2日間かけて、「船に乗れ!Ⅱ独奏」と「Ⅲ合奏協奏曲」を読了。それはもう、心の中は波高しの荒れ模様の怒涛のような時間だったわさ。
調べたら、「Ⅰ合奏と協奏」で初対面だったサトルたちと再会したのは一ヶ月ぶりなのに、ページを開けばそんな空白の期間など一気に飛んでしまい、「Ⅰ」の最後のページを閉じたのがまるで昨日のような感覚だった。じっくり読みたい、サトルの音楽の話も、金窪センセイの講義も、伊藤君のフルートが奏でる音楽も、心のずっと奥までしっかり届けたいと感じながらも、次々とページをめくる指の動きがとまらない。それは、彼らとの別れが近づくことにもなるのに。
「Ⅰ」で漂っていた不穏で暗いかすかな調べが、「Ⅱ」ではまるでベートヴェンの「運命」のように開かれる。
なんと!南が・・・、それは決して許されないサトルの行動、やっぱり伊藤君は・・・と次々とやってくるドラマの音楽に私の小さな小さな船は翻弄されっぱなしだが、最後はまるでバッハのシャコンヌを聴くような高みへとのぼる。合奏。なんという体験だっただろう。100%物語だけとってしまえば、読者の心をつかむためのツボをえたキャラに読書の快楽中枢を刺激する都合のよい展開とも言える。しかし、著者自身が音楽学校出身、実際ドイツに留学していた経験もあり、実体験を基に「音楽から逃げた」過去の大きな痛みをともないながら書いた小説と聞くと、それはヤングアダルトの範疇をこえて、オトナになったら読める本だと思える。(私は、著者の藤谷治さんのことを全く知らなかったが、この本を書くにあたり相当苦しまれたことを想像する。しかし、いつかは過去の自分と向き合わなければならなかったことも)
音楽は哲学と密接な関係にある。音楽小説としても充分に読み応えがあるのだが、更に本書に強力な魅力を与えたのが哲学である。金窪先生による哲学の講義がいきていて、最後にタイトルにつながる構成も抜群。藤谷氏の文章は、美しく緻密な文章というよりも、荒削りな言葉遣いだが奥が深いのもサトルの弾くチェロのようだ。それにしても、30年ちょっと前の日本の(本書の表現を借りた)三流の音楽高校を中心としてクラシック音楽の状況も伝わってくる。オペラを聴きに行くホールが、東京文化会館はともかくとして、音楽を再現するのは大きな円盤型のレコード頼り。iPodは勿論、ウォークマンなんかも登場していない。今のように、比較的安価に高校生でも手軽の手が届くところに音楽はなかった。現代では、特別な音楽家の家庭でもなくても、一般家庭でも、もの心がついた頃から往年の名演奏と日常生活を過ごしてきたこどもは珍しくない。ブランデンブルク協奏曲など、あきるくらいに聴いてきた。サティは、今ではすっかり有名人。海外留学も当たり前。携帯電話の着メロ、電車の発車合図の音楽、勤務先の湯沸しポットなんか、お湯が沸くとバッハのメヌエットが鳴って教えてくれる。しかし、豊穣な音楽の中で、心まで音楽的に豊穣であるかは別である。だから、”あの時代の”サトルたちをいとおしくも感じる。
ところで、著者は饒舌に、すべてを語りつくしてはいない。金窪先生の生活背景や、南がとった行動の本当の動機も謎であり、伊藤慧の心情も告白もあきらかにはされていない。美人ピアニストの北島先生だけをとりあげても、一篇の小説が隠されているような気がする。ここを想像(解説)することも一興である。
「誰もいないところで弾く独奏にも、聴衆はいる。なぜなら、
君を見ているもう一人の君が、かならずいるからだ。」
もしかしたら物足りないかも・・・と案じつつ、とりあえず「Ⅰ」だけ借りてみた私の見込み違い。まぎれもなく、私にとっては10年に一度の青春文学の最高傑作。
■アーカイヴ
・「船の乗れ!Ⅰ 合奏と協奏」
調べたら、「Ⅰ合奏と協奏」で初対面だったサトルたちと再会したのは一ヶ月ぶりなのに、ページを開けばそんな空白の期間など一気に飛んでしまい、「Ⅰ」の最後のページを閉じたのがまるで昨日のような感覚だった。じっくり読みたい、サトルの音楽の話も、金窪センセイの講義も、伊藤君のフルートが奏でる音楽も、心のずっと奥までしっかり届けたいと感じながらも、次々とページをめくる指の動きがとまらない。それは、彼らとの別れが近づくことにもなるのに。
