宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

「アタマを空っぽにする瞑想」の意義

2013年07月05日 | 精神世界を語る
 
最近は、本当にアタマの中から雑念が消えてきた。意識の中心がハートチャクラのあたりまで降りてきて、そこで定着している。脳と違って、ここは、感性や感情のエリア。考えるのには、あまり適していない。だから、思考が止まる。

「なんでも知ってるけど、頭がカラッポな人」というのが、筆者の目標とする人物像なのだ。

矛盾してるようだけど、実際に、思考を止めることに取り組みつつも、一方では知識をせっせと集めてきた。特に、精神世界については、「日常生活の役に立たないことをコレだけやってれば、リアルの人生にかける時間とエネルギーが、その分だけワリを食うのも仕方ないよなあ」としみじみ思うほどに、やってきた。

先日、久しぶりに目白のカトリック大聖堂に行って、荘厳なパイプオルガンに耳を傾けて感動した。そこで思い出したのだが、そういえば筆者は、学生時代にカトリック教会に通って、高名な外国人神父の勉強会でカトリック要理を学び、信者なみの素養を身につけたのだった。そのことを、オルガンを聴くまで、すっかり忘れてた。

「信者なみ」というより、聖トマス・アクィナスの「神学大全」とかを読みふけっていて神父からも感心されたし、「修道院体験プログラム」とかにも参加してたくらいだから、並の信者以上の取り組みだったと言ってもおかしくない。

イスラム教のコーランにも、同じように慣れ親しんでいる。どちらかと言えば、聖書よりコーランの方が好きだ。世界的に有名な巨匠・井筒俊彦の名訳があるけど、文字で読むより、読誦を聴く方がさらにすばらしい。中世のイスラム思想にもハマった。あれは、神秘思想の最高峰だろう。

東洋思想についても、仏教や老荘思想だけではない。儒教のことも、たまにチョロッと書くけど、これまた、論語・大学・中庸・孟子、易経や詩経といった四書五経に慣れ親しんでいる。朱子学や陽明学の古典も読んできた。

このため、学生のときは、酒を飲んで酔っ払うと、漢文を引用し始めることが、よくあった。たとえば、金持ちのボンボンの友人から「今夜の飲み代はオゴってくれや」と言われ、「子のたまわく、我これを聞く。君子は、急を救うて富めるに継がずと・・・」(※)とかなんとか、論語をひとくさり引用し始める。まるで、江戸時代の生きる化石みたいだった。

シュメール神話のエンリル神の話も、「アンタも好きねえ」とコメントされるくらい、よく書くテーマだけど、これだって、池袋のサンシャイン・シティにある「古代オリエント美術館」に通って、古代シュメールの粘土版を何度もジックリと観察してきた成果だ。

シュメール神話に限らず、ギリシャ神話にも、中国神話やインド神話その他にも、長らく慣れ親しんでいる。

もちろん、日本の神話は、その中でも別格。小学生の頃から、日本神話が大好きで、歴代天皇の名前(神武・綏靖・安寧・懿徳・・・明治・大正・昭和)をすべて暗誦し、「日本は神の国」と唱える皇国史観少年だった。
 
ついでに、西洋哲学も手広くやっている。ジョン・ロックや、モンテーニュ・デカルト・パスカル・ベルクソン、スピノザ・ライプニッツ・カント・ヘーゲル・ショーペンハウアー・ニーチェ・ヴィトゲンシュタイン・・・といった、主だった西洋哲学の古典を一通り学んだ。

一方、新興宗教の各宗派についても、「なんで、ウチの宗派のことを、そんなに知ってるの!?」と信者さんからビックリされることが少なくない。実際に、信者なみに教義を知っている新興宗教が、ひとつやふたつでなく、いくつもある。ネットの掲示板で某教団の教義を批判していたところ、「アナタの教義批判のおかげで、教義の背景が深く理解できました。立場は違うけど、どうもアリガトウ」と、逆に感謝されたことすらある。

チャネリングについても、「バシャール」を20数年前に読んで以来、常に最新流行を取り入れてきた。ラー文書やハトホル書など、主だったチャネリング文献の多くをブログで取り上げてこれたのは、そのおかげ。

さらに、精神世界でよく出てくる関連の話題についても、経済とか金融はもともと専門分野だし、学習塾で理科の先生をやってたこともあるほど、科学にも詳しい。
 

ブログでは、ニューエイジ系の精神世界論とか、仏教と老荘思想の話になることが多いけど、その背景はこれだけ深くて厚い。

普通にやってたんじゃ、こうはならない。要は、ものごころついた頃から、こんなことばかりやっている。かつて、失業して何ヶ月か失業保険をもらってたときも、就職活動は二の次で、そんなことばかりやっていた。上記のようにメニューが多彩だから、それでも忙しいのなんの。睡眠時間や食事時間を削って、本は、和書も洋書もすべて速読。「はい、次いこ、次」っていう感じ(笑)。
 

そういう人が、チャネリングのメッセージをコピペして、「やはり、アセンションは進行中なのだ」と説くのだから、これは、いやが上にも発言に重みが増すというものじゃないか!?

