千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『映画のようには愛せない』

2007-01-27 22:47:38 | Movie
「ハケンの品格」③では、総合職の出世コースを登る東海林が、ハケンという立場と職種が違うにも関わらず、同じ土俵という戦場で戦う春子の優秀さにノックアウトされてしまったというのがポイントだったと思う。同じフィールドの戦士がカップルになると、それぞれの能力や才能がわかるために嫉妬や挫折感、おもに男性側のコンプレックスなので破綻する場合と、逆にクルントン夫妻や音楽家カップルによくみられるような無二の親友というあらたな関係もうまれ、ふたりの絆がより固くなる場合がある。

ステーファノとラウラの関係はどうだったのだろうか。
ステファーノ(ルイジ・ロ・カーショ)は、イタリアを代表とするベテランで人気俳優。舞台俳優出身だったが、今では映画・テレビと活躍の場を移し、人気にみあう高額所得者。19世紀のまるで「椿姫」のような彼が主演する貴族役の相手の恋人に無名の新人が決まりそうだと聞いて不満を感じる。しかし初日の読み合わせの時に、もう若くないが美しく不倫の恋に生涯をかける貴婦人役にはまり役のラウラ(サンドラ・チェッカレッリ)のとらえどころがなく、それでいて凛として雰囲気に惹かれて行く。東海林と違い、ステファノは自分がラウラに恋をしていることを自覚していく。しかし肉体関係だけのつながりしかない女性としか付き合ってこなかった彼は、俳優としては一流だが自己中心的な男で他人には無関心。人に愛されても、誰かを本気で愛したことのないステファノ。一方、ラウラは女優として成功したいという野心はそれほどではないが、気がついたら彼女に惚れた男を利用してのしあがっていくタイプ。この事実と過去の男性関係を知ったステファノは、周囲のスポットライトと関心を集めて女優への階段をのぼるラウラに、同じ土俵で戦う俳優としての嫉妬と男としての嫉妬に苦しんでいく。それは、今まで数々の女性に対して行ってきた行為の報いであることに彼は気がついていない。

映画は、19世紀の誠実で人望の篤い貴族の紳士が、賢夫人と誉れの高い妻と可愛いこどもがいるにも関わらず、ひとりの伯爵の愛人と舞踏会で出会ったがために恋に落ちるという悲恋ものという映画の中の映画、つまり劇中劇という様式で現実のカップルの恋模様を描いている。
ルイジ・ロ・カーショは決してイケ面ではない。身長も高くなく小顔の痩せ型、イタリア男につきもののちょいワル系の色気や、たくましい生活力を感じさせるマッチョ系のセクシーさもない。そんな男性が、多くの優れた映画に次々に出演していることが、今日のイタリア映画らしさなのかもしれない。本作品でも「輝ける青春」の精神科医に重なるような、19世紀時代のいかにも家庭を大事にする人徳者でありながら、一途で純粋な貴族役を演じつつ、身勝手で感情的な俳優役も演じている。ところが美貌を武器に伯爵という後ろ盾を利用して社交界に生き残る女性と、たいして好きでもないが援助してくれるプロデューサーと一夜を過すラウラには、”女力”とでもいうような共通する部分がある。女は、どんな時代でもたくましく女を貫くということか・・・。それは兎も角として、役者として頂点をきわめるかのようなルイジ・ロ・カーショに比較して、綺麗だが二番手のようなサンドラ・チェッカレッリの方がより高い演技力を求められると感じたのが、この劇中劇だ。サンドラ・チェッカレッリは、冒頭のカメラテストの監督(映画の中の)の質問に答える場面だけでひきこまれる。もう若くはなく、ショート・カットに近い金髪とシンプルで質素な服装。それが逆に彼女の愛らしさと美しさをひきたてる。そして次の台本の読み合わせでは、一瞬にして前世紀の悲しい恋におちた女性の佇まいをかもしだす。ステファーノは、彼女の燃えるような瞳にたじろいでしまう。映画の中のラウラに負けて悩むステファノと同様に、この映画ではサンドラ・チェッカレッリの勝ちである。

映画のようには愛せない。この素適な邦題の原題は、「LA VITA CHE VORREI」(私の望む人生)
ラストの彼女の選んだ生きかた、彼女の望む人生に共感を覚える女性は多いだろう。そうだよね、、、やっぱりこれからはオンナの時代だ。男性諸君、覚悟せよ。

監督:ジョゼッペ・ピッチョーニ