NHK交響楽団正指揮者を務め世界的な指揮者の岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが13日午前0時20分、心不全のため都内の病院で死去した。73歳。岩城さんは5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後、重度の貧血のために入院した。入院中も「衰えないようにしなくちゃ」と指揮棒を振り続けていた。
6月1日に岩城さんが指揮を務めていたオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のゼネラルマネジャー山田正幸氏が見舞いに訪れると、点滴を打ちながら「大丈夫、大丈夫」と笑顔で話していた。当初は10日にも復帰の予定だったが、体調が戻ることなく息を引き取った。葬儀・告別式は近親者のみで営まれ後日、お別れの会を開く。
ベートーベンなど後期古典派から、打楽器をふんだんに使った現代音楽まで意欲的に取り組む一方で、病気とも戦い続けた。87年、重労働がたたり、首のじん帯にできた骨が脊椎(せきつい)の神経を圧迫する「後縦靱帯骨化症」を患い、首の骨を切断する手術を受けた。89年胃がん、01年に咽頭(いんとう)がん、昨年は肺がんを手術した。
8月に復帰後の年末、ベートーベン交響曲第1番から第9番まで10時間続けて演奏した。「ベートーベンで命を失うのは仕方ない。それぐらいベートーベンを尊敬している」と語り、隠れて酸素吸入をしながら、指揮棒を振り続けた。音楽に生涯をささげた。(6/14日刊スポーツより)
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岩城さんといえば、指揮棒をふるだけでなく、エッセイストととして軽妙洒脱にペンをふることでも、その才能を遺憾なく発揮させた。しかし、高校時代野球に熱中した岩城少年が、文字通り生涯を捧げたのは音楽だった。追悼文を読んでいると、この方らしいエピソードが並んでいる。
以前連載されていた日経新聞の「私の履歴書」でもおおいに笑わせられ、また経験から培われた含蓄のある文章は、実業界以上に読み応えがあった。本来「私の履歴書」は、名をなしりっぱな肩書きのついた今日の姿まで続いて終わるのだが、岩城氏の連載はなんと指揮者デビューで終わった。その後の指揮者としての世界的な活躍ぶり、現代音楽へのとりくみや地方都市の音楽活動の支援と続くはずなどだが、それを書いたら自慢話めいてスマートじゃないというのが、終止符をうった理由だった。そんな岩城氏の美意識を日経新聞では”本当のダインディズムを体現した芸術家”、読売新聞では”最後まで活火山であり続けた人のダンディー”と追悼していた。
後縦靱帯骨化症という難しい職業病に患い首の骨を切断する手術を受けた岩城氏は、後年その手術の跡がめだたないシャツを着ていると告白していた記憶がある。岩城氏のダンディズムのなせるお洒落とも言いたいが、健康面に不安を与えることからのマイナス・イメージを指揮者として排除する工夫と、視覚的に最もひとめをひく位置への観客への配慮だと思っている。そんなダンディな方であるが、同じ指揮者の若杉弘氏の追悼文からはまた違った一面ものぞかれる。
若杉氏が大学一年の時、ブリテン作曲オペラ「ねじの回転」のプロムプターを務めていた。公演初日を控えて白熱する稽古場に、指揮者の岩城氏が来ない。なんと岩城氏は、稽古場に向かう途中乗っていたタクシーが花屋さんに突っ込むという交通事故に遭っていたのだ。気がつくとまわり中白や黄色の菊の花に囲まれて、「人間、死ぬ時に自分の葬式を観ることがあるんだなと思った」そうだ。それは兎も角、入院していた岩城氏の代わりに指揮をふったのが若杉氏だった。それを病院から観にきた岩城氏は、初対面の彼に指揮者に向いている、応援するからチャレンジしてみろと奨めた。微笑ましいのは、大学3年のときに、若杉氏が「フィガロの結婚」をふるコンサートに、岩城氏はプロムプターをかってでて、「舞台の上は俺がさばくから、オケだけしっかり見はっていろ」と自分の車のバックミラーをはずして、プロムプターボックスに持ち込んだというエピソードだ。
音楽に生涯を捧げた岩城氏だが、あまりにも多忙である日音楽を憎んでいる自分に気がついた。それからは、毎年1ヶ月音楽から離れた休暇をとるようにしたと言う。
私は、最後の最後まで病にみまわれながらも、現役で指揮台にたってこられた原動力の秘密を見た気がする。
