千の天使がバスケットボールする

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『麦の穂をゆらす風』

2007-01-21 21:04:15 | Movie
アイルランドという国は、私にとっては不思議な国だった。いみじくも作品中でも主人公が同じことをつぶやているのだが。
1998年4月10日、60年以上続いた北アイルランド紛争は一応の和平合意に達した。これによって英国・北アイルランドの政治家ジョン・ヒューム(カトリック穏健派、社会民主労働党の党首)とデービッド・トリンブル(プロテスタント最大政党のアルスター統一党党首)がノーベル平和賞を受賞するという栄誉に輝いた。
ようやく平和が戻ると世界中から期待されつつも、和平条約にある北アイルランド議会と自治政府の設置項目も、IRAに武装解除をめぐりプロテスタント系政党と、シンフェイン党が対立。英国政府は一時的に自治を凍結したりと現在も混迷が続いている。

日本人の多くが、北アイルランド問題をプロテスタントとカトリックという宗教対立という構図でとらえがちだ。私自身もそうだった。何故ここまで同じ国民が激しく対立するのか、「宗教の違い」で説明されても理解できない。その疑問を解くべく「麦の穂をゆらす風」を観たといっても過言ではない。歴史的にみれば宗教の対立もあったが、もともとは英国による植民地政策と占領問題からくる英国の一部であることから独立問題に妥協点を見つけスタートしたいユニオニスト(連合主義者)や王室主義者に対して、完全独立をめざす国民主義者や王制に反対して共和主義を掲げるリパブリカンによる対立である。

アイルランド、南部コーク。医師であるデミアン(キリアン・マーフィー)は、ロンドンでの大病院への勤務が決まった。明日出発するという日、仲間とハーリングを楽しみ幼なじみの家に別れの挨拶をしに行く。そこに突然やってきたのが、英国の治安警察補助部隊のブラック・アンド・タンズ。彼らはアイルランド人に対して屈辱的なふるまいをしたうえに、アイルランド語の名前を名乗ったという理由で17歳の少年を射殺する。アイルランド独立運動に身を投じリーダー的存在である兄に比較し、英国軍の強大な武力の前に冷静で現実的な判断をするデミアンは、独立運動から一歩ひいてロンドンへと出発すべく駅に向かう。そこである事件を目撃したことによって、彼は医師になる道を捨てて独立運動の戦士となっていく。

英国人であるケン・ローチ監督がこの作品を完成させると、反英国的であると論争が起こったという。この反映国的であるか否かの議論は、この映画の本質ではない。何故かというと監督自身も語っているように、宗主国である英国がアイルランドを紳士的に手離しながらも、これまた紳士的に経済の権益は手離さなかったという構図は、今日も尚裕福な西側諸国と発展途上国の関係にみられるからだ。また共通の敵に向かうために、主義や利害の異なるものが共闘しても、支配勢力による不正操作によって内部が対立していくとう図式もイラクにあるように繰り返されるパターンだ。カンヌ国際映画祭でパルム・ド・ゴール賞を受賞したのは、残酷なシーンをあえて排除して”娯楽映画”として商業ベースにのせない監督の静かな、しかし深い洞察力に満ちた視線で語られるひとつの小さな国のお話に多くの共感が集まったゆえだ。

人は、イデオロギーのためには冷徹にもなれる。医師をめざしたはずのデミアンが、アイルランド独立のために幼なじみの少年を処刑する場面がある。国家の独立と自由への大きな目的のためには、小さな命の犠牲はまさに車輪の下に消えていく。だから彼は、恋人との私生活へ戻ることを拒絶したのだった。それが自分が銃をうった少年への償いでもあり、譲ることのできない信念だ。独立運動に投じた有名な運動家ではなく、無名の一市民を主人公としたところに、散っていったたくさんの人々の人生が凝縮されている。淡々とすすむ物語は、哀しいことに予想された結末を迎えた。このラストシーンに、衝撃を感じることもなく冷静に鑑賞できるのも、あまりにも世界中で起こっている事件が多くのことを暗示しているからなのだろう。

映画の背景