千の天使がバスケットボールする

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「海と毒薬」遠藤周作著

2008-11-15 16:46:12 | Book
東京から離れた郊外。そこに車が通る度に黄色い埃が濛々と巻き上がる道路にある一軒の病院。腕は抜群だが、無愛想で生活が荒んでいる印象がする変わり者の医師、勝呂には、戦争末期の九州の大学病院の研修生時代に、白人米兵捕虜の生体解剖実験に関わった過去があった。

みんな戦争で死んでいく時代だった。病院で死なない者は、空襲で明日死んでいく。そんな時代に研修生として大学病院に勤務する勝呂にとって初めての患者のおばはんに、まるで実験台にされるような危険な手術の予定が入ると、空襲で亡くなるよりもオペで殺された方が医学の人柱になるだけよっぽどましと豪語する友人の戸田。すべてが戦争の暗い闇に覆い尽くされ、倦んだ虚無的な日々が流れていく。やがて、虚ろな暗黒の雲は、戦争という非常事態に、医学部長の椅子をめぐる橋本教授たちの権力闘争を契機として、生きたままの人間を解剖するという衝撃的な行動を起こす。

九州帝国大学で実際に起こった相川事件をモチーフに、日本人の良心と善の拠り所と神の不在を問いた遠藤周作氏の問題作である。
「日本人とはいかなる人間か」
評論家の佐伯彰一氏の解説によると、これは遠藤周作氏が生涯に渡り問い続けたテーマーである。ムラ社会というコミュニティに共存する日本人の倫理観や道徳心は、所謂”世間の目”によるところが大きいというのが定説である。自分の行いや言動が、他人から、また世間や社会からどのようにとらえられるか。欧米人の、人が見ていなくても神は常に自分の行いを見ているという観念から、行動規範を自らに律する点と隔たりがある。然し、この倫理観には、世間であれ神であれ、いずれ何らかの形で罰せられ、自らに報復されるという恐怖心の方が、良心よりも優っているように思われる。残念ながら、良心よりも人は恐怖心により支配されやすいのではないだろうか。
作品では、神の存在を絶対とする西洋人として、勝呂たちの頂点にたつ橋本教授が独逸留学時にリーベして妻となったヒルダを登場させている。ヒルダが苦しんでいる患者を薬で安楽死させようとしている看護婦に、「神さまの罰を信じないのですか」と厳しく叱責する場面は、その後の彼女の夫の生体解剖の執刀の非人道的な罪を罰する重みをもち、日本人の神の不在による良心の罰のありかを問う要になる。然し、神を信仰する独逸人が、ナチズムの空気に洗脳されてユダヤ人を大量虐殺した事実を考えれば、私は日本人論にとらわれずに、絶対的な権力の支配下における自己の喪失を本書から感じとった。

戦争という異常な”空気”の中で、大方の日本人にとっては、世間は国家、軍隊や軍人に成り代わり、個としての基盤を失い軍隊が支配する集団に埋没せざるをえなかった。また、それが戦渦の中の日本人のアイデンティティとも言えよう。病院内で時代は変われど「白い巨塔」を彷彿させるような大学病院内での、教授の回診場面。橋本教授たちが医学部長の親戚を手厚く診察して早めの手術を行うのも、おばはんを実験台とした手術も、医療という目的を隠れ蓑に部長選挙に向けての点数稼ぎである。病院内での医師は、患者にとっては絶対的な権力者として君臨している。然し、その医師たちも大学という枠の中では、医学部長、教授、助手といった権力のヒエラルキーにしばられ、またそれも、軍人が支配していく。この時代の権力の支配、またその場の”空気”から離れて、人が個人の良心を問い続けるのは難しい。現代人の私たちも、会社という組織に一旦ビルトインされてしまうと、ひとりの人間としての”善”を見失うのは、会社の組織ぐるみの不祥事が後を絶たないことからもわかる。又、戦争という狂気の空気にたやすくのみこまれていくのも人間である。
橋本教授のモデルとされた石山福二郎教授は、逮捕されてからも「実験的な手術ではなく、捕虜を救い医療行為」と否認し続け、独房で遺書を残した自殺した。

作品は、手術に関わった勝呂、友人の医師・戸田、ひとりの看護婦の手記という形式をとっている。
捕虜の解剖に立ち会うものの、医師としての良心に苦しみ目をそむけることしかできなかった勝呂は、素朴で他人への共感性もある一般的な日本人であるが、戸田はこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけであり、生体解剖実験も医学に貢献できると考える合理的な研究者である。彼らは、特殊な人間でも残酷な性格でもない。罪に苦しみいつか罰を受けると恐れる勝呂も、他人の眼や社会の罰にしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分を不思議に感じる戸田も、我々自身にあると言えなくもないだろうか。

「これからも同じような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・・・アレをねえ」
中年になり、ひっそりと町の片隅で医師を続ける勝呂がくたびれた低い声でつぶやく。
全編に黒くぬめりとした海の波のゆらぎが漂い、いつまでたっても余韻にゆれて漣のようなざわめきが残る作品である。中編小説程度の本の厚みだが、何度も繰り返して読みたくなる内容の充実度に、改めて狐狸庵先生の本業(?)を知った次第である。

映画『海と毒薬』熊井啓監督


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2 コメント

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残念ながら (ペトロニウス)
2008-11-15 23:40:00
いつも残念に思うのは、日本のキリスト教徒は、とても鋭い「日本とは何か?」という本源的な部分に踏み込めるようで、、、、、なんとなく悔しく思ってしまいます。自らのうちに絶対性を持つ人が、やはり今の時代では、いろいろな部分に深く踏み込めるんだな…と。そういう深く思考できるのは、うらやましい。同時に、その他のアジア諸国に比べて、特に強制もしていないのに、キリスト教徒の比率が日本はとても少ない・・・これも不思議です。
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ペトロニウスさまへ (樹衣子)
2008-11-17 22:28:11
お引越しが無事に済んでよかったですね。

>自らのうちに絶対性を持つ人が、やはり今の時代では、いろいろな部分に深く踏み込めるんだな…

その絶対性が、信仰や宗教である必要もない・・・と考えていくのが私なのですね。けれども、昨今の日本では、ゆるぎない軸をもつ人が減少してきているから、本源的な部分になかなか踏み込めない悔しさもわかります。

>その他のアジア諸国に比べて、特に強制もしていないのに、キリスト教徒の比率が日本はとても少ない・・・これも不思議です。

そう言えば、遠藤周作氏の他の著者か、或いは他の作家の何かでその理由を読んだ記憶がありますよ。思い出せたら、どこかで書きますね。
まあ、血液型鑑定書が大人気の日本人ですからねっ。(笑)
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