http://www.t-bunka.jp/jisyujigyou/hibiki19/hibiki19_interview.htm
6月1日に岩城さんが指揮を務めていたオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のゼネラルマネジャー山田正幸氏が見舞いに訪れると、点滴を打ちながら「大丈夫、大丈夫」と笑顔で話していた。当初は10日にも復帰の予定だったが、体調が戻ることなく息を引き取った。葬儀・告別式は近親者のみで営まれ後日、お別れの会を開く。
ベートーベンなど後期古典派から、打楽器をふんだんに使った現代音楽まで意欲的に取り組む一方で、病気とも戦い続けた。87年、重労働がたたり、首のじん帯にできた骨が脊椎(せきつい)の神経を圧迫する「後縦靱帯骨化症」を患い、首の骨を切断する手術を受けた。89年胃がん、01年に咽頭(いんとう)がん、昨年は肺がんを手術した。
8月に復帰後の年末、ベートーベン交響曲第1番から第9番まで10時間続けて演奏した。「ベートーベンで命を失うのは仕方ない。それぐらいベートーベンを尊敬している」と語り、隠れて酸素吸入をしながら、指揮棒を振り続けた。音楽に生涯をささげた。(6/14日刊スポーツより)
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岩城さんといえば、指揮棒をふるだけでなく、エッセイストととして軽妙洒脱にペンをふることでも、その才能を遺憾なく発揮させた。しかし、高校時代野球に熱中した岩城少年が、文字通り生涯を捧げたのは音楽だった。追悼文を読んでいると、この方らしいエピソードが並んでいる。
以前連載されていた日経新聞の「私の履歴書」でもおおいに笑わせられ、また経験から培われた含蓄のある文章は、実業界以上に読み応えがあった。本来「私の履歴書」は、名をなしりっぱな肩書きのついた今日の姿まで続いて終わるのだが、岩城氏の連載はなんと指揮者デビューで終わった。その後の指揮者としての世界的な活躍ぶり、現代音楽へのとりくみや地方都市の音楽活動の支援と続くはずなどだが、それを書いたら自慢話めいてスマートじゃないというのが、終止符をうった理由だった。そんな岩城氏の美意識を日経新聞では”本当のダインディズムを体現した芸術家”、読売新聞では”最後まで活火山であり続けた人のダンディー”と追悼していた。
後縦靱帯骨化症という難しい職業病に患い首の骨を切断する手術を受けた岩城氏は、後年その手術の跡がめだたないシャツを着ていると告白していた記憶がある。岩城氏のダンディズムのなせるお洒落とも言いたいが、健康面に不安を与えることからのマイナス・イメージを指揮者として排除する工夫と、視覚的に最もひとめをひく位置への観客への配慮だと思っている。そんなダンディな方であるが、同じ指揮者の若杉弘氏の追悼文からはまた違った一面ものぞかれる。
若杉氏が大学一年の時、ブリテン作曲オペラ「ねじの回転」のプロムプターを務めていた。公演初日を控えて白熱する稽古場に、指揮者の岩城氏が来ない。なんと岩城氏は、稽古場に向かう途中乗っていたタクシーが花屋さんに突っ込むという交通事故に遭っていたのだ。気がつくとまわり中白や黄色の菊の花に囲まれて、「人間、死ぬ時に自分の葬式を観ることがあるんだなと思った」そうだ。それは兎も角、入院していた岩城氏の代わりに指揮をふったのが若杉氏だった。それを病院から観にきた岩城氏は、初対面の彼に指揮者に向いている、応援するからチャレンジしてみろと奨めた。微笑ましいのは、大学3年のときに、若杉氏が「フィガロの結婚」をふるコンサートに、岩城氏はプロムプターをかってでて、「舞台の上は俺がさばくから、オケだけしっかり見はっていろ」と自分の車のバックミラーをはずして、プロムプターボックスに持ち込んだというエピソードだ。
音楽に生涯を捧げた岩城氏だが、あまりにも多忙である日音楽を憎んでいる自分に気がついた。それからは、毎年1ヶ月音楽から離れた休暇をとるようにしたと言う。
私は、最後の最後まで病にみまわれながらも、現役で指揮台にたってこられた原動力の秘密を見た気がする。
http://www.t-bunka.jp/jisyujigyou/hibiki19/hibiki19_interview.htm
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