「Ⅰ」で漂っていた不穏で暗いかすかな調べが、「Ⅱ」ではまるでベートヴェンの「運命」のように開かれる。
なんと!南が・・・、それは決して許されないサトルの行動、やっぱり伊藤君は・・・と次々とやってくるドラマの音楽に私の小さな小さな船は翻弄されっぱなしだが、最後はまるでバッハのシャコンヌを聴くような高みへとのぼる。合奏。なんという体験だっただろう。100%物語だけとってしまえば、読者の心をつかむためのツボをえたキャラに読書の快楽中枢を刺激する都合のよい展開とも言える。しかし、著者自身が音楽学校出身、実際ドイツに留学していた経験もあり、実体験を基に「音楽から逃げた」過去の大きな痛みをともないながら書いた小説と聞くと、それはヤングアダルトの範疇をこえて、オトナになったら読める本だと思える。(私は、著者の藤谷治さんのことを全く知らなかったが、この本を書くにあたり相当苦しまれたことを想像する。しかし、いつかは過去の自分と向き合わなければならなかったことも)
音楽は哲学と密接な関係にある。音楽小説としても充分に読み応えがあるのだが、更に本書に強力な魅力を与えたのが哲学である。金窪先生による哲学の講義がいきていて、最後にタイトルにつながる構成も抜群。藤谷氏の文章は、美しく緻密な文章というよりも、荒削りな言葉遣いだが奥が深いのもサトルの弾くチェロのようだ。それにしても、30年ちょっと前の日本の(本書の表現を借りた)三流の音楽高校を中心としてクラシック音楽の状況も伝わってくる。オペラを聴きに行くホールが、東京文化会館はともかくとして、音楽を再現するのは大きな円盤型のレコード頼り。iPodは勿論、ウォークマンなんかも登場していない。今のように、比較的安価に高校生でも手軽の手が届くところに音楽はなかった。現代では、特別な音楽家の家庭でもなくても、一般家庭でも、もの心がついた頃から往年の名演奏と日常生活を過ごしてきたこどもは珍しくない。ブランデンブルク協奏曲など、あきるくらいに聴いてきた。サティは、今ではすっかり有名人。海外留学も当たり前。携帯電話の着メロ、電車の発車合図の音楽、勤務先の湯沸しポットなんか、お湯が沸くとバッハのメヌエットが鳴って教えてくれる。しかし、豊穣な音楽の中で、心まで音楽的に豊穣であるかは別である。だから、”あの時代の”サトルたちをいとおしくも感じる。
ところで、著者は饒舌に、すべてを語りつくしてはいない。金窪先生の生活背景や、南がとった行動の本当の動機も謎であり、伊藤慧の心情も告白もあきらかにはされていない。美人ピアニストの北島先生だけをとりあげても、一篇の小説が隠されているような気がする。ここを想像(解説)することも一興である。
「誰もいないところで弾く独奏にも、聴衆はいる。なぜなら、
君を見ているもう一人の君が、かならずいるからだ。」
もしかしたら物足りないかも・・・と案じつつ、とりあえず「Ⅰ」だけ借りてみた私の見込み違い。まぎれもなく、私にとっては10年に一度の青春文学の最高傑作。
■アーカイヴ
・「船の乗れ!Ⅰ 合奏と協奏」
>若い人は「がんばって練習して立派な音楽家になりました」
という話ではないことに戸惑っているような感想がちらほら
その若い人たちは音楽というものをあまり知らないのかも、頑張れば音楽家になれるのであれば、南もサトルも音楽家になっていたでしょう。
音楽家になるには、頑張るのはあまりにも当たり前のこと過ぎて、それは小説にはならないと思うし、練習プラス多くのαが必要だということは本の中でもさんざん書かれていましたのに。
>しかし私にとっては・・・痛いくらいにリアルでした、この物語
・・・お察しします?その痛みがあるから、本書には感動しますね!いやあ・・・読書の醍醐味をたっぷり味わって楽しかったです。
確かにこれはオトナのための小説ですね。
ブログ等散見すると、若い人は「がんばって練習して立派な音楽家になりました」
という話ではないことに戸惑っているような感想がちらほら。
しかし私にとっては・・・痛いくらいにリアルでした、この物語。