千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

WANTED カミッロ・シヴォリ

2010-06-15 23:07:43 | Classic
6月14日の日経新聞に、東京藝術大学でイタリア語を教えていらっしゃるというルチアーナ・ギッツォーニさんによる興味深い記事が掲載されていた。
日本人ビジネスマンと留学先の米国で出会ったイタリア人の彼女が、長年傾倒(熱愛?)している音楽家がカミッロ・シヴォリ(Ernesto Camillo Sivori)。と、名前を聞いても、私も全く知らなかったのだから、この天才ヴァイオリニストの旋律復権のために20年以上も孤軍奮闘しているルチアーナさんのご苦労がしのばれるというものだ。

シヴォリは1815年、ジェノバに生まれ、あのニコロ・パガニーニ(1782~1840年)から唯一弟子入りをゆるされたヴァイオリニストである。彼は幼い頃より音楽に興味を示し、その才能を発揮。パガニーニがジェノバに滞在した1822年10月から23年5月にかけてふたりは出会って、後に師弟関係を結ぶようになる。天才必ずしも名伯楽にあらずのとおりだろうか、パガニーニは「弟子のためにこんな簡単な練習曲を書くのは嫌だ」とくしゃくしゃにした楽譜を渡し、失敗すれば乱暴で無愛想な口調で注意、また人を馬鹿にした口調で皮肉な笑いをうかべていらだったように部屋中を行き来する。「能力は問題ではない。忍耐と精神力がすべてだ」と力説して、暗譜で練習曲を完璧に弟子の前で弾きこなす。パガニーニの過酷なレッスンを通じて、シヴォリは音階練習をしない日があってはならない(←現代も同じ)とたたきこまれ、終生、規則正しき励んだそうだ。

そんな鬼教師をシヴォリは愛情をこめて、”パガニーニは師事した中で最低のヴァイオリン教師”と回想しているという。”最低”の教師による最高の教えの成果だろうか、シヴォリは12歳でジェンバ宮廷劇場でデビュー、パガニネット(小さなパガニーニ)と聴衆から愛され、また恩師からは何曲か献呈され、死の床にもよばれて演奏のお礼に名器を贈られた。ところで、その幸福な弟子のその後の足跡が、実は大変興味深いのである。

シヴォリはライプチヒでメンデルスゾーンと出会い、珠玉の名曲!「バイオリン協奏曲ホ短調」の英国初演を託され、パリではロッシーニと知り合い、その遺体をパリからフィレンツェに移送する儀式ではオペラ「モーゼ」の旋律を奏でた。リストやベルリオーズら同年代の作曲家だけでなく、後にイタリア統一を達成するガリヴァルディ将軍とも面識があった。1846年には渡米して、ジャマイカで罹った黄熱病も克服、マネージャーを務めた実兄の株投資失敗により全財産を失うという不運にも見舞われるが、精力的な演奏と作曲活動で復活、最後には慈善演奏会までこなした。まさに華麗にして波乱万丈のメロディ!

しかし、ドラマチックなメロディを奏でるシヴォリの曲が忘れられつつあるのは、ルチアーナさんの分析によると師匠の万事派手で強烈なパガニーニの影になり、存在感が希薄なためだろうということだ。聴衆にとってセカンドの価値は低いものだ。確かにあの悪魔的なパガニーニに比較すると善良なる小市民的な風貌だ。しかし、ルチアーナさんによると1994年にシヴォリ没後100年を記念して録音された曲を聴くと、超絶技巧を生かしながらたっぷりと歌いあげる旋律は今でも魅力的に響くそうだ。
よし!こうなったらスピードの速い歴史に埋もれつつあるシヴォリの捜索願いをしてみよっと。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