千の天使がバスケットボールする

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『椿姫』

2007-01-13 23:42:54 | Classic
年末の芸術劇場の特別番組に、映画監督にしてオペラの演出家でもあるフランコ・ゼッフィレッリが自宅でインアビューに応える場面があった。
フィレンツエェに生まれルキノ・ヴィスコンティの薫陶を受け、ココ・シャネルに気に入られ、マリア・カラスの音楽を愛した世界的な名声を得ている初老の男性。しかし初めてテレビで観たゼッフィレッリは、初めて見るタイプの男性だった。室内のインテリアは、殆ど白といってもよい上品なベージュに淡い水色のコントラストを入れた色彩に統一され、家具や調度品は計算され尽くした絶妙なバランスに置かれている。冷たい鏡の前を飾る花束もその白い静謐さが、この部屋の主を物語っている。
脚を組んでソファに座るゼッフィレッリは、青みがかったストライプの入ったシャツにアイス・ブルーのリブ編みのセーターを重ねていた。そのセーターの雪を連想させる寒色系の、日本では探してもどこにもないような微妙な水色に目を奪われた。彼は完璧なインテリア以上に最高に趣味がよく、また最高に上品だった。このような男性が存在するのだ。
そのフランコ・ゼッフィレッリが、ヴェルディのあまりにも有名な「椿姫」の映画を1982年に撮っていた。しかもアルフレード役は、彼が見いだしたプラシド・ドミンゴ。



18世紀初頭のパリ社交界の一番の名花は、高級娼婦のヴィオレッタ。その美貌の前に、誰もがひれ伏す。純情な青年アルフレードもヴィオレッタを崇拝する彼らの一人に過ぎないはずだったが、ただひとつ違っていたのは、彼は心から純粋に彼女を愛していることだった。その情熱は、娼婦という身分から本物の恋など自分にはありえないと信じていたヴィオレッタを変えた。彼女は、彼のために全財産をなげうってまでも、郊外の屋敷でたった一人の男、アルフレードを待つ生活を選んだ。しかしそんな蜜月も長くは続かなかった。。

音楽は、生の演奏が一番。にも関わらずオペラをあえて映画化するには、パリ郊外の景色など舞台で演出化するのが難しい「椿姫」はうってつけだろう。
監督があのゼッフィレッリだから、舞台はまるで泰西名画を見るような趣である。舞踏をする人々の衣装や髪型は、ヴィスコンティの映画「山猫」の有名な舞踏会の場面を彷彿させる。蝋燭の燭台、シャンデリア、カーテン、どんな小さな小道具までも磨きぬかれた芸術品で飾られている。病を隠すヴィオレッタと彼女をめぐる男や女たちの思惑が、退廃的な貴族の雰囲気を盛り上げる。そして中盤、豪奢で絢爛たる屋敷から一転、舞踏会とは縁をきり自然に囲まれて素朴な衣装に身を包む椿姫の生活も見どころである。
特にアルフレードの父の願いを受け入れ、アルフレードと別れて再び別の男爵とともに仮面舞踏会に戻る場面は圧巻である。
スペイン情緒をふりまくバレエの演出は、かってこれほど贅沢な場面を観た事がないくらいだ。ミュージカル映画「オペラ座の怪人」にも仮面舞踏会の場面があったが、華やかさと豪華さは比較にならない。ここでもゼッフィレッリの師匠から継承された貴族趣味と、私生活に共通する”派手”さが炸裂するような感じだ。これを観ていると、よくわからないが年末紅白歌合戦で非難ごうごうだったとか言う演出が、あまりにも貧しく思える。
また歌うために脂肪細胞を限りなく増加させた歌手が多いオペラ界で、よく巷間言われる太った椿姫はありか?なる疑問を忘れさせてくれる歌姫を登場させるのが、映画オペラの条件だ。但しこの映画の主役は椿姫ではなく、監督。次にアルフレード役のプラシド・ドミンゴだ。体躯といい、声といい、それ以上にドミンゴのルックスはアルフレード役に最適である。まだ声に今ほどの色気がないが、それもいたしかたがない。顔だちの良さが、ヴィオレッタの深い思いも気づかないで嫉妬に激情する単純な男としてもうってつけである。それにしても「椿姫」は、真冬に観るのがふさわしい。今夜は、スパークリング・ワインで乾杯をした。

フランコ・ゼッフィレッリは、自らも含めてヨーロッパ独特の「オピュレンス」を演出している稀有な人でもある。

作曲 ‥‥ジュゼッペ・ヴェルディ
監督 ‥‥フランコ・ゼッフィレッリ
演奏 ‥‥メトロポリタン歌劇場管弦楽団
合唱 ‥‥メトロポリタン歌劇場合唱団

ヴィオレッタ/テレサ・ストラータス(ソプラノ)
アルフレード/プラシド・ドミンゴ(テノール)
ジェルモン/コーネル・マクニール(バリトン)


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