宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

超感覚的な認識を身につける ~ ルドルフ・シュタイナー

2010年03月10日 | 精神世界を語る
     
ちくま学芸文庫から、「シュタイナーの死者の書」という本が出ている。文庫だし、シュタイナーの著書にしては、わりと平易で読みやすい本だ。あくまでも、シュタイナーにしては、なのだが・・・。この講演録では、「死後の生活」というテーマを取り上げている。
   
世間の一般人に「精神世界」と言えば、「霊界は実在する!!」(by丹波哲郎)というような話だと思われることが多い。だが、それは必ずしも当たっていない。
 
もちろん、精神世界ファンに、「あの世」とか「生まれ変わり」の話が好きな人は多い。たとえば、「アナタの前世は、坂本龍馬ですた」とか、「私は、寝ている間に魂が体を抜け出して、UFOで金星に連れて行かれますた」(鳩山夫人か・・・?)といったタイプの話。ほかならぬ筆者自身、そういう話をよくする方だ(笑)。でも、誰もがそうだというワケではない。実のところ、精神世界関係者には、その手の話題を嫌う人も少なくないのである。
 
いわゆる「霊ばなし」を好まない人の代表格といえば、やっぱり、お釈迦さまだろう。古代インドの釈尊は、「あの世」とか「生まれ変わり」について、具体的な話をほとんどしなかった。それだけでなく、弟子たちがその手の話題で盛り上がるのも嫌がった。同様に、現代ではやっぱり、クリシュナムルティが最右翼と言える。いろんな意味で、精神世界の極北をゆく、クールな人たちだ・・・。
 
それに比べて、ルドルフ・シュタイナーの場合は、霊に関する話題にも、つっこんだ話をするのが特徴。とはいえ、もちろん、巷(ちまた)の霊能者とは違うので、なかなかストレートに語ることはない。その点、本書は、「死後の生活」を真正面から(?)取り上げた、シュタイナーの講演録として注目される。

それにしても、なぜ、釈尊やクリシュナムルティを頂点とする、この分野の本格派(というより、硬派というべきか?)の人々は、この手の話題を嫌うのだろうか。もともと、精神世界は、大なり小なり、「目に見えない世界」を扱っている分野だ。とは言っても、「精神世界の探求者は、目に見えない存在を信じる人なのだ」というワケではない。どちらかといえば、それは宗教の信者がとるスタンスだ。クリシュナムルティに「私は何も信じない」というタイトルの著書があるのだが、探求者には、それで十分。では、精神世界の探求者は、どのようなスタンスをとるべきなのだろうか。
 
それは、「あるがままを、あるがままに見る」というスタンス。

あらゆる先入観を捨てて、あるがままに見るのが探求者のとるべき姿勢であり、目標だろう。それに従うならば、「目に見えるものしか、見ない」(当たり前といえば、当たり前なのだが・・・)というのが、とりあえずの基本。それが、自然な態度と言える。
 
「目に見えない存在」を無視する人々は、「現実主義者」と呼ばれる。必ずしも、悪いことではない。現実主義者は、生きて「この世」にいるから、「この世」という現実しか見ないのである。そういう人が、死んで「あの世」に逝ったら、今度は「あの世」という現実しか見なくなっても不思議はない。常に、目の前の現実だけを見ている。真の現実主義者とは、そういうものだ・・・(笑)。
 
もっとも、「物質」という、分かりやすい素材でできている「この世」とは違って、「あの世」という現実には、決まった形がない。百人いれば、百通りの「あの世」がある。それは、どちらかといえば、内面的な個人体験に近い。だから、「あの世」について他人が語った内容をせっせと勉強しても、得るものは多くないと言える。ただし、参考にはなるので、たまには聞きたくなるのが人情というものだ・・・(?)。
 
いまや、ヘミシンクをはじめとする、さまざまな瞑想用ツールが開発され、誰にとっても「目に見えない世界」が身近になってきたとされている。筆者の周囲にも、見霊体験を語る人が続出している。どうやら、今の世の中には、霊視者が増えているのかもしれない。
 
それはともかく、通常、一部の霊能力者を除けば、「霊」の姿は、人の目には見えない。また、霊が語ることも、人の耳には聞こえない。それは、ナゼなのだろうか。この、「霊が目に見えない、耳に聞こえない」というのは、ルドルフ・シュタイナーの生涯を通じて、最大級の関心事だったと言えるだろう。

