千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ハケンの品格」を問う②

2007-01-15 23:25:54 | Nonsense
昨年末、勤務先でちょっとした事件があった。
半年ほど前に採用されていて働いていた派遣社員の女性が、月曜日に出社したこなかった。休暇の連絡はなし。本人の携帯電話や自宅に電話しても応答がなかった。次の日も、次の日も本人は出社しないうえに連絡がとれない。40代で独身、実家は近くにあるのだが、アパートを借りてひとり住まいという事で、事件にまきこまれたのか、はたまた急病になって入院して連絡がとれないのか。兎に角このまま連絡なしで休暇、もしくは欠勤というわけにはいかないので、派遣会社の担当者がその女性のアパートを訪問し、管理人から聞きだした斡旋した不動産会社を通じてやっと金曜日に実家の方に連絡がとれた。
もうやめたい、、、そういうことだけだった。
連絡なしで一週間お休みをしたことに関して、社会人としての自覚を改めて問う年齢でもないだろう。単に、ちょっと変わった人だったのかというのがオチだった。
ただその話を聞き、当人の名前を聞いても顔が思いうかばないのである。所属は同じで同じフロアに同居していても、レイアウト上のフロアの仕切り方によって、殆ど顔をあわすことがない人たちが半分いる。洗面所や給湯室でなじみの社員に会えば挨拶や立話もするが、最近大量(といっても50名ほどだが)に入社した”スタッフさん”と呼ばれる派遣社員の方達は、なかなか名前どころか顔すら覚えられない。特に顔をあわす機会の少ない派遣社員の方たちは、いつまでたってもわからない。忙しかったり、仕事での接点がなかったりという理由もあるのだが、これはひとえに他者に関心の少ない自分の性格と怠慢による。派遣社員の方は少数派の社員の名前と顔を覚えてくれるのだから、覚える気があまりないのかもしれない。これはいけない、とつくづく反省もした。

正社員と時給のフルタイムの派遣社員、パートの派遣社員、また月給制の契約社員など、同じような仕事が重なりつつそれぞれの立場や出身会社が異なる人材が共存する現象を課開けるコニューニティは、今日そう珍しくないだろう。
私は同じ女性同士だからこそ、今までそれぞれの立場を尊重し、相手を思いやり、チームを盛り立てつつ働いてきた、、、つもりだった。が、そんな自分に疑問を感じる文章にであった。
「物語三昧」のペトロニウスさま推薦図書、鈴木透氏の「現代アメリカを観る」のなかで、同じくペトロニウスさまがお薦めするアラン・ブルームの「アメリカン・マインドの終焉」(1987)を紹介している記述である。ブルームによれば、60年代以降の米国において価値観の多様性は絶対的価値基準の喪失を招き、そうした相対主義はあらゆるものに存在価値を認める一方で、他人に対する無関心を助長する傾向にあるという。自分の価値観をいったん保証された人間は、自分さえ安泰なら他の人の価値観はどうでもよくなり、アメリカ社会はバラバラになってしまうと説いた保守派の教育論が当時ベストセラーになった。

この内容は、実に多くのことを示唆していると感じた。確かに米国という国の成り立ちに興味があったら読むべき著書なのだろう。
カイシャでそれぞれの立場を尊重するというのは、一見理性的なふるまいに見える。しかしひとつ屋根の下の同じカイシャの仲間ではない。つまり相手の立場とは、ここでは身分の上下関係のことを言っているのではない。だったら、相手の立場や働くことの価値観や働き方の相違を尊重し認め合うことは、実は他者への無関心を育てているのではないか。自分の働き方(正社員か派遣社員か)の価値観を保証されれば、他人の価値観はどうでもよいのではないか。
それぞれがめざす道に従ってそれぞれの価値観に基づいた働き方、家庭やこどものために非正社員を選びがちな女性の弱みにつけこんだような雇用体系の多用性は、同じ職場としての求心力に欠けているのは当然なのだろう。
突然出社してこなくなった彼女も、仕事への悩みを抱えていたのかもしれない。働きたくても、きもちがついていかなかったのかもしれない。真相は知らない。けれどもその気持ちを、同じ職場で働いていた誰も気づかなかった。

