千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ドーン」平野啓一郎著

2009-09-27 18:15:40 | Book
米専門委が火星有人探査への推進提言
[ケープカナベラル 9月8日 ロイター] 米航空宇宙局(NASA)による有人宇宙飛行計画の審査を進めてきたホワイトハウスの専門委員会は8日、2020年までに月探査を再開する計画を見直し、火星探査に向けた取り組みを進めるよう提言する報告書をまとめた。NASAが進める月探査計画は、予算総額400億ドル(約3兆7000億円)のうち、既に77億ドルを投じて新型のロケットや乗組員の移動用カプセルの開発を進めている。その一方で、NASAは「ジェネレーション・マーズ」という火星探査構想を策定。今後30年にわたって、火星への有人探査に向けた準備的なミッションを重ねながら、技術開発を進めていく計画という。

***************************************************
先日観た映画『宇宙へ』は、月をめざした米国NASAのプロジェクトと宇宙飛行士たちのフォロンティア精神のドキュメンタリー映画だった。天文学的と言いたいくらいの巨額なお金と膨大の労力と宇宙飛行士たちの尊い生命をかけて、ケネディ大統領の宣言どおりに米国は1969年に月面に人類を送り込んだのだった。そして40年たった今、世界の関心は火星へと向かっている。

本書の主人公である佐野明日人は、2033年に人類で初めて火星におりたった宇宙飛行士のひとり。およそ2年半の人類史上最も長い旅行をおえて無事帰還した彼を迎えたのは、宇宙飛行士として、また唯一の日本人宇宙飛行士としての世界的英雄に与えられた人々の喝采と賞賛だった。しかし、この世紀の大成功にも関わらずNASAでの帰還後の彼の評価は低かった。実は、宇宙飛行船「DAWN」では、起こしてはならない”ある事件”が発生していて、明日人はその事件に関与した当事者と疑われていたのだった。おりしも米国では大統領選挙をめぐって激しい選挙戦が展開され、火星探索のミッションの是非をめぐる議論も影響を与えていた。そして、その事件の真相とは。。。

『葬送』でショパンを主人公にして緻密で重厚な文章で、文壇の正統派の花道を歩むかにみせて、平野啓一郎さんの書き下ろしの最新作は、なんと近未来に舞台をおいたエンターティメント性を重視したSF小説。その理由を著者は、ネット社会の到来により「文学はある時期から難しいテーマを扱った作品と読者が乖離してしまった。本にあまり興味のない人にも読んでもらうにはどうしたらいいのか。書き方も工夫しないと作品を読まれなくなるなという危機感があった」とインタビューでこたえている。最初は読みながら、どうにも平野さんの小説を読んでいる”つもり”で瀬名秀明さんの小説を読んでいるではないか、という錯覚に何度もおちた。特に、明日人と今日子夫婦の東京大震災で亡くした二歳の愛息”太陽”のDNAを利用して再現した、ARというシステムがつくりあげたバーチャルな”太陽”の存在だ。彼(?)に触れることはできないが、確率の統計をプログラミングされて成長していく太陽をそのまま再現したかのように走り、しゃべり、感情をもち、まるで人口知能を搭載した”映像”で存在するヒューマノイド型のロボットのようだ。しかし、最後にはエンターティメント性を装いつつ、ジャンルにこだわるつもりはないが純文学の筆がさえた才能ある作家の傑作だとおちつく。本書はまぎれもなく、平野啓一郎氏の作品だった。

才能ある作家、そういった若くしてデビューする作家は、これまでも芥川賞受賞騒動の中から生まれてきたが、なぜ、私が平野啓一郎さんの作品に関心をもつのかも本書で解明したような気がする。米国の大統領選挙、アフリカ問題、アウトソーシングされる戦争や紛争、生物兵器、監視社会、格差社会、宇宙開発、ネット社会がもたらす可能性と闇、、、私が関心をもってきた((おそらく多くの方も)社会や政治、未来と現実、個人のアイディンティティなどそれらを見事にほりさげて、発想は豊かにしかも的確に小説にしてきたのが平野啓一郎氏であり、それらが凝縮されたのが「ドーン」だった。監視カメラがとらえる≪散映≫と検索機能、可塑整形、≪ウィキノヴェル≫など、まさに何年、何十年か後には実現していそうで、著者の発想に感心させられる。そして、今度あらたに提示してきたのが「分人主義dividual」である。

分人主義とは、相手や状況によって「異なる自分」になるという概念である。本当の自分に仮面をつけた単なるキャラの使い分けや、多重人格のような病気とも違う。本書からの引用によると

「夕方までの就労時間中は社会の中で機能的に分化し、それ以後は、ネットや友人関係の中で趣味的に分化して、対人関係の多様さの分だけ、人間は自分の中に分人をどんどん増やしていかないと、とても生きていけなくなった」

思わず、うなってしまった。内弁慶という言葉があるように、学校や家庭で人柄が多少違うのはよくある現象。しかし、分人主義は全く違う概念である。昔は、閉鎖的だが家庭の延長のようなコミュニティが存在した。しかし、都市化がすすみ人間関係が希薄になり、その一方でネットを通じて顔のない人間関係がひろがる世の中で、ひとつの個だけで生活するのではなく、場や相手に応じて自己を調整することが求められるようになった。作品の中では、保守的な共和党は否定し、民主党は多様化を肯定するためにも分人主義を認めている。そもそも自分はなぜブログをはじめたのか。開設当時の文章を読むと、確かにカイシャとは違う自分を取り戻す意図があったようだ。カイシャでの自分は仮面をつけた自分でもキャラを使い分けているわけでもなく(そもそもそんなの無理だが)、カイシャにふさわしい多面のうちのひとつの顔、カイシャのために用意したちょっと居心地の悪い”ディヴ”だったのではないだろうか。おっと、私も分人主義を自然とやってきてしまったようだ。平野さん曰く”認めた方が楽になる”そうだから告白。「日蝕」から「ドーン」まで、圧倒的な筆の力で実に多彩な作品を世に送ってきた作家自身の作品も”分人主義”が≪散映≫に残したディヴだろうか。これまでの集大成のような作品を読み逃さず幸運だった。救いのある結末の感想は、結婚してから平野さん、少し変わったかも、になる。現在、読売新聞の夕刊で初の恋愛小説「かたちだけの愛」を連載中。

■アーカイブ
「ウェブ人間論」
「顔のない裸体たち」
「決壊」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