一部の人たちからは、「なんだ、このコピペは。説得力がまるで無いぞ」というご批判を頂戴することもあるとは言うものの・・・(笑)。


何年か前に、船井会長の講演をアチコチでよく聴いていた時期があった。そこで船井会長は、「私は、精神世界については世界一くわしいんじゃないかとも言われています」とか、「私は、精神世界については、日本一くわしい人の一人とされてます」と自信満々に語っていた。

それでいて、船井会長は、「私は、聖書も仏典も読んだことがありません」とも言っていた。もちろん、聖書や仏典を読まなくたって、精神世界を探求する上では、とくに差し支えない。必要はないけど、それだと、「世界一くわしい」というようなタイプの人になるのは無理。

確かに、「30代から、忙しいビジネスマンとしての日常のかたわら、精神世界の勉強をやってきました」ということだし、それで、あれだけの人になったことには感心する。でも、2~3年前に出た、「私の長年の霊界研究の集大成です」という本を書店で見たところ、なんと、某教祖の教えそのまんま。さすがに、後書きでは、「某教祖の著書を参考にしました」とは書いてあったが・・・。新興宗教に対する免疫がなさすぎて、ちょっと危なっかしく見えた。


またまた脱線したけど、それはともかく、そんな自分が、いまや「アタマを空っぽにする瞑想」に取り組み、ちゃくちゃくと成果が上がってきているということに、人生の皮肉を感じている。

でも、それが事実なのだ・・・。「アタマを空っぽにする瞑想」には、とても高い効果がある。

(続く)
 
 
(※君子は、困ってる人を助けることはあっても、金持ちにワイロを贈ることはありません・・・という意味)
 

チャクラに意識を集中する

2013年07月05日 | チャクラ



瞑想で意識覚醒を目指すなら、ひとつひとつのチャクラをしっかりと意識することが大事になる。

そのためには、まず、チャクラの位置を正確に把握しなくちゃいけない。チャクラの場所が分からないのに、意識しようったって無理がある。中には、自力でチャクラを発見できる人もいるだろうけど、そんな人は、そもそも修行する必要ないし(笑)。

通常は、眉間のチャクラを初めとする、身体の表面のツボをチャクラとして意識するわけだけど、クンダリニー瞑想では、背骨に沿って存在するとされる「スシュムナー管」が重要なので、各チャクラは、みんなスシュムナー管の中。つまり、身体の奥の方にある。

とはいっても、上の図にあるような小さな点として、ピンポイントで意識するのは、なかなか無理がある。ここは、だいたいの見当をつけてかかるしかない。

それぞれのチャクラの位置が分かったら、次は、チャクラに意識を集中する。このときの、集中力の鋭さと強さが鍵を握る。

「意識は脳にある」というのは、20世紀の人間の古い信念でしかない。実際には、意識は、脳だけでなく、からだ全体に広がっている。その、漠然と広がってる意識を、ひとつのチャクラにググッと凝縮する。

意識は、スシュムナー管に沿って、上に行ったり、下に行ったりする。最終的には、スシュムナー管そのものが一本の棒みたいになり、頭のテッペンからゴソッと丸ごと抜け出すらしいんだが、残念ながら、そこまでは意識できてない・・・。

何はともあれ、修練あるのみ。スポーツとか、武芸とか、楽器の演奏とかなら、修練がモノを言うのは誰でも知っている。精神世界も、例外ではない。

なぜか、精神世界だけは、「信じるか、信じないか」という信念の問題だと、世間の一般人に思われているのは残念だ。それは、入り口の段階では確かにそうだろうけど、そんなの何だって一緒。空手の修行をするのだって、「これをやれば強くなる」という信念がなきゃ、長続きするはずもない(笑)。

瞑想で意識を集中するのは、日常生活にも、確実に役に立つ。瞑想で鍛えた集中力や観察力は、とても便利だ。スポーツで鍛えた筋力や持久力が、生活に役立つのと変わらない。

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