「ハケンの品格」を問う

2007-01-14 22:55:25 | Nonsense
派遣3千人超を契約社員に  明治安田、正社員登用も

 明治安田生命保険は4日、人材サービス会社からの派遣職員約3200人を1日付で直接雇用の契約社員に切り替えたと発表した。大手保険会社が派遣職員を全面的に契約社員にするのは初めて。このうち一部は、選考試験などによって正社員に登用する考えだ。
同社によると、契約社員になったのは、子会社の「明治安田スタッフサービス」からの派遣職員。保険金の請求書の作成や顧客との電話応対などを担当していた。契約社員になると、有給休暇が増えるなど福利厚生面が充実するという。
 (07/1/4 岩手日報)

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職場でちょっとした話題になっているのが、テレビ番組「ハケンの品格」。いつもテレビ番組や芸能人の噂話で盛り上がる彼女たちにとっても、確かにこれはみのがせないない番組だろう。篠原涼子演ずる時給3000円!の特A級のスーパー派遣が、大手食品会社「㈱S&A」のたちあげたばかりのマーケティング事業課に派遣されて大活躍するというストーリーのようだ。同じグループ会社の人材派遣会社から派遣されている彼女たちは、異動を希望しない限り本体である派遣先が変更されることはないが、同じ”ハケン”という身分から関心を示すのも当然だろう。

「ハケンの品格」は、働く人々を応援する番組というのがうたい文句である。スポンサーがまさに人材派遣会社だったところから、この応援したい人々というのは、派遣社員のことだろうか。20年前に派遣業法が施行されてから、現在派遣社員として働く人々は300万人に登るという。派遣料金は平均1900円程度だが、本人の時給にすれば1500円ぐらいが相場である。番組の主人公・大前春子のように3ヶ月ごとに労働と休暇と使い分け、3000円の時給で働く派遣社員はめったにいない。職種やスキルによって事情も異なるが、殆どの派遣社員は、時給×7時間×20日勤務で20万円程度から税金・社会保険・健康保険料などひかれ、場合によっては交通費も自前、勿論賞与はなし。この収入で、自活するのはなかなか厳しいという話も聞いた。

かっては、派遣社員とはおもに女性が残業しないで自分の趣味や生きがいに時間と労力をかけたいということでハケンの道を選び、企業にとっても人件費削減という労使相方のメリット面が強調されていたような気がする。林真理子の丸の内の商社を舞台にした小説でも、正社員はシゴトの責任と重さで性格もきつくなり、控えめで気立てもよくそつなくシゴトをこなす”ハケンの子”ばかりが、派遣先の男性と職場結婚にゴールインするという話があった。(一方「ハケンの品格」では、部下にハケンにつかまらないように注意する男性社員・東海林武の会話があった。ここには、正社員よりハケンは格下という正社員側の意識があらわれている。但し、この男性社員のハケンを差別する心情が、後に語られるのだが。)これが事実がどうかわからないが、ハケン、正社員、それぞれの立場で働くことの厳しさはある。

春子はとにかくオールマイティにデキルのである。しかしパソコンのスキルは、誰でも業務をこなすうちに身につけられるだろう。ところが非正社員という立場では、業務の根幹をなす仕事や企画を依頼されるということはないのでは。専門的なスキルをもっていたらそれをいかせても、所詮、代替えのきく狭い範囲での仕事が殆どでさほど能力を開発するところまでには至らない。春子のデキルは、起業するわけでもない会社で雇用される立場では派遣という身分では限界があるというのが私の感想だ。先日の勤務先の上司との面談でも伝えたのだが、仕事は人を成長させるというのが私の考えだ。業務を限定されているハケンが、能力をのばす機会が少ないというのも現実ではないだろうか。だから時給=自分の単価をあげるのは、実際なかなか難しい。

時給3000円で働く春子の給与はハケンの中では驚くばかりの高給だが、賞与や退職金がないことから長く働けば働くほど生涯賃金は逓減していく。それに30歳そこそこだったらハケン先もあるが、35歳を過ぎると一般事務の派遣は先細りをするそうだ。年齢の差別とは、また違う。