「シュタイナーの死者の書」の場合、その主張はストレートだ。ずばり、「霊を見るという能力を身につけよう」、「霊視者になろう、霊聴者になろう」、と訴えている。
 
こりゃまた、ずいぶん思い切ったことを言うものだ。通常、霊視者・霊聴者は、自分が見たことや聞いたことを語るもの。聴衆に向かって、「アナタ方も霊視者になりなさい」とは、なかなか言わない。シュタイナーはなぜ、これほど「見霊能力を身につける」にこだわるのだろうか。それにはやっぱり、シュタイナーなりの事情がある。人にはそれぞれ、事情ってものがあるのだ。
 
というのも、ドイツ人のシュタイナーは、若い頃は大学の哲学科でゲーテを専攻していた、哲学の研究者だった。当時の哲学界には、18世紀の大哲学者・カントの影響が色濃く影を落としていた。大哲学者・カントの巨大な影は、当然のことながら、若き日のシュタイナーにも重くのしかかってくる。
 
カントの思想的な特徴のひとつに、「神さまのこととか、あの世のこととか、そういう話を基本的にやらない」というスタンスがある。これには、カント自身の思想傾向もさることながら、やっぱり、時代の精神ってものがあった。17世紀を代表する大哲学者・デカルトは、まだ「神の実在を証明する!!」とヤル気満々だった。でも、カントが生きた18世紀ともなると、欧州(特に、先進国のイギリス・フランス)は、すでにバリバリの近代社会そのもの。人々の考え方も変わってきている。
 
カントは、「人間の認識の限界」を説いた。いわく、人間の限られた認識力では、神とか、霊魂とか・・・そういった(目に見えない)ものを、ダイレクトに認識することができない。哲学者は、「神は実在するのか、しないのか」とか、「霊魂は不滅なのか、そうでないのか」というような問題に、いつも頭を悩ませてきたのだが、最終的な解答をズバッと出すことは誰にもできなかった。一方、数学者や物理学者が、問題にスパッと解答を出しているのを見ると、うらやましくて仕方がない。それに比べて、哲学の、なんとマドロっこしいこと。かつては「学問の王様」だった哲学が、人々にマトモな学問と見なされなくなったのは、こんな「解答の出ない問題」に取り組んでいるのが原因だ・・・という、哲学業界における業界人としての危機感が、カントにはヒシヒシと迫ってきていた。よって、これからは「解答の出ない問題」を、哲学から排除する・・・というのが、大哲学者が出した結論。後に続く者たちは、みんな右にならえ。いつしか、「人間の認識の限界を超える問題」のことなど、誰もが避けるようになっていった・・・。
 
若き日のシュタイナーの前には、このカント思想が、厚い壁となって立ちはだかっていた。学問の府は、カントの色に染まってた。「シュタイナー自伝」には、「私は再び認識論に立ち向かった。私の前には、(カントに帰れ、を強調した新カント派の)オットー・リープマンの思想が立ちはだかっていた」、「運命の定めるところにより、私は当時の(新カント派の)認識論と対決せざるを得なかった」と述べられている。
 
シュタイナーは考えた。哲学でさえ、マトモな学問と見なされないのなら、ましてや、「霊学」はどうなるの。霊学は、目に見えない世界を真正面から扱っている。これではとても、霊学の研究者が、世間様からマトモだとは見てもらえそうにない。
 
「これは、人間の認識力に限界があるというのが原因だ」と、シュタイナーは考えた。人間の認識の限界を超える世界の話にとどまっている限り、霊学には「確実な根拠」ができない。認識力の限界を拡張しない限り、霊学の基礎づけはできっこない。霊学が、誰にも否定されない立派な学問になるためには、霊学の学徒がすべからく「超感覚的な認識力」を身につけなければならない・・・というのが、シュタイナーが出した結論。
 
稀代の大神秘家が、悩みに悩んだ上での結論だ。さあ、シュタイナーに習って、われわれも「見霊能力」を身につけようじゃないか・・・というところなのだが、人間、無理は禁物だ。とりあえず、できる範囲でがんばりましょう(笑)。
 
 
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