実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百六十五号

2012-05-17 14:56:51 | 福島からの報告
 忘却/手がかり



 頑張れ、ニッポン!


 14日、福井県大飯町原発の最稼働が町議会で承認された。議員や常任委員などで構成される全協(全員協議会)によれば「政府側の専門家が出してきた結論にどう太刀打ちできるのか」という不安・不満の声もあったとも聞くが、これまでの経緯をみれば議論など形だけの決定となったのは「予定通り」である。
 先だって行われた大飯町地元説明会(4月26日(木)夜)は、その10日前までは「地元町民以外でも参加できる」ものだったことを私たちは知っていただろうか。17日、町長名でその予定は反故にされた。地元の『福井新聞』によれば、町民8800人のうち有権者の1割という540人が出席した会場からは、最稼働への不安の声と最稼働がままならない将来への不安が拮抗し合っていたという(全国紙の読売には「早めの最稼働」の意見しかなかった)。「早めの最稼働を」という声の中にあった、
「電気を供給している立場からすれば『最稼働するのは心外』として、こちらが悪人のような言い方をされるのは困る。『どうか(最稼働の再考を)お願い出来ないか』というのが筋ではないか」
という意見がまっとうに感じられた。
 家族のうちの誰かが必ず電力会社に勤務しているという大飯町は、電気は「すでに地場産業」というのが現実である。「最稼働」の流れは確実に用意された。「最稼働言い出せぬ地元」(3月)「原発の必要性明確に」(4月)と、地元大飯町や福井県知事は政府・国に最稼働への積極的関与を望んだ。あるいは、そのように報道された。一方国・経産省は、滋賀県・京都府による申し入れは「地元の申し入れにはあたらない」として、滋賀県・京都府を「地元の外」とした。両知事の「規制庁の発足もない中では拙速ではないか」の主張は、今もぬかに釘の状態である。
 従ってこのあとの「地元」は福井県となる。大飯町とは小浜湾を隔てた松ヶ崎、そして小浜市がどうなっていくのか注目しないといけない。
 それにしても、原発の最稼働をめぐってこれほどの堂々巡りが起こるということは、今までなかったはずだ。今はストレステストも加わったが、定期点検後の最稼働もあるのだ。何十年とやってきた点検後の最稼働がもつれている。きっかけはもちろん福島の事故であるが、そのことで生じた国・政府への不信感と、人びとの「我がことへの覚醒」が大きく関わっていると思えて仕方がない。これこそが「頑張れ、ニッポン!」ではないのか。


 オレたちゃ何にも分かっちゃいない

「オレはやりたいんだ」
そう楢葉の牧場主さんは言った。自分の牧場は、除染法のひとつである表土剥ぎ取りをやると困ることになるという。海岸沿いの土地は、そうすればすぐに荒くれだった石がでてきてしまうからだ。それでも牛(乳牛だ)を飼うことはあきらめたくない、餌を変えれば牛は変わる。汚染された餌を食べれば乳は汚れるが、餌を変えればまたきれいな乳が出る。
「乳は血液だからな」
だからきっとやれるんだ、と主さんは言った。今は「4巡目」となる帰宅の日を待っている。昨年の9月30日に解除された楢葉の(楢葉だけではないが)緊急時避難は、除染もされていないし、宿泊も出来ない場所でのことなのだということを私たちは忘れている。いや、知らない。
「解除後帰還2200人止まり」(5/11読売新聞)
という記事を読んで「へぇそうなのか」という程度に私たちは思うだけだが、楢葉では「4巡目の帰宅計画」が組まれている。一体「居住制限のなくなった」とかいう「避難解除」とはなんなのか、と思わないといけない。さきほどの新聞は「帰宅をためらう理由」を列記していたが、今でも地元楢葉では「今度の一時帰宅に参加しますか」というアンケートが取られているのだ。どこが「居住制限がない」というのだ。それが現実だということを私たちは知らない。そんな中で開かれた説明会(前に報告した)では、
「さっさと自由な出入りをさせるべきだ」と「除染に必要な二年間は警戒区域として誰も入らせないようにすべきだ」
というふたつの意見に別れた。どちらにも共通しているのは、「泥棒」への危惧であり、「我が家」への愛着なのだ。なんと、いまだに損保(損害保険会社)の査定も行われていない。その壊れた家屋に損保が「入れなかった」からだ。それだけでも「解除」の意味はあるけどね、と主さんは言う。そんな中で川内村は「帰村宣言」をしちまった。一体どうなるのか、というのは我々が注目しているところだね。
 主さんの言葉はいちいち突き刺さるような新鮮さがある。
 オレたちゃ何にも分かっちゃいない、改めて思う。