春子を嫌う東海林武(大泉洋)が、春子の上司にあたるマーケティング課主任・里中賢介(小泉孝太郎)にしみじむ語る場面がある。

「右も左も何にもわからない俺たち新人に電話のとりかたから教えてくれたおばちゃん、残業すると差し入れしてくれたおじさん、み~んなリストラされちゃったよな。後からくるのは、あかの他人の派遣ばかり。」

ここで次々と派遣社員の契約を打ち切る敵役の正社員の心情が吐露される。彼からすれば、仕事は今ひとつだったが彼らを育て、見守ってくれた同じ釜の飯を食べた家族のような仲間の机を奪ったのが派遣社員なのである。実際は、そんな人の良い労働者を斬ったのはカイシャ側なのだが、その怒りが派遣社員に向かう感情もわからなくもない。けれどもなんとかチームの雰囲気を盛り上げようとする里中に比較して、正社員がカイシャにとって家族なら、ハケンはお屋敷に雇われた使用人だという現実も”あかの他人”というこの言葉にあらわれている。
なんともいえず、せつなくなるドラマだ。(この項、続く)

『椿姫』

2007-01-13 23:42:54 | Classic
年末の芸術劇場の特別番組に、映画監督にしてオペラの演出家でもあるフランコ・ゼッフィレッリが自宅でインアビューに応える場面があった。
フィレンツエェに生まれルキノ・ヴィスコンティの薫陶を受け、ココ・シャネルに気に入られ、マリア・カラスの音楽を愛した世界的な名声を得ている初老の男性。しかし初めてテレビで観たゼッフィレッリは、初めて見るタイプの男性だった。室内のインテリアは、殆ど白といってもよい上品なベージュに淡い水色のコントラストを入れた色彩に統一され、家具や調度品は計算され尽くした絶妙なバランスに置かれている。冷たい鏡の前を飾る花束もその白い静謐さが、この部屋の主を物語っている。
脚を組んでソファに座るゼッフィレッリは、青みがかったストライプの入ったシャツにアイス・ブルーのリブ編みのセーターを重ねていた。そのセーターの雪を連想させる寒色系の、日本では探してもどこにもないような微妙な水色に目を奪われた。彼は完璧なインテリア以上に最高に趣味がよく、また最高に上品だった。このような男性が存在するのだ。
そのフランコ・ゼッフィレッリが、ヴェルディのあまりにも有名な「椿姫」の映画を1982年に撮っていた。しかもアルフレード役は、彼が見いだしたプラシド・ドミンゴ。



18世紀初頭のパリ社交界の一番の名花は、高級娼婦のヴィオレッタ。その美貌の前に、誰もがひれ伏す。純情な青年アルフレードもヴィオレッタを崇拝する彼らの一人に過ぎないはずだったが、ただひとつ違っていたのは、彼は心から純粋に彼女を愛していることだった。その情熱は、娼婦という身分から本物の恋など自分にはありえないと信じていたヴィオレッタを変えた。彼女は、彼のために全財産をなげうってまでも、郊外の屋敷でたった一人の男、アルフレードを待つ生活を選んだ。しかしそんな蜜月も長くは続かなかった。。

