千の天使がバスケットボールする

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「チンチン電車と女学生」堀川惠子・小笠原信之著

2011-07-10 17:00:40 | Book
1945年8月6日、ヒロシマ。
その日の広島は、雲ひとつない快晴の日だったという。午前8月15分、原爆が投下された時も市内をいつもどおりに走っていた路面電車は70車両で、そのうち7割の通称チンチン電車の運転手と車掌を務めていたのは、14歳から17歳の女子学生たちだった。彼女たちは、戦局がつのり、男性乗務員が次々と戦地にとられた穴をうめて、懸命に電車を走らせていたのだった。

そういえばそんな話を聞いたことがある。本書は「モスクワの孤独」で深い感銘を受けた米田綱路氏による「書評的対話」で、ジャーナリストの小笠原信之さんとの対談でとりあげられていた一冊である。昨日乗った地元のバスの運転手は、女性だった。近頃では、女性がバスの運転を務めていてもさほど珍しくもなくなった。それに、彼女の乗客や歩行者に配慮した運転技術と勤務ぶりは、これまでの男性運転手たちの中でもぬきんでている。しかし、あの時代に、少女たちが路面電車を運転していたという事実には、多少の驚きと違和感を感じるのは正直な感想だ。少女たちは、1943年に開校してわずか2年半だけ存在していた”幻の女学校”「広島電鉄家政女学校」で学びながら、勤務する勤労女子学生だったのだ。

本書は、広島電鉄ですら忘れられていた事実を、当時、広島テレビの報道記者だった堀川惠子さんが広島市政に関わる取材で、広島電鉄を訪問した際に、たまたま偶然従業員から聞いた話からはじまった。その時、被爆電車「650形」の前で何気なく話された”幻の女学校”という言葉に、堀川さんは頭の中で火花が散るほどの衝撃を受けたそうだ。男性社員の空席をうめるために開校された広島電鉄家政学院。大きな歴史の中にうずもれていた少女たちの小さな歴史を、彼女は執念で倉庫の大量の段ボール箱から女学生名簿を見つけ、また広島大学原爆放射線医科学研究所による航空写真で女学校の姿を確認してほりおこしていく。

原爆を生き延びた少女たちの証言からは、戦下の中でも生き生きとした青春が伝わってくる。彼女たちが家政学院に進学した理由は、経済的な理由によるところが大きい。貧しくて進学を断念していた少女にとって、寮に入り、わずかな給料をもらいながらも勉強できる学び舎は希望の場でもあった。厳しい寮生活の中でも向学心をもちながら、家族を思い、友情を育み、公的交通機関の乗務員としての高い職業意識を学び、そして男女交際が禁止された時代にささやかな初恋に胸を高鳴らせることもあった。そして、あの日も、いつもどおりに晴れ渡った空の下、さまざまなことを思い、感じながら、おさげ髪にきりりと鉢巻をしめてにチンチン電車に乗務して懸命に働いていた。そんな少女たちの、ひとりひとりの大切な一日、大切な時間が、あの日、一瞬のうちにすべてが焼き尽くされたのだった。

本書の著者は、経歴からもわかるように映像の人である。映像の力を信じる人らしく、声高に反戦を訴えることもなく、おそらく酸鼻をきわめたであろう被災者たちの姿を詳細に披露することもなく、敗戦後、男性乗務員が戻ってくると学校も閉校し、失職した少女たちの姿に男女差別を論じることもない。しかし、それゆえに、読者に多くの考える余地を残してくれたと思う。与えられるのではなく、さりげない日常や少女たちの姿から感じ、考えることが、むしろ読者の心にしっかりとさまざまなことを根付かせている。

今年も8月がやってくる。戦争を証言できる人たちが少なくなる中で、本書は今の少女たちこそ読んでほしい貴重な一冊である。原爆投下された3日目に、あたり一面廃墟となった広島の街をチンチン電車が走っていたそうだ。運転をしていたのは、広島電鉄家政学院の第二期女学生だった。

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「菊池俊吉写真展―昭和20年秋・昭和22年夏」