 「買うお金、ないんですか?」

 「みちの駅だいご」で買った水戸の銘菓「水戸の梅」をずいぶん喜んでもらえた。午後、改めて第一仮設に出向いた私を、
「いつも悪いね」
午前にはいなかった常連さんが笑って出迎えてくれた。この日はご盛況で6人(職員とあわせて8人)がおしゃべりに余念がなかった。私の方から、先だってここで話題になった「古着」(夏用)のことを聞いた。すると、それ以降古着のことは何度か話題に登ったという。「コトヨリさんに頼んでみようか」ということもあったという。
 いろいろと思い出すこともあって、聞いてみたかった。この一年を振り返ると、ボランティアセンターは古着の申し入れを6月には断っていて、返品までしている。断った大きな理由は「保管場所がない」ことだった。当時、巨大な保管場所として役割を担ったいわき市の「競輪場」は、「そろそろ再開したい」意向を市に伝えていた。それは震災後の「新しい動き」でもあったわけだ。
 私自身、センターで何度か古着の仕分けをした経験でいくつかひっかかったことがあった。災害直後だったら着たかもしれない粗悪品もあったが、それはそんなに悩みの種とはならなかった。それより閉口したのは、衣服の種類の多さである。サイズはもちろんのこと、赤ちゃん服から新婚さんの寝間着みたいのや葬儀用のものまで、こんなにも服にはいろいろあるものなのか、とゲップの出るような思いをした。では皆さんは、一体去年の夏はどうしていたのか、ということも聞いてみた。するとやはりそれは、薄めの長袖でとか、一枚の半袖で過ごしたとか、親戚の家に避難していたのでそこで借りたとか、つらい思い出を話してくれた。なるほどホントに夏服がない。
 しかし、嗜好の強い若い人たちにどれだけ気に入る夏服があるのかと思う。仮設にいる若い人たち(そんなに多くはないが)の服を見ると、お気に入りの服を着ているように見える。
「若い人たちは自分で見つけた服がいいのではないですか?」
私はそう結論づける。それくらいどうにかするような気がした。つまりは、ある程度(「かなり」かな?)年のいった人たちが古着を必要としているのではないか。しかし、私はもう少し思い切って聞ける、と思った。
「服を買うお金はないんですか?」
どっちにせよ失礼な質問かと思ったが、先日ここにも書いた「年金、どうせ使わねえよな」と言っていた常連さんの言葉が私の中に残っていたからだ。
「それくらいの金はあるけどね…」
リーダーさんが笑った。サブリーダー?さんがあとを継ぐ。
「足だよ、私たちには足がないんだよ」
と言うのだ。鹿島通りに脱けるバス停までは大変でね、という。近くのバス停は平方面(駅の方)に行くバスでね、という。読者の皆さんは何のことか分からないと思う。
 第一仮設を住まいとする海岸線の人たちの古巣へは鹿島通りから脱ける。その通りに行くバス停までは遠いというのだ。しかも、海岸線の店は壊滅している。では駅周辺での買い物はどうなのか。そこでの買い物は無理なのだ。若い人たちなら「新しい場所」での買い物に抵抗はない。しかし年寄りに「慣れない場所」での買い物はそういかない。今更ながら、年波が寄ってからの災害が、大変な思いをさせていることが、ようやく私にも分かってきた。
「じゃあ、そんなに数はいらないんですよね」
私は念を押す。来月に予定している「味噌」の支援とあわせてやってみようかと思った。


 ☆☆
いわきのスーパーに少しずつ地元の野菜が戻ってます。ニンジン、ネギ、アスパラ、トマト(「トマトランド」のトマトは駅前商用施設『ラトブ』にあります)、そして椎茸!など。眺めてたら千葉産のキャベツ発見。なんと値段87円と破格なんで買っちまった。福島で千葉産買ってやがる。

 ☆☆
自分ところの自治会役員を去年は断りましたが、今年やってます。なにかの縁と思い「『ニイダヤ水産』の支援」をその会議のときに提案してみました。すると、
「福島はいまどうなってますか」「カタログが欲しいわね」「どうやったら買えるんですか」「自治会の全世帯に(チラシを)配ったらいい」等々、皆さんとてもいい反応をしてくださって、思わず私は「ありがとうございます」と言いました。半分くらい福島の人間になれているかな、とも思った私です。

 ☆☆
私の好きな福島の山奥(矢祭町)には、まだ桜が残っていました(5月16日)!
冒頭写真は旅館「ふじ滝」の駐車場脇に咲いた牡丹です。去年と同じ場所に、同じくらいに見事に咲きました。