音楽は、生の演奏が一番。にも関わらずオペラをあえて映画化するには、パリ郊外の景色など舞台で演出化するのが難しい「椿姫」はうってつけだろう。
監督があのゼッフィレッリだから、舞台はまるで泰西名画を見るような趣である。舞踏をする人々の衣装や髪型は、ヴィスコンティの映画「山猫」の有名な舞踏会の場面を彷彿させる。蝋燭の燭台、シャンデリア、カーテン、どんな小さな小道具までも磨きぬかれた芸術品で飾られている。病を隠すヴィオレッタと彼女をめぐる男や女たちの思惑が、退廃的な貴族の雰囲気を盛り上げる。そして中盤、豪奢で絢爛たる屋敷から一転、舞踏会とは縁をきり自然に囲まれて素朴な衣装に身を包む椿姫の生活も見どころである。
特にアルフレードの父の願いを受け入れ、アルフレードと別れて再び別の男爵とともに仮面舞踏会に戻る場面は圧巻である。
スペイン情緒をふりまくバレエの演出は、かってこれほど贅沢な場面を観た事がないくらいだ。ミュージカル映画「オペラ座の怪人」にも仮面舞踏会の場面があったが、華やかさと豪華さは比較にならない。ここでもゼッフィレッリの師匠から継承された貴族趣味と、私生活に共通する”派手”さが炸裂するような感じだ。これを観ていると、よくわからないが年末紅白歌合戦で非難ごうごうだったとか言う演出が、あまりにも貧しく思える。
また歌うために脂肪細胞を限りなく増加させた歌手が多いオペラ界で、よく巷間言われる太った椿姫はありか?なる疑問を忘れさせてくれる歌姫を登場させるのが、映画オペラの条件だ。但しこの映画の主役は椿姫ではなく、監督。次にアルフレード役のプラシド・ドミンゴだ。体躯といい、声といい、それ以上にドミンゴのルックスはアルフレード役に最適である。まだ声に今ほどの色気がないが、それもいたしかたがない。顔だちの良さが、ヴィオレッタの深い思いも気づかないで嫉妬に激情する単純な男としてもうってつけである。それにしても「椿姫」は、真冬に観るのがふさわしい。今夜は、スパークリング・ワインで乾杯をした。

フランコ・ゼッフィレッリは、自らも含めてヨーロッパ独特の「オピュレンス」を演出している稀有な人でもある。

作曲 ‥‥ジュゼッペ・ヴェルディ
監督 ‥‥フランコ・ゼッフィレッリ
演奏 ‥‥メトロポリタン歌劇場管弦楽団
合唱 ‥‥メトロポリタン歌劇場合唱団

ヴィオレッタ/テレサ・ストラータス(ソプラノ)
アルフレード/プラシド・ドミンゴ(テノール)
ジェルモン/コーネル・マクニール(バリトン)

「世界でもっとも美しい10の科学実験」ロバート・P・クリース著

2007-01-12 23:56:12 | Book
かって18世紀初頭から19世紀初頭にかけて、ニュートンがプリズムを使って太陽の光を分解した実験に成功すると、詩人や画家たちは、虹は神秘を奪われたとニュートンを批判した。さらに詩人のトマス・キャンベルの「虹に」という作品は、科学者をステレオタイプの情緒に欠ける冷徹な印象を世間に与えている。
「科学が、森羅万象の顔から、魅惑のヴェールを引き上げるとき、うるわしき想像力の居場所は、冷ややかな物質の法則に譲り渡されるのだ!」と。。。
それでは、科学は自然現象を含む美を破壊するのだろうか。そもそも科学分野において、「真の美は抽象的なもののなかにしか存在しない」という哲学的定義の存在、科学者が研究発表の場で”美しい”という主観的な感想を述べない社会的規範や理化の授業における授業計画における道具としての実験の位置付けから、実験は「美しい」といえるのだろうか。殆どの科学者たちは、実験を評して美しいと感じているのだが。
著者によれば、美の基準は意外性、必然性、効率のよい経済性、シンプルさ、議論の余地のない明白さ、衝撃の大きさが挙げられる。これには、科学者からも全く異論がないだろう。

本書は、N・Yの哲学科の大学教授による「フィジックス・ワールド」という物理学誌の読者投票で選ばれたもっとも美しい実験から、「科学実験の美しさ」を主題にしたまるで展覧会の絵を鑑賞するようにしあげた作品集である。展示されている作品は、全部で10点。

①世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定
②球を落とす―斜塔の伝説
③アルファ実験―ガリレオと斜面
④決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解
⑤地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験
⑥光という波―ヤングの明快なアナロジー
⑦地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子
⑧電子を見る―ミリカンの油滴実験
⑨わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見
⑩唯一の謎―一個の電子の量子干渉

いずれも高校物理や理化の授業でなんとなく記憶にあるような有名な実験である。
各実験の章の最初に、実験の具体図がわかるような科学者自身の図や絵を並べて当時の実験をわかりやすく説明し、科学者の人間くさいエピソードも紹介しながら、最後に何故その実験が美しいと言えるのか、美の概念を展開していきながら展示されている。またInterludeの章も読み応えがある。科学と哲学を融合させたようなところに特徴があり、読んでいて知的な楽しみと喜びを与えてくれる。
またこの一風変わった画廊にある作品を順番に時系列に鑑賞すること自体、科学史を学ぶような趣すらある。

