千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「なぜアーレントが重要なのか」E・ヤング=ブルーエル

2009-08-27 23:43:08 | Book
映画『愛を読むひと』の主人公のハンナは、教会が火事になった時に収容させたユダヤ人を救出せずに出口を塞いだ行動を、裁判官から厳しく追及されるという場面があった。質問にとまどうかのように、ハンナは「入口を開放したらせっかく集めた囚人が逃げてしまう」と反論した。彼女にとって、教会の中に閉じ込められたユダヤ人が焼死することよりも、”囚人”を逃がしてしまうことの方がより重大なことだったのだ。彼女は、自分に与えれられた任務を遂行することに必死だったのである。
この姿に、私はいみじくもアイヒマンの姿を重ねて観ていた。

カール・アドルフ・アイヒマンは、第二次世界大戦中、ナチ親衛隊の中佐としてユダヤ人の収容所送還に関して、いかに効率よく大量に移送できるかを考えて指揮をした人物としてよく知られている。イェルサレムで行われた裁判を傍聴して、アイヒマンが浅はかな人物で、自分が属する陳腐な社会への順応者であり、独立した責任感がなく、ナチの階層社会で出世することにしか興味がない「思考が欠如した人物」と喝破したのが政治哲学者のハンナ・アーレントだった。
自分は総統が命令し国の法律が要求したことを行っただけであって犯罪者ではないと主張したアイヒマンを、アーレントは犯罪国家の代理人として犯罪国家の新たな形態を示している人物として、人類に対する新しい形態の犯罪を実行することによって国際的な共同体の秩序全体を犯したと断罪した。つまり、何100万人もの人々を殺したのではなく、彼らが人類の秩序を犯したところに彼らにくだされた判決は正しかったと考えた。

ハンナ・アーレントは1906年にドイツに社会民主主義者の両親のもとに生まれた。知的な家庭環境にも恵まれ高い理解力をもつ少女は、ベルリン大学に進学してキルケゴールの授業から影響を受ける。その後、マールブルク大学では一時恋愛関係にもなったマルティン・ハイデッガーと出会うことによって哲学にのめりこむようになった。更にフライブルク大学ではフッサールとともに過ごし、ハイデルブルク大学ではヤスパースの指導も受けた。不幸にもナチス迫害の難を避けるために33年にフランスに亡命、40年には米国に亡命という流浪の生活を体験するも、75年に亡くなるまでの彼女の人生の中で光をともす非凡な人々で出会ったことは幸運なことだった。著者は学派をつくらなかったアーレントから教えを学んだ唯一ともいえる弟子である。著者は、アーレントに出会ってからの30年以上にわたって、世界で出来事が起こるたびにアーレントはどのように考えたかとということを考え続けてきた。本書は、そんな弟子によってアーレント生誕100年の2006年に出版されたのだが、混迷する世界で今アーレントが再び脚光をあびている。

ブッシュ前大統領は退任する時のホワイトハウスでの国民向け演説で「9.11」を真珠湾攻撃以来の最悪の対米攻撃だったと語った。約3000人もの人が亡くなった同時テロで”真珠湾攻撃”という言葉がマスコミで使用された時、日本人としては納得できない嫌な違和感をもった記憶はぬぐえない。あの「9.11」のテロにわざわざ”真珠湾攻撃”を重ねるブッシュ・ジュニアやマスコミに、その後のイラクへの侵攻の正当性をすりこませる意図はなかったのだろうか。著者によるともしアーレントが生きていたら、即刻「世界貿易センターは真珠湾ではないし、『テロにたいする戦争』は意味のない言葉だと異議を唱えただろう」となる。然り、、、である。アーレントは51年の「全体主義の起源」で新しい概念は絶えず新しい現実に適合したものにならなければならないとした。彼女が言葉に求めたのは、新しい世界に適していること、きまり文句を失効させうること、考えなしにうけ入れられたしそうを拒否しうること、紋切り型の分析を打ち破りうること、嘘や官僚的まやかしを暴露しうること、そして、人びとがプロバガンダによるイメージへの依存から脱するのを助けうることである。このように、哲学者が深く言葉を洞察することを生業としているのがよくわかるのが、たとえば「許し」というキーワードにもある。行いを間違っていると判断することは、アーレントによれば許しへの第一歩ではない。人は行いを許すのではなく、行為者を、その人物を許すのである。

本書を読むにつけ、アーレントはカント、ヤスパースと夫のハインリッヒ・ブリュッヒャーを共鳴板にもつ複雑な性格の女性と想像される。その一方で夫が心臓病で急死すると数週間姿を消した後に授業に戻ってきた彼女は、黒い未亡人の装いでかなり弱ってみえたという証言に強靭な意志の裏にナイーヴな感受性がみえる。
「なぜアーレントが重要なのか」
このタイトルに著者のすべての思いとメッセージがこめられている。
人が危機に直面した時、判断の基準や善をどのように考えるだろうか。アーレントが語るのは神でもなく人間に由来する掟でもなく「自己という基準」である。

わたしは自分自身について忠実でなければならない。わたしは、自分と折り合いがつかないようなこと、思い出したくないようなことを行ってはいけない。わたしがある事柄を行動できないのは、それを行うとわたし自身と共に生きていくことができない。

この言葉には深く共鳴した。人が悪意をもち転ぶのは簡単である。しかし、そうした行為を行ったら、もはや自分自身ではないと考えて私もこれまで生きてきた、つもりではあるが、日々是反省の毎日である。たががはずれ、連日の”のりピー”の報道に殆ど劇場型のドラマを観ているような拡散しつつある意識が、本書との出会いを通じて目をさまして気持ちよくしまってくること間違いない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