない腰抜け連中を恐れることなどない。顔を見せに来るかよ。顔は「現実」だ。「バーチャルな現実」とは違う。雲の上から降りてきた現実とは対面・対決出来る。
 ちょっと前だったら、ずっと部屋のパソコンに向き合って意味不明な生活・表情を送っている息子(娘)に、親は「一体何をしている?」と言わないまでも、思うことが出来た。今、そのパソコンは片手に納まる、移動自由なポータブルだ。東野圭吾の『赤い指』の小学2年生の女の子は、中学生とパソコンでやりとりしていた。そしてそのことを両親は知らなかった。あの頃より時代はさらに「進化」してしまった。
 それでも私たちは、「雲の上の出来事を地上に引きずりおろす」ことをあきらめてはいけない。そして、それは出来る。


 ケーブルテレビ

 ちょっと付け足し。先日ケーブルテレビの会社を変えたことを言ったが、私はパソコンとセットで契約していたので、メールのアドレスだけ前の会社に残した。その前の会社から銀行口座の確認電話があった。その時、ついでに私はメール回線使用料の月々の料金を尋ねた。すると相手は、
「知らない」
と言うのだ。相手方としては契約状態さえ分かればいいということらしい。「分からないのですか」と私が食い下がると「先方(メール会社)の連絡先を教えましょうか」と言う。テレビとパソコン、そしてメールと会社が別れているわけで、「当方には分かりかねる」という言い方だ。
「私に『聞け』と言うのですか」
という私の言い方はきっとひどく刺があったはずだ。沈黙する相手に私は「分かりました」と言って電話を切った。右手がやっていることを左手が知らない。サービスというより責任だろが、と思うのは私だけだろうか。
 『現代詩手帖』5月号はまだ思潮社にあった。「売り切れ」てもいないのに、「売り切れ」表示をし、新品がまだあるというのに、その倍の価格で「中古」を斡旋しているネット社会の現実をまた思い出す。


 ☆☆
「<子ども>…」シリーズは、別な色合いで書きたいと思っていたので、今回は「番外」としました。刺激をうけた今回の出来事のおかげで久しぶりの連日投稿となりました。

 ☆☆
前回、前々回の「健康法」、面白い・分かりにくいなど、いろいろな指摘がありました。呼吸のレッスンをしていて思うことですが、こつと言ったらいいか「考えすぎない」「頑張りすぎない」ことが大切かな。集中しようとするからでしょうが、うつむいてしまう方が結構多い。そうすると「気」が内側にこもってしまって、自律神経が参ってしまう。青空に向かって自分を開くというイメージですか。それがいい。今日はまたいい天気です。