私がこれらの中でもっとも美しいと心底感心した実験は、英国の科学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731~1810年)の地球の重さを量る実験である。
彼は人づきあいが非常に苦手で、近隣の挨拶さえ苦痛で散歩の時間を夜に変更したぐらいだ。また徹底的に几帳面で「星の運行を支配する法則のようにゆるぎない」法則に従って日常生活を遂行したという変人である。しかし、より深く、よりシンプルな美に心をひかれた彼は、精度の高い測定のセンスがあった。
この実験は、ニュートンの二つの物体を引っ張る重力の大きさは物体の密度に比例するという法則から、ふたつの金属球のあいだに働く引力を測定しようという発想からうまれた。天井から吊り下げた竿のようなワイヤーの両端に二つの小さな球を取り付け、さらにもう少し大きな球を同じようにさげて重力による振動を測定して、二つの球の間に働く引力の大きさと球と地球のあいだに働く引力の大きさから、地球の平均密度を求める実験である。この装置に改良を続け、きわめて高い精度で地球の重さを量ったのだ。著者は、”端整に切り詰められた簡素な美”と評しているが、私は地球の重さをわずか5㎝ほどの球から測ったという究極の対比、しかも実験対象がそれぞれ円形という永遠性を感じさせる美に感動した。

また次点としては、地球の自転を証明したフーコーの振り子であろう。パンテオンに設置された振り子の荘厳な動きを想像するだけで、時をゆっくり刻む優雅さにため息がでる。しかももっとも簡単な装置で、こどもでも理解できる。
いずれも本書を読むことで日頃からよく何気なく、直感的に美しいという言葉を使うが、美の概念、美の力、美の役割、美そのものを考えるきっかけにもなった。

プラトンは名著「饗宴」で、美は目に見える領域にイデアが燦然と輝き出したものだという言葉を残した。
すなわち自然界の秩序は、知を愛する者たちに対し、美によって自らの存在を告げる。それゆえ知を愛する者たちは、美を求める心をないがしろにせずに深く育まなければならない。なぜならばその行為は、真を求める心を育むことになるからだ。

だったら科学実験は、美しいと言えるのか。その解は、自明だろう。
美しさを理解できるあなたには、この展覧会に行かれることをお薦めしたい。★★★★★

『君に捧げる初恋』

2007-01-10 23:03:48 | Movie
恋愛小説の大家である渡辺淳一氏は、最近の純愛ものは幼稚な愛であると苦言?を呈している。さすが「愛の流刑地」なる新聞小説で、シゴトと妻へのオツトメでお疲れ気味のビジネスマンの男心を巧みについている大御所ならではの発言。渡辺センセイは、SEXにはその人の人格や趣味や育ち、教養というすべてが表れると力説している。だから肉体関係の伴わないプラトニックな純愛は幼稚で、本物の愛ならず。

それでは、初恋はどんなに情熱を捧げてもやはり本物の愛とはいえないのだろうか。
韓国の慶南高校の高校生ティル(チャ・テソン)の24時間は、すべて担任の生物教師の一人娘、幼なじみのイルマ(ソン・イェシン)のためにある。憧れの初恋の君イルマは、まさに才色兼備のパーフェクトな女性。それにひきかえティルは、IQ148にして最下位の成績。弱いくせに喧嘩っぱやく、単純でその度の越えた猪突猛進ぶりのお馬鹿まるだしの行動は、学校中の名物の笑いもの。ティルの執念の凄まじさにとうとうイルメの父親、ヨンダルは全国の試験の3000番以内に入った者にイルメを譲ると宣言する。
これにはティルは、驚いた。約束が違うではないか。幼い頃、センセイは自分のカラダにオトナの”印”が表れたらイルマと結婚してもよいと約束したのではなかったのか。然し、イルマをゲットするためには、たとえどんなに困難で険しい道のりも乗り越えなければならない。覚悟ができている。我が身のすべてはイルマのために!!
そしてティルの「初恋死守決起大会」は始まったのだが。

ティルの命がけで初恋を死守する行動は、異性との恋愛が開放された現代ではもはやありえないパターンであろう。彼は、死ぬほど猛勉強をして潘基文(パン・ギムン)国連事務総長も卒業した名門ソウル大学に入学。同じく梨花女子大に進学したイメルの純潔を守るために、彼女の女子専用マンションの向かい合わせの部屋をキープ。父ヨンダルのミッションを実行するためにも、彼女の行動を監視してオオカミの毒牙から救うためには身を投げ出すことさえ厭わない。たとえ、そのため彼女にどんなに嫌われようとも。
ちなみに勿論ティルは、童貞だ。不図、脳裏をよぎる不安は、彼女と結婚できなかったら一生童貞のままで終わるかもしれないことだ。
父からの難関ミッションを次々とクリアしていくティルだったが、イルマにはすべてにおいて彼より上物と思われる強烈なライバルの好青年が現れる。
ここでイルマは、ティルの気持ちを察してライバル、イ・ビョンウクとの結婚を反対する父に涙ながらに訴える。

人がよくて好きになってしまった女性にふりまわされるティル役に『猟奇的な彼女』『永遠の片想い』でも好演しているチャ・テソンが、本作品でも再びお尻を出して熱演。私生活でも13年間の初恋を死守して結婚するという実績がうなずけるような、純な人柄がスクリーンからも伝わる。清純派女優のトップを走るソン・イェシンは、『四月の雪』での演技にみるように、清楚な人形から演技力の幅をつけるかのように水着姿も披露している。肉感的な女優ではないだけに、新鮮なエロティシズムが漂うのでファンにとっては必見のシーンだ。ラブ・コメディ路線を突っ走りながら最後の胸にせまる涙の落しどころをワンパターンと見るか、韓流映画のお約束と受け入れるかで評価がわかれるところだろう。

「彼とはもう寝たわ。何度も何度も抱かれた。」
そう、父に訴えるイルマの何度も寝て、何度も抱かれた相手とは、初恋の君との結婚を夢みて童貞を守るティルではなく新しい彼のイ・ビョンウクである。その事実を知ったティルは、廃人のようになってしまった。
イルマの肉体を知ったイ・ビョンウクと、いまだに彼女にキスすらできないティル。果たしてどちらが本物の愛なのだろうか。
同じく恋愛の大家であるGacktさんの言葉に

「恋は奪うもの 愛は与えるもの」

という名文句がある。
私に言わせれば恋とは与えるものであり、愛は惜しみなく奪うものである。またそうありたい。
ティルは、いまだ本物の愛にであってはいなかった。そしてイルマもまた。
彼は、激しく恋をした。確かにすべてを捧げてイルマに恋をした。しかし、彼らの愛は静かに深く、あのキスをした時からはじまるのであった。

『王の男』

2007-01-08 22:27:52 | Movie
女より美しい-

王の愛妾であるノクスが思わずもらした旅芸人の女形コンギルの美貌は、その美しさゆえに人々の運命と歴史の歯車を狂わせた。男の美貌は、肉体が男であるために鑑賞する以上の行為が禁じられるがゆえに、その神々しさは女以上に美しいのだ。彼の美しさは、果たして罪だったのだろうか。

16世紀初頭の田舎町に、ひときわ豪快で華やかな旅芸人たちがいた。チャンセン(カム・ウソン)と女形のコンギル(イ・ジュンギ)だった。精彩を放つ彼らの芸は観客を魅了したが、土地の有力者にとってはその芸よりも勝る関心はコンギルへの美貌だった。その美貌を一晩抱いてみたいと、金で彼を買おうとする。チャンセンはその侮辱を許さず、ふたりで一座を抜け出して国一番の芸人になるために漢陽の都をめざした。
ようやくたどりついた都では、時の王ヨンサングン(チョン・ジニョン)が妓生ノクス(カン・ソンヨン)を宮女にして、政よりも遊びに熱中しているとのもっぱらの評判だ。チャンセンは、宮中を舞台に王とノクスを揶揄する芝居を思いつき、たちまち彼らの芸は町中の人気をさらった。ところが王の重臣チョソン(チャン・ハンソン)が、チャンセンたちを捕まえて王を侮辱した罪で死刑を宣告する。
「王が笑えば侮辱じゃない」そう説得するチャンセンの提案に重臣は心を動かされ、王の前で芸を披露する日がやってきた。苦虫を噛み潰したような王の前で、恐れと緊張でふるえて無様な芸人たち。王が笑わなかったら、死刑が待っている。しかし人前で笑ったことのない王が、コンギルの見事な芸と妖艶な微笑についに声をあげて笑った。その高らかな笑い声がすべての者の耳に届いた瞬間に、王、重臣、芸人たち彼らの運命と歴史は悲劇に向かって暗転していくのだった。

公開後わずか45日で1300万人の韓国の人々を魅了した絢爛豪華な王朝モノ映画のコピーや解説には、「固い友情で結ばれたふたりの芸人たちと、愛を知らない暴君」とある。確かに映画の始まりでは、チャンセンのコンギルへの男らしくあつい友情に目を奪われる。が、会場を後にするとそれは友情だったのか、友情だけだったのかという視点にとらわれた。
芸人と王は、立場も性格もあまりにも対照的である。生まれた時から、政略の渦にまきこまれながらも次代の君主としての教育を受けた王に、コンギルと奔走し、旅芸人という生き方を自ら選んだチャンセン。自由な彼らと、すべてのものをもちながらも自由のない宮廷に幽閉されているような王。いつも飢えていて今日の食事を心配しながら芸を披露する彼らを宮廷に住まわせて支配していく王だが、その王はやがてコンギルの妖艶な美しさにとらわれて、彼の愛情を求めて支配されていく。最後までコンギルを守り男らしく自分の主義をまげずに芸を貫いたチャンセンは強い精神力をもっているが、人民を司る王はあまりにも弱かった。コンギルを寵愛し、自分の権力にまかせて所有していく王だったが、ついに彼の心までは捕まえることはできなかった。
その一方で自分の命すらひきかえにコンギルを守ろうとして友情を示したチャンセン。もしチャンセンが、コンギルに対して友情以上の感情をもっていたら。陰謀にまきこまれ命の危ういチャンセンを逃がす時に重臣がかけた「コンギルはあきらめろ」という言葉の意味。日本以上に同性愛がタブーとされる韓国で、この映画が歴代動員新記録をうちたてたことが話題になったのも当然だ。チャンセンが命がけでコンギルを守ろうとしてのも、決して口にもだざす態度でも示すことのなかった彼への愛ゆえだ。コンギルへの愛し方も正反対だった芸人と王だったのだ。
打楽器のリズムと緊迫感が、彼らの愛族劇と披露する芸の緊張感を華やかに盛り上げる。音楽もよし、演出、脚本、キャスティング、タイトル、すべてが最高ともいえる水準だ。
韓国の16世紀に実在した朝鮮王朝を舞台にしているため、建築物、衣装、調度品、朱色を基調として色彩、すべてに韓国らしさを感じるが、権力者と彼をとりまく家臣たちの陰謀や愚かさ、猥雑で下品な芝居やパフォーマンスに大笑いする庶民のしたたかさ、自由を愛する旅芸人たち、そして女にしか興味がなかったはずなのに美少年に出逢ったがために心が乱されていく狂王の悲劇や愛情を友情に昇華していく身分の卑しい芸人の気高さ、それらは国境をこえて時代をこえて観客を魅了する。
この映画に説得力をもたせて芸術性を高めたのは、なんといってもコンギル役を演じたイ・ジュンギの中性的な妖しい美しさであることは言うまでもない。しかし、一番印象に残ったのが、王を演じたチョン・ジニョンだ。亡き父王の亡霊から逃れることができず、遊びに狂うことに自我を埋没する孤独な男の哀しみ、そして自分の孤独を唯一理解してくれると思っていたコンギルが去って行こうとした時の絶望。まさに男の色気がその表情がにじみでている。
お正月映画にふさわしい映画だった。

監督:イ・ジュニク

「舞台裏の神々」ルーペルト・シェトレ著

2007-01-07 22:44:16 | Book
「あけましておめでとうございます。」

さて、2007年の音楽シーンの幕開けは、今年も世界中に衛星中継されるウィーンフィルのニュー・イヤー・コンサート。今年度の指揮者は、1990年に初めてこの特別なコンサートの指揮を務めて、4回めの登場となるズービン・メーター(Zubin Mehta)である。”いかにもウィーンっ子”という風貌で固めた楽団の中央に位置するインド出身の彼であるが、1954年にウィーン国立音楽大学に留学し、59年にウィーン・フィルを指揮して大成功をおさめた。その後、ウィーン・フィルとは円満な関係を続け、2001年にウィーン・フィルの名誉会員にもなっている。出自がどこであろうと、彼の棒はニュー・イヤー・コンサートを登場するにふさわしい団員への説得力をもっているのであろう。ウィンナ・ワルツの独特のリズムにウィーンっ子はうるさいのだ。もっともあのカラヤンに言わせると「嫌がるダックスフントを無理やり散歩に連れて連れて行く時の感じ」らしいのだが。

その完璧主義のヘルボルト・フォン・カラヤンですらもこんな楽団を振るのは、多くの意味で大変だっただろうと思わされたのが「舞台裏の神々」での指揮者と楽員の楽屋裏話である。著者のルーペルト・シェトレは1957年ドイツ生まれのチェリストで、83年以来ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルにて演奏活動を行っている。年齢的にも音楽家として油がのっている時期でもあり、貫禄をつけつつあるキャリア20年超という親父世代、またフリーランサーという立場からその楽屋オチの話題には遠慮がない。我が敬愛なるcalafさまをしてモーツァルトのレクイエムの原点とまで言わしめたカール・ベームを「グラーツ生まれの田吾作」とまで言い切り、そのペン先はめっぽう鋭い。ベームという特殊な?指揮者とオーケストラの関係を楽員の立場から超激辛のこんな笑い話で解説している。(ちょっと過激ですが、著書からそのまま引用)

「指揮者とかけてコンドームと解く。その心は?あった方が安全、ない方がずっと気持ちよい!」
・・・そうだ。。。
多くの楽員たちは今日でもベームのモーツァルトのすばらしい演奏に心を打たれる。とはいえ、残念ながら彼は彼らから好かれてはいなかった。その理由は、本書を読めば納得もいくだろう。それに比較して、900点にも及ぶディスクの市場占有率が同業者全部の合算の二倍にも達するという実績からCDを頭上で輝かせて表紙を飾ったカラヤン(←)は、百戦錬磨の楽員を御し、尚且つ「ウィーン音楽」にも無比の腕前を示して最高の音楽を導き楽員から尊敬された。
また日本人指揮者の小澤征爾がウイーン・フィルを率いて、ヨーロッパツアーをしていたときのこと、ストラヴィンスキーの難しい「春の祭典」を暗譜で指揮したことがある。しかし、八回の演奏の間、たった一回ミスをした。演奏会が終わると小澤は、大喝采している聴衆をよそに、楽員たちに自分のミスを詫び、自分自身への拍手を受けることを謝絶したというエピソードも披露されている。

音楽という芸術分野でのフィールドからあくまでも”ユーモア”を死守し、今年のトップ・バッターのズービン・メーターやカラヤンだけでなくすでに伝説になった指揮者や演奏家のアネクドート(逸話)が楽しく綴られ、所謂暴露話という下品さからはまぬがれている点からも、本書はクラシック音楽愛好家にもお薦めできる。そして哀しいかな、指揮者という最高のオシゴトの難しさも皮膚感覚で感じとれる。ウィーン・フィルを振るということは、実に恐ろしいことなのだ。

最後に私の好きなエピソードを紹介したい。
指揮者として遅咲きのオットー・クレンペラーが、高齢になった時のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの演奏会の直前、トイレを探したが女性用しか見当たらなかった。大慌てで女性用トイレにかけこみ用をたしたが、運の悪いことにやはり慌ててトイレに駆け込もうとした淑女と遭遇してしまった。腹をたてて黄色い声で、「あなた、ここは婦人用ですよ!」と抗議するその女性に向かって、指揮者は慌てず騒がず自分のズボンの股上を指してこうのたまった。

「ここも婦人用ですよ!」

今年も宜しくお